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植田さんと高原さん

 昨日は古本屋さんについて書いたので、今日は植田さんと高原さんについて書く。

 植田さんとぼくとは似たような場所に立っているように感じる。共産党より少し右寄りというのがぼくの立場だが、植田さんの位置も似ているのではないか。この人の書かれることのほとんどに共感できる。
 マルクスを相当読みこまれている。マルクス後の論争史もある程度カバーされているように見える。
 特徴的なのは、エンジニアとしての立場から、技術、なかんずく情報を、労働のなかにどう位置づけるかというテーマをずっと追及されていることで、その角度からのマルクス批判、マルクス理論の新しい展開を試みられているように思える。
 そこは興味を持ってみてはいるが、ぼくのなかなか入り込めないところでもある。
 サービス労働に関する植田理解は間違っていると思うが、植田さんはそこはむしろ軽く見て、その先の情報問題の方を重視されている。
(植田さんが27日付のコメントでサービスについて詳しく論じておられることにいま気付いた。この文章は気づかないままに書いたので、失礼を許していただきたい。改めて読ませてもらってから再検討したい)。
 時事問題には直接言及されない。それが植田さんの関心の方向からずれるのか、あるいは意図的に無視されているのかは分からない。
 どこにお住まいかも不明だが、この人のプライベートですでに公開されているのは、亡父が町工場の経営者で共産主義者だった、だが、党には批判を持たれていた、詩も書かれる人だったということくらいである。「さざ波通信」や当ブログ上でそういう事情に触れられている。

 高原さんに移る。
 この人は当ブログでぼくの(読みにくい、いささか長い)小説を読んでくださった唯一の人である。もともと娘に頼んでこのブログを作ってもらったのは、小説を読んでもらうためだった。新人賞に応募しても落とされ、同人雑誌で公開するには経費が掛かりすぎる、ブログはタダだ、というわけで始めたことである。
 それがとんでもない勘違いだった。タダだから読んでくれるというわけにはいかなかった。
 そういうなかで、高原さんだけが、長いものを二つも読んでくださり、非常に的確な批評を下さった。文学にしっかりした見解をお持ちの方だ。
 高原さんが読んでくださったのは、「失われた夜のために」と「コスモス」である。改めて感謝の意を申し上げる。
 さて、高原さんとどうしても一致できないのは原発問題である。これについてはブログ上で何度か討論しているのでそれを参照されたい。「原発」で検索すればたぶん出てくると思う。
 問題は、この人がご自身のブログ上で展開されている理論に我々の歯が立たないことだ。何度か挑戦するのだが、途中であきらめてしまう。たぶんこちらの理解能力に問題があるのだろうが、今回、あえて、読めないわけを言わせてもらう。
 論理の筋立てをあらかじめ提示してもらいたいと思うのだ。既存のどういう理論のどの点に疑問を持ち、それをどういう方向に解決しようという目論見のもとに出発しようとしているのか。既存の論理が現実と合わない点はどこなのか。どういう問題が生じてくるのか。解決の方向性をおよそどうつかまえ、どういう展望を抱いて問題に挑もうとしているのか。
 おそらく高原さんは書いているのだろうが、読者の方ではなぜか読みとれない。そこでそもそも方向性をまったく与えられずに丸裸で著述のなかに放り込まれる感じがするのである。
 たとえば、「存在は運動を前提としない」と書かれている。その言葉が誰のどういう言葉に対して出て来たのか。どういう根拠で出てきた発言で、そこから何を引き出そうとしているのか。それがつかめないので、読む側は孤立したその言葉自体に対して反応してしまう。その言葉に対してぼくが感じるのはたとえば次のようなことである。
 運動を前提としないところに存在はありえない。すべての物質を構成している原子は、原子核の周囲を電子が飛び交うことで成り立っている。この原子核の直径と、原子の直径(電子の軌道直径)との関係を見ると、仮に原子核の直径を1㎜とすれば、電子の円周運動の最大直径は百メートル(つまり10万㎜)である。
 つまり原子核を固形物と仮定してさえ、原子そのものを構成している大部分は、その固形部分ではなく、電子の運動部分なのである。その原子核もまたいくつものクォークによって成り立っている。
 サルトルは存在とは存在現象であると言った。まさに、存在しているのは運動だけであって、そのほかには何もないと言うべきだろう。マルクスは運動は物質の存在の仕方であると言った。これが正しいとぼくも思う。
 高原さんはまた観念の存在についても述べられている。しかしこれこそまさしく運動として、現象として以外にはとらえようのないものだろう。
 総じて、この個所で高原さんが「存在は運動を前提しない」と言われた時にその言葉がどこから出てきてどこにつながっていくのかが読みとれないので、結局読者としてはこういう反応をしてしまうわけである。
 例えば天才数学者の書いたものはぼくらにはどうしようもない。高原さんの著述もそういうものなのかもしれないが、ぼくらとしてはもう少し理解しやすいものにしてほしいと願っている。
 この人は岡山市在住である。住所もコメントのどこかで公開されている。まがねの妹尾さんの住まいの近くだ。

 いずれにしても、このお二人は、ぼくの不人気ブログにとってのとても大事なお客さんである。
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