プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

植田さんと高原さん

 昨日は古本屋さんについて書いたので、今日は植田さんと高原さんについて書く。

 植田さんとぼくとは似たような場所に立っているように感じる。共産党より少し右寄りというのがぼくの立場だが、植田さんの位置も似ているのではないか。この人の書かれることのほとんどに共感できる。
 マルクスを相当読みこまれている。マルクス後の論争史もある程度カバーされているように見える。
 特徴的なのは、エンジニアとしての立場から、技術、なかんずく情報を、労働のなかにどう位置づけるかというテーマをずっと追及されていることで、その角度からのマルクス批判、マルクス理論の新しい展開を試みられているように思える。
 そこは興味を持ってみてはいるが、ぼくのなかなか入り込めないところでもある。
 サービス労働に関する植田理解は間違っていると思うが、植田さんはそこはむしろ軽く見て、その先の情報問題の方を重視されている。
(植田さんが27日付のコメントでサービスについて詳しく論じておられることにいま気付いた。この文章は気づかないままに書いたので、失礼を許していただきたい。改めて読ませてもらってから再検討したい)。
 時事問題には直接言及されない。それが植田さんの関心の方向からずれるのか、あるいは意図的に無視されているのかは分からない。
 どこにお住まいかも不明だが、この人のプライベートですでに公開されているのは、亡父が町工場の経営者で共産主義者だった、だが、党には批判を持たれていた、詩も書かれる人だったということくらいである。「さざ波通信」や当ブログ上でそういう事情に触れられている。

 高原さんに移る。
 この人は当ブログでぼくの(読みにくい、いささか長い)小説を読んでくださった唯一の人である。もともと娘に頼んでこのブログを作ってもらったのは、小説を読んでもらうためだった。新人賞に応募しても落とされ、同人雑誌で公開するには経費が掛かりすぎる、ブログはタダだ、というわけで始めたことである。
 それがとんでもない勘違いだった。タダだから読んでくれるというわけにはいかなかった。
 そういうなかで、高原さんだけが、長いものを二つも読んでくださり、非常に的確な批評を下さった。文学にしっかりした見解をお持ちの方だ。
 高原さんが読んでくださったのは、「失われた夜のために」と「コスモス」である。改めて感謝の意を申し上げる。
 さて、高原さんとどうしても一致できないのは原発問題である。これについてはブログ上で何度か討論しているのでそれを参照されたい。「原発」で検索すればたぶん出てくると思う。
 問題は、この人がご自身のブログ上で展開されている理論に我々の歯が立たないことだ。何度か挑戦するのだが、途中であきらめてしまう。たぶんこちらの理解能力に問題があるのだろうが、今回、あえて、読めないわけを言わせてもらう。
 論理の筋立てをあらかじめ提示してもらいたいと思うのだ。既存のどういう理論のどの点に疑問を持ち、それをどういう方向に解決しようという目論見のもとに出発しようとしているのか。既存の論理が現実と合わない点はどこなのか。どういう問題が生じてくるのか。解決の方向性をおよそどうつかまえ、どういう展望を抱いて問題に挑もうとしているのか。
 おそらく高原さんは書いているのだろうが、読者の方ではなぜか読みとれない。そこでそもそも方向性をまったく与えられずに丸裸で著述のなかに放り込まれる感じがするのである。
 たとえば、「存在は運動を前提としない」と書かれている。その言葉が誰のどういう言葉に対して出て来たのか。どういう根拠で出てきた発言で、そこから何を引き出そうとしているのか。それがつかめないので、読む側は孤立したその言葉自体に対して反応してしまう。その言葉に対してぼくが感じるのはたとえば次のようなことである。
 運動を前提としないところに存在はありえない。すべての物質を構成している原子は、原子核の周囲を電子が飛び交うことで成り立っている。この原子核の直径と、原子の直径(電子の軌道直径)との関係を見ると、仮に原子核の直径を1㎜とすれば、電子の円周運動の最大直径は百メートル(つまり10万㎜)である。
 つまり原子核を固形物と仮定してさえ、原子そのものを構成している大部分は、その固形部分ではなく、電子の運動部分なのである。その原子核もまたいくつものクォークによって成り立っている。
 サルトルは存在とは存在現象であると言った。まさに、存在しているのは運動だけであって、そのほかには何もないと言うべきだろう。マルクスは運動は物質の存在の仕方であると言った。これが正しいとぼくも思う。
 高原さんはまた観念の存在についても述べられている。しかしこれこそまさしく運動として、現象として以外にはとらえようのないものだろう。
 総じて、この個所で高原さんが「存在は運動を前提しない」と言われた時にその言葉がどこから出てきてどこにつながっていくのかが読みとれないので、結局読者としてはこういう反応をしてしまうわけである。
 例えば天才数学者の書いたものはぼくらにはどうしようもない。高原さんの著述もそういうものなのかもしれないが、ぼくらとしてはもう少し理解しやすいものにしてほしいと願っている。
 この人は岡山市在住である。住所もコメントのどこかで公開されている。まがねの妹尾さんの住まいの近くだ。

