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平井真(3)

 車はビルの間の混雑したよつかどの方へと入っていった。それは昨夜、平井が本多や梨絵子と酒を飲んだあたりだった。そのあとで平井は広美の勤めるバーへいったのだ。それもこの界隈にあった。
「ま、何だな」と本多がいった。もう三人ともかなり飲んで、何年間も会わなかった気まずさから解放されかかってきていた。「みな、落着くところへ落着いたようじゃないか。昔はお互いいろいろといいたい放題もいったものだが」
「ちょっと待ってくれよ」と平井はいった。「おれはまだ落着いたつもりはないんだぜ」
「そりゃ、わかっているがね……」と本多がいいかけた。そのとき梨絵子が口をはさんだ。
「わたしたち、結局、あのころいろいろ思っていたようなことは何もやれなかったわ」
「そりゃ、何もかも思いどおりだったなんていわないさ」
「わたしたちはしきりと世間の常識的な大人たちを批判していたけれど、気がついたらいつのまにかわたしたちがそういう大人になっていたのよ」
「おれたちが空っぽだったてのは本当だ」
 そこへ本多が割りこんだ。「おれには十年後のこういう姿がいくらか見えていたような気がするね。十年経ったら、十としをとっていた。それだけの自分たちを発見して、多少がっかりする姿が、あの若かったころの論争の真只中でも脳裏にありありと映っていたような気がするんだな」
「わたしももちろん予感はしていたわ。だから別にがっかりしているわけじゃないし、わたしだって意志に反した生き方をしてきたつもりはないわ。人生に愚痴をこぼす気なんて、さらさらないわよ。でもわたしは、もしかしたら、と思ったのね。もしかしたら、ちがう生き方ができるかもしれない。もしかしたら、ちがう世界へ行けるかもしれない。もしかしたら、ちがう瞬間をもてるかもしれない。で、いまとなっては、本当にもてたのかもしれないけれど、わたしはそういうふうには生きなかった。あなたたちもね」
「おれはこの世界に過大な期待を抱いたことは一度もなかったよ」と本多がいった。「おれはずっとさめていたつもりだ。現実がどういうものか、おれには子供のころから少々心得があったからね」
「それがどうだっていうんだ」いってしまってから平井は驚いた。そんなことをいうつもりではなかった。飲む速度が速すぎると最初に感じたのはそのときだ。本多もいくらか呆気にとられたようすで、平井の方をぼんやり眺めていた。
 カウンターと、くっつきあったテーブルが三つ四つあるだけの、狭い薄暗い店の中で、三人は並んでカウンターの隅の方に腰かけていた。店は混み合っていた。テーブルでは食事をし、カウンターでは酒を飲んでいた。無遠慮な話し声や食器やグラスの触れあう音がたえずし、コック兼バーテンダー兼給仕の三人の男たちは、料理や酒を作ったり、それをテーブルに運んだり、カウンターのほかの客たちと話したりしていた。給仕たちは礼儀正しく、仲間うちの話があるらしい客たちには、無関心な態度をみせていた。
 三人は食事を終り、ビールからウィスキーの水割りにかえて、飲み続けていた。平井の隣に本多がいて、梨絵子はそのむこうで、肩を半分、壁の、横に木目の見える質素な板にもたせかけていた。ときどき梨絵子が頭まですっかり壁板につけてしまうと、その顔は影のなかに入ってしまってひどく遠くものうげに見え、身を乗り出したり、首を横向けて頬杖ついたりすると、店の灯りのひとつが彼女の顔を照らし出し、快活な調子で早口にしゃべりはじめるのだった。
「どうかしたか」と本多がいった。
「いや、どうもしない。おれはただ、未来に何もないと思っていた人間が、実際未来に何もなかったからといって自慢するに値するだろうかと思っただけだ」しゃべりはじめるともう言葉の方で抑制がきかないようだ。こうなったらなりゆきに任せるしかない。
