FC2ブログ

プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
無名人
新潟の同姓同名はまったくの他人
以上

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

サービス労働と剰余価値

 拙ブログ「植田・高原論争への疑問」に植田氏が寄せられたコメント351・352によって、サービスに関するぼくの考えがはっきりしてきた感じがするので、書いてみる。
 その前にひとつの懸念を提示するが、これは当たっているかどうかわからない。
 学者たちはマルクスをもちろんドイツ語で読むが、我々は翻訳で読む。学問的な著述を翻訳するとき、彼らはやまと言葉よりも漢語的表現を多用する。漢語的表現が我々日本人読者に与えるイメージは、やまと言葉よりも学問的で、確定的である。特に形容詞について、たとえば「本源的」と書かれるとなにかとても重々しい感じがする。しかし翻訳される前のドイツ語のイメージとしてはどうなんだろうか。本当にそのような妥協の余地の感じられない言葉で書かれているのだろうか。
 そのような懸念を感じるのは、マルクスの著述が常にすこぶる文学的だからである。その意味は反語が多用されているということである。
 余談だが、学生時代に、友人が単位取得のために提出するレポートだと言って読ませてくれたものを見て、ぼくは笑ってしまった。「共産党宣言」のレポートだったが、資本家階級が封建階級の人道的ふるまいを無慈悲に踏みにじる場面である。友人はそれを言葉通りに受け取って、マルクスの資本家批判だと思ってしまっているのだ。しかしその箇所は(どの箇所だったか、いま確認できないが)、明らかにマルクスの資本主義賛美なのであって、封建勢力の偽善的人道を嘲笑っている場面なのである。
 西洋の小説には反語的表現が多出する。それは日本の掛け合い漫才のような趣きがある。だが、小説を読みなれない読者は、しばしば真面目にとってしまう傾向がある。
 マルクスの書くものは小説ではないが文学的表現に満ちており、反語が多く、それは文章をユーモラスで味わい深いものにしているのだが、未熟な読者には危険な誤解を与えるのかもしれないという気がするのである。
 特に翻訳文の形容詞にかたい漢語が使われるとき、ぼくらはそれがドイツ語ではどういうイメージなのかを確認できないだけに、誤解の生じる恐れが強いような気がする。
 これはぼくには真偽を確かめようのないことだから、ドイツ語に詳しい人の教えを乞うしかないが、そういうことも含めてテキストの読解という問題を頭に入れてかかる必要があると思う。