 いずれにしても、このお二人は、ぼくの不人気ブログにとってのとても大事なお客さんである。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
379:植田の関心事 by 植田与志雄 on 2014/10/13 at 09:13:38 (コメント編集)

10/2植田さんと高原さん、に

ときどきこのブログにお邪魔している植田です。石崎さんと高原さんに触発されて自分でも何か言えるなと思ったときに議論に参加させていただいています。私にとって貴重な意見交流の場でいつも感謝しています。ありがとうございます。
私のことに触れていただいたので私が何に興味を持っているか、少し書きます。

*中学生時代はラジオづくりが好きなラジオ少年で、河上肇の貧乏物語と幸徳秋水の社会主義真髄などを始めて読んだのもこのころです。
*エンジニアを仕事としたサラリーマン人生を送りました。エンジニアの視点から社会主義を見続けてきました。
*定年を機会にそれまで考えていたことをまとめることを始めました。これが頭の中の終活で、身体を使う終活として、500世帯の自治会の会長を5年やってます。

*頭の終活の中で社会主義への関心は三つあります。
①社会主義運動は創造活動である。②社会主義運動はなぜ誤り、誤りが長く続いてきたか。③社会主義はどのような質的、量的生産力の上につくられるか。以下これらについて。
①社会主義運動は創造活動である⇒今まで存在していなかったものを作るという意味で社会主義運動も創造活動だろう。創造活動として見ると、社会主義運動には欠けていたものが多い。例えば自己への限りない懐疑、誤りに敏感、「なぜ」を最大限重視する姿勢などなど、創造活動として最重要な要素が殆ど全くと言っていいほど足りなかった。社会主義運動ではそれまでの哲学を批判して「哲学は解釈だけで世の中を変えることを考えてこなかった」とよく言われるけれど、変えることを創造として捉える視点が圧倒的に少なかった。これはエンジニアとしての経験から直感的に感じていた。余談ですがここは日本人には弱いところかと思っていましたが、江戸時代末期の三浦梅園の「枯れた花が咲いて驚くなら、普段咲いている花がなぜ咲いているのかをこそ驚くべきで、万物に対してなぜの姿勢を忘れぬことが大切だ」と出会って衝撃、多くを学びました。入社時から仕事の上でも創造活動自体に関心が大きかったので、社会主義部分を抜いた「アイディアの出し方、アイディアを出すのに大切なこと」としてまとめて退職時に後輩に置いてきました。
②社会主義運動はなぜ誤り、なぜ誤りがかくも長く続いてきたか⇒社会主義は理念づくりから制度設計、実行、点検までを社会主義党が独占的に担ってきていた。だから社会主義の失敗は社会主義党の失敗と言える。恐らくは社会の設計から建設までを巨大な私企業(党)が独占してきた、ここが失敗の元凶だろうけれど、そこは措いて社会主義党自体の失敗について考えました。たしか10年以上まえ、石堂清倫が何かの集会の挨拶で「世界の社会主義運動の早い時期にスターリン主義の病根が撒かれた」と言ったのを覚えています。この病根を自分なりに見つけたいと思っていました。自分自身の身近な経験と重ねてこの病根、社会主義党の誤りを作ってきた作風の大元は「否定形での発想、誤りを検出するメカニズムの欠落、の二つ」と考えました。これは同時に創造活動とも相反するという意味で符合します。前者は岩田昌征さんの最終講義「社会主義は資本主義の否定形としてしか構想されてこなかった」、後者は主にポパーの反証可能性論、がヒントになっています。これは数年前にさざ波に投稿しました。
③社会主義の生産関係はどのような質的、量的生産力の上につくられるか⇒社会主義は資本主義の全成果を吸収して、資本主義の先端から生まれる、とすれば資本主義の生産現場の先端で起こっていることの探求抜きには社会主義の構想は得られない。資本主義の先端で生起する生産活動の中であだ花でない根を選り分けて探したい。現実資本主義の最先端から社会主義の芽を見つけたい。この芽の一つが情報、一般的に言えば非物質的財の生産ではないかと思い至ったのです。野口悠紀雄が1974年の著書で「情報の生産と拡散の制度設計は未来の経済社会を規定するカギ」とすでに言っていました。マルクス経済学はここでも途方もなく遅れてしまっていると思います。蒸気機関がエネルギーと物質的財の生産力をテコに資本主義の生成発展の基礎となったのとアナロジーですが、非物質的財の生産が資本主義と社会主義の分水嶺の一つとなるのでは、と思っています。最近、小さな同好会的な学会で発表しました。