 本多はたいして笑いたくもなさそうに笑った。「きついことをいうじゃないか」と彼は笑いにまぎらせていった。
「おれは人生にどんな種類の失望も感じてやしない。たしかに人生も世の中も考えていたものより少し違っていたかもしれないが、その差異はいわばおれ自身に属するものなんだ。したがっておれは思いどおりに生きてきたといってもさほどまちがいではないし、今後も思いどおりに生きていくだろう。おれはあらかじめ用心して人生のレベルをひとつ下げておくなんてこともしなかったし、またいまさらあわてて下げようとも思わない」
 しゃべりながら平井は言葉がどんどん空回りしていくのを感じ、しゃべり終ると同時に後味の悪さを感じた。彼はいささか危惧の念を抱きつつ断言し、さらに酒を飲んだ。梨絵子が頬杖をついた手で長い髪を少しかきあげながらいった。
「あんたって相変らず自信満々のおばかさんなのね」
 本多が丸椅子の上でこころもち身をひいた。まずはお手並み拝見というわけだ。
「あんたの言葉はね、いつもこういうふうにきこえるのよ、おれはおまえたちとはちがう、おまえたちのような下らない生き方はしていない。まるでそういってるみたいだわ。でも、あんたって何なの。十年前は失業者、そしていまはコロッケ屋ね。それで、それはわたしたちとどうちがうわけ? 所帯もちの会社員や、勤勉な亭主のおかげで何とか快適にその日その日を暮している、本多君やわたしや、その他大勢の世間の人々とどうちがうの? 待ってよ。あんたのいいたいことくらいは百も承知なんだから。何だっけ。そう、あんたは自覚しているっていいたいんだ。自分が何者かってことを知っている、と。でも、そんなこと、わたしたちだって知っている。わたしたちは平凡に生きてきた人間で、それ以上のことは何もできなかった人間なんだわ。あんたの頭の中に何があろうと、そんなこと、あんただけの問題じゃないこと? あんたはコロッケ屋で、庶民に食料を提供して世の中の役に立っているわ。あんたはそれを自慢してもいい。そしてこれこそ思いどおりの人生だとさんざん自慢したらいいじゃない。でも、だからといって、人の生き方にけちをつけないでほしいもんだわ」
「誓っていうがね」と平井がいった。「おれは人間を軽蔑してなどいないつもりだ。誰の人生にけちをつけるつもりもない。けちをつけられたのはむしろおれの人生なんじゃないのかい。君たちによって、何も知らなかっただの、何もできなかっただのいわれたのはおれなんだ。そこでおれはただおれに関することについてのみ事実と異なる点を指摘したにすぎないのだけれどな」
「もういいわ」と梨絵子は影の部分へと引込んでいきながら、呟いた。「あんたは少しも変わらないわ……さっきまで、一番変ったのは、あんただと思っていたけれど、どうやら勘違いね」
 平井は梨絵子を見つめようとしたが、酔っているようないないような、冴えわたっているような、ぼけているような、おかしな気分だった。影の中で、梨絵子は無関心な眼で彼の方を見ていた。
 飲み過ぎていただけなんだ、と平井は思った。議論なんぞすべきではなかったし、する筈でもなかった。おれは疲れをいっぺんに吹きとばすつもりで、その上多少ぎこちなくもあったので、いくらか速く飲み過ぎた。気持よく酔って口から出まかせしゃべりあって、本多も梨絵子も、おれのことを、変った変ったといって驚き、いかにも社交性にたけた気持のよい人間に変貌したところを見せびらかして、すべてうまくいっていた。そのままお開きにすればよかったものを、疲れと酔いのせいで、きっと何かものたりないと思ったのだな。ほんの少し過大な期待を彼らに対して抱いたのだろう。彼らに対する過大な期待、人生に対する過大な期待……子供のころから少々心得があったからね……心得、か、畜生、それは断じて誇るに価しない。
