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高橋恵子 平井真

 ぼくの部屋には水島から持ってきた紙箱が山積みされている。中身は屑原稿である。屑だから捨てるつもりなのだが、一応読んでみてから捨てようと思い、読めないままに放置されている。
 今回ちょっと漁った。いま書いている350枚の推理小説の次の作品のめどを立てたいと思って、同じ探偵の短編を二つ書いているのを思い出したのだ。ひとつは出てきた。しかしこれは使えない。固定電話の留守電を使ったトリックで、もはやあまりにも古すぎる。もうひとつが密室トリックで、心理的錯覚を利用した密室なのだ。これがうまくできたという記憶だけが残っていて、どういうトリックだったかをすっかり忘れてしまった。原稿が残っているはずだと思ったので、探してみたのだ。しかし出てこない。どうやら捨てたようだ。思い出すこともできない。あきらめるしかない。
 ところで原稿をかき混ぜているうちにいくつか面白いものを見つけた。詩、戯曲、小説、政治評論に交じって、かなりあるのが文芸評論である。安部公房、サルトル、カミュ、ジッド論などがある中に、「高橋恵子論」を見つけた。書いた覚えがなかったのでびっくりした。今回彼女のことを思い出したばかりだったので、二重に驚いた。13枚で中断している。この紙箱の膨大な原稿がすべて屑である理由がこれなのだ。どれも中断しているのだ。
 原稿によると、高橋恵子の「歓送」と題した45枚の作品が載ったのは、81年12月の「ひろしま」6号である。その時ぼくは35才。「まがね」に入って間なしで、「朝」を書いて赤旗に評が載ったりしたが、間なしだったので、中国研究集会への提出を遠慮した。会場が広島だったか、呉だったか、山口だったか思い出せない。岡山や鳥取ではなかった。高橋は何才だったのだろう。たぶんぼくより少し若いと思ったが、彼女に会ったのがその時限りになったので、何もわからない。
 13枚だが、最初の5枚は全く関係ないことを書いている。柿がおいしくないという人においしさを教える方法についてである。それを書いたことは覚えていた。要するに、心で受け止めるしかないような作品の良さについて、その良さをわかろうとしないような人にどうやってわからせることができるのか、という問題である。ぼくはこれをジッドの「狭き門」論の中で書いたのだと記憶していた。「歓送」は基本的に「狭き門」のような読んで味わう作品であって、論じる作品ではない、でもそれを味わえない人に対して評論に何ができるのか、ということを問いたかったのだ。
 そしてとりあえず、読者の側に誤読がないかということの確認のために、本来ばらばらにしたくない(そっと味わいたい)作品をあえてばらばらにして、そこに書かれていることの意味を解き明かすことから始めようとしている。
 だがその前に、「ひろしま」5号に彼女が書いた短文から、散文に対する彼女の姿勢を書きとめている。即ち、<20代には詩が好きだったが、ある日突然詩が「唯のモノ」に見え、「生き物のように息づく」ことをやめてしまった。そこで散文について考え始めた。散文とは何か。それは詩ではないものである。詩的であってはならない。詩的なものを排除せねばならない>
 こうして詩的なものを排除して書いたのが「歓送」であったのだが、それは充分詩的な小説であった。
 いまちょっと見ると、柿論を展開したところで、ニュークリティシズム批判をやっている。かなりいい加減に、だが痛烈に批判している。ニュークリティシズムが技術論に偏っているという批判である。そう批判できるだけの知識はいま同様過去にも持っていなかったと思うのだが、若さの思いきりの良さだろう。

 この話はそれで終わり。今回見つけたもうひとつの原稿について。
 これも書いた記憶のまったくない小説である。そして例によって未完成の小説だ。書いたのはたぶん「高橋論」と同じころ、80年代の初めだろう。1章が33枚、そして2章が10枚ほどで中断している。まだかなり長くなることを予感させる書き出しである。
 タイトルは「平井真」。主人公の名前だ。そしてかすかな記憶では、「避雷針」を連想させる人物を作り上げたいという思惑があったような気がする。避雷針といってもアースして電流を逃がしてしまうという機能よりも、屋根の上に孤独に突き立っているなんだか尖った野郎というイメージだ。
 数名の男女が出てくるが、要するに団塊の世代が30代を迎えて生き迷っている姿である。
 1章ではほとんど平井真の心象風景という形でまわりの人物の印象が書きとめられ、2章に入って新たな人物も登場し、1章で出てきた人物にも客観的な形が与えられるなどして、物語が解き明かされ始めている。それがかえって2章があると、いかにも中断している、これから始まるという感じになる。1章だけだと、混沌なのだが、混沌としたイメージでの統一が感じられ、ひとつの独立した作品としても読めるのではないかという気がする。
 で、この手書き原稿をちょっとタイプしてみようと思う。33枚、いつ終わるかわからない。ぼくは頭の中にある言葉をタイプするのは苦にならないが、原稿を写す仕事は苦手なのだ。それに350枚が優先する。その仕事が行き詰った時の気分転換としてやっていくつもりである。











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