 本論に入る。
 マルクス経済学の論争史に詳しい植田氏は、金子ハルオの1998年の「サービス論研究」から、この問題への通説と、異論とを紹介する。
 まず言葉通り再現する(金子の言葉か植田氏の言葉かは不明だが)。
<物質的財貨に対象化された労働だけが価値を生む。したがってサービス労働は資本のもとで行われる場合でも価値も剰余価値も生産せず、サービス部門の労働者と資本家の所得は物質的生産部門で生産された価値生産物である「本源的所得」から再配分される派生的所得である>
 これが通説であり、異論はそれの否定であるが、ここでは異論は問題としない。
 この部分を読んではっとしたのだが、これは聞き覚えのある説である。聞き覚えどころか、つい最近までぼくもそう信じていたのだ。このブログで植田・高原論争が始まった最初の頃に、ぼくも半ば植田論に賛意を示して、多少懐疑的にだが、上のような意見を書いた覚えがある。
「資本論」をぼくは数十年前、今回読んだのとほぼ同じところまで読んでいるが、当時は何の問題意識も持たずに読んだ。今回、植田・高原論争の進展と並行して読むことで、何が問題となっており、それをマルクスがどう言っているかが手に取るように分かった。
 結論から言えば、今回ぼくが読んだ箇所(第3篇第8章)までの「資本論」において、金子通説のような内容をマルスクスは一言も書いていない。少なくともぼくが読んだ範囲のマルクス経済学からは、金子通説は出て来ようがない。ではこの通説はいったいどこから生まれたのか。
 通説の内容をもう少しわかりやすく書いてみよう。
「サービス労働者の受け取る賃金は商品生産労働者の生みだした剰余価値である。剰余価値を生みだすのは商品生産労働者だけであり、その剰余価値がサービス労働者に払われるのである」
 言葉は違えたが、意味は違えていないはずだ。ところで、剰余価値という用語を気にせずにその意味したがっていることを汲み取るとすれば、これはこれで、ひとつの分かりやすい経済原理であると言える。
 人はまず食べねばならない。食糧生産は第一の経済的要求であって、最初の労働である。生産性の向上によって、自らが消費する以上のものを生産できるようになった時、そこにもろもろのサービスがはじめて生まれてくる。
 生産力が生産システムを規定し、その上に立つ社会機構、政治組織、学問、法律、哲学、芸術、観念、宗教、道徳を規定する。これは史的唯物論なのだ。人間の歴史を動かしてきた根本原理が何であるかを明らかにした理論である。
 だが、「資本論」はそういうたぐいの本ではない。これは資本の仕組みを明らかにするための本である。
 通説を生みだしたマルクス経済学者たちは木に竹をつないだのだ。剰余価値理論に史的唯物論をつないでしまったのである。
 サービス労働が人類史のどの時点から発生するかというのは、史的唯物論の課題であって、経済学の課題ではない。それは剰余価値とまったく関係ない。
 ぼくも今回「資本論」を読み直すまで、まったく同じ間違いを犯していた。そしてどうもマルクス理論にはおかしなところがあると感じていた。だが、それは読み間違いだったのだ。
「資本論」の読者は、まず最初に「価値」という言葉に消臭剤を振りかけ、そこから道徳の臭いを一蹴してしまわねばならない。「価値」という言葉に道徳のかけらでも残している人間は「資本論」を読む値打ちがない。
「資本論」において、価値とは商品価値である。使用価値は使用価値であってそれは価値ではない。使用価値のないものは価値とはなりえないが、そこに労働時間が消費されねばそれはそのままでは価値とはなりえない。
 この使用価値とは人間の欲望を満足させるものである。その欲望が道徳に適合しているか反しているかは問題ではない。欲望を満足させるものはすべて使用価値である。肉であろうが、映画であろうが、アヘンであろうが、売春婦であろうが、書物であろうが、欲望に応えるものは使用価値である。そしてそのために労働時間が消費されるなら、それは価値となる。
 価値は、欲望に応える労働時間であるから、それは常に消費される。消費されないものは価値ではない。瞬間的に消費されるにせよ、時間をかけて徐々に消費されるにせよ、ともかく消費される。
 資本を考慮する前の段階では、ここまでを本源的規定とすれば事足りた。「資本論」は決して資本の生まれてきた歴史を説こうとする史的唯物論の本ではなく、資本主義の存在を前提としてその仕組みを解こうとしているのだが、その前段階として価値とはなにかを明らかにせねばならず、その価値の本源的規定をここで行ったのである。
 そしてここからは資本の問題に移る。そしてそれを論じるためには剰余価値を解明せねばならない。剰余価値の条件は価値が消費されずに残ることである。
 それがものの生産であろうが、サービスであろうが同じこと、生産されたもの、あるいはサービスが、雇用主によってすべて消費されてしまえば、それは剰余価値ではない。雇用主がそのモノやサービスを客に売って利潤を上げたとき、それが剰余価値なのだ。
 第5篇14章で、「学校教師は、児童の頭脳を加工するだけでなく」と書いているのは、マルクス一流の強烈な皮肉である。児童の頭脳にいかに物質的な改変を加えても、物質的かどうかということはその労働が生産的かどうかということとは関係ない、教師が授業料をピンハネされた時初めてそれは生産的労働になるのだと言っているのである。この部分は、生産的労働には物資的加工が必要だと誤解する読者のために、ユーモラスでわかりやすいたとえを用いて誤解するなよと言っているのであって、いわゆる金子通説に対する強烈な皮肉であると言えよう。
「物質的生産の部面外から一例をあげてもよいのであれば」という部分に植田さんはこだわっているが、これがドイツ語でどういうニュアンスで書かれているかもわからず、重要性を置かねばならない言葉であるとは思えない。翻訳で読む我々は言葉の細かいところにこだわっても意味がないのではないか。それよりも全体の文脈から理解せねばならないものがあるはずだ。
 ぼくがこの問題にこだわり続けるのはすっきりしたいからだ。それ以上にどういう意味があるのかよく分からないが、しいて言えば、「資本論」から何か道徳的なものを引張り出そうとすることへの反発と言おうか。「資本論」は経済の仕組みを解明しようとした本であって、いかなる意味でも道徳の教科書ではない。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す