 車は公園に沿って走っていた。背の高い密生したポプラの葉群が風にざわめき、きらきらと光をはねかえしていた。さっきよりももっと光が強くなったような気がした。ほんとうだ、と平井は思った。梅雨があけたんだ、夏が来たんだ。
 信号の少し手前で、平井は車を降りた。マドリードは道の向う側にあった。店の前に何台かの車に混じって、平井はすぐに自分の車をみつけた。おそらく広美はもういないだろう、と平井は思った。あれはそういう女だ。決してぐずぐずしたりしない。いつだったか、春休みに、やはり彼女が店に出ていた頃、同じように土曜の夜飲みにいって、翌日の午後から郊外を少し乗ってまわろうと約束したことがあった。もう何度目かのことなので、平井は十分ばかり遅刻した。すると広美は見当たらず、平井は一時間もそこにつったっていた。次の土曜日に、平井は十分も待てないのかとなじった。彼女はけんもほろろに、わたし待つこと好きじゃない、といって返した。彼女はそういう女なのだ。
 ところが、道路を横ぎって店の前に立つと、大きな窓の向うで、広美が手をあげた。平井は店の中に入っていった。明るく、冷房がよくきいている。
「三十分でここを出るんじゃなかったのか」
「ちょうど三十分よ」と広美がいった。
 店はかなり広く、それもほとんど満席だった。
「あなた、面白い歩き方するのね。それにかなり陰険な眼付きだったわよ」
「何をいうか、頭が痛いんだ」
 平井はコーヒーを注文した。
「ずっと見てたのに、全然気づかないんだから。かなり眼が悪いわ」
「待ってるなんて思ってなかった。どうして一人なんだ」
「誰がいると思ったの」
「何かの切符をもらったんじゃなかったのか」
「もらったわよ。いく気になった?」
 広美は白い布の大きめの袋から切符を二枚とりだしてよこした。平井は受取って、見るともなしに手の中でもてあそびながらいった。
「だめだ。友達が遠くから来たんだ。会いにいかなきゃならん」
 広美は手早く切符をとりあげて元どおりにしまいこんだ。
「その電話だったの」
「え……まあね」
「でも変ね、誰が番号を知っていたの」
「そう……変かな」
「変よ」
「変かもしれないね」
 コーヒーがきた。平井はコーヒーを飲んだ。とてもうまかった。煙草をすうと、やはりとてもうまかった。広美はゆっくりと彼を観察していたが、平井の煙草を一本抜いて自分もすいはじめた。
「車をやめるべきね」と彼女がいった。
「え……何」
「車をやめなきゃ、今に人をひき殺すわ」
「なあに、大丈夫さ」
「昨日いったこと覚えてる?」
「何かいったか」
「いろいろとね、とても興味深いことをね」
「そうでもないさ」
「覚えてないくせに」
「忘れてもいいようなことだったんだ」
「忘れたいようなことだったんじゃない?」
「どっちでも同じことだ」
 広美はうまそうに煙草をすっていた。少し茶がかったゆったりしたいくぶん粗野な感じのブラウスが彼女によく似合って、かわいらしい。顔も、すらっと伸びた二本の腕もほどよく陽に灼け、健康さと若さを漲らせていた。
「頭痛なおった?」と彼女がきいた。
「何とかね。いくところがあったら送ろうか」
「いいの。少し散歩するから」
 店を出ると、暑さが襲いかかってきた。
「いつ、くにへ帰るんだ」と平井がきいた。
「八月に入ったら一週間ほど旅行して、それからね」
「どこへ行く」
「まだ決めてない」
「きのう、おれが何をいったって」
 広美はいたずらっぽく笑った。「昔惚れた女に会ってきた。そういったのよ。惚れてふられた女にとね」
「ちぇ、たわごとだ」
 信号が変ると、広美は手で合図してみせて道路をわたっていった。平井は車に乗りこんでエンジンをかけた。猛烈な暑さにひとまず窓をあけねばならなかった。道路の向うで広美がもう一度手をあげ、公園の方へ入っていった。平井は歩道を横ぎって道路へ出た。
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