上記①、②、③に対しては高原さんと同じで(失礼!)どこからも無反応ですが、、、。

結局はマルクスから離れられずにマルクスの枠内にとどまり続けてきたエンジニアだった。
最後に、時事問題に何も反応しない言い訳を。ポリシーがあるわけではないのです。誰かに聞いて頂ける内容を持っていないからです。不勉強ゆえ不確実なものは、誰が言っていることでもそれなりになるほどと思ってしまいます。正反対の論のどちらにもなるほどと思ってしまうことが多いのです。単に自分の頭で突き詰めて考えていないだけです。

375:観念の運動その他について  高原利生 by 高原利生 on 2014/10/09 at 11:11:19 (コメント編集)

364:常識と仮説設定の高原さんに by 植田与志雄 on 2014/10/03
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-462.html#comment364
について。
(引用HTTPが違っていたので直しました。20141012)

 最近、石崎さんのブログの投稿者が多く、「最新のコメント」が溢れてしまうと、来ていることを見逃してしまうのです。3日のコメントに、今日9日に気付きました。失礼しました。
 ブログ462のコメントへの返信なのですが、本ブログ470についてなので、こちらにしました。

 高原は、無意識に、概念の大きなものから小さなものへ、という順番で書かないと分かってもらえないと思って書いていました。それで、
 349:常識と仮説設定   高原利生 by 高原利生 on 2014/09/18
 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-462.html#comment349
で、
 1. オブジェクトに存在と関係(運動)の二種がある。関係、運動、作用、過程、変化は、同じものを違う粒度で見た表現である。
 2. 存在にものと観念の二種がある。観念はものを前提とする。運動に、位置的,物理的,化学的,生物的,社会的運動,観念の運動である思考を含む。
という順で書いています。
 これは、同時に分からないと、全体が分からない。理由がよく分かりませんが。

 1は、オブジェクトは、存在と関係(運動)で尽きている、網羅されている、ということ、
 2は、存在は、ものと観念で尽きている、網羅されている、ということ
を表しています。

 1の石崎さんへの説明を、
 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment361
 361:「失われた夜のために」と「存在は運動を前提にしないが、関係(運動)は二つの存在を前提とする」 by 高原利生 on 2014/10/03
に書きました。

 カントは、「存在と関係」がある説明を、そこでの引用文の後、一ページ半に渡って書いています。マルクスは、説明を書こうとして失敗しています。
 ここで、カント、マルクスは、「二つの存在と関係」がある、とだけ書いています。
 それを、高原は、知覚できるオブジェクトは、存在と関係で網羅されている、関係は、運動、過程、、と同じ、と拡張した。これは飛躍かもしれません。マルクスは、「二つの存在と関係」で網羅されていると言っていると思ったのです。
 エンゲルスは、フォイエルバッハ論で、世界は、ものの総体でなく、諸過程の総体と書いています。Not only, butでなく、not, butなのです。僕の言葉では、エンゲルスは、オブジェクトは、ものでなく、過程だと言っている。過程というのは、運動、関係、、の別名なので、高原が、オブジェクトは、存在と関係、または存在と運動、存在と過程、というのは、エンゲルスより、「まし」だろうとも思いました。

 観念、思考については、下記をご覧ください。石崎さんへの説明の補足になるかもしれません。
 以下では、思考のメカニズムを一切問題にしていません。
 他人の「観念」は、本や音声など「実体に担われ認識できる観念内容」で簡単なのですが、自分の「観念」が面倒です。概念、観念、感情の固定的な面を、存在と扱い、思考の結果に変化があったり感情に変化があったりすれば、観念や感情が運動したと考えることにした。それだけです。ここではこれで十分と思いました。 他にオブジェクトをとらえる視点はないと思いました。ここでは、哲学、思想、感情の中身を問題にしないので。

 高原の「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」
 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html
で、今までの概念の要約を次のように書いています。

 オブジェクトは、世界の観念上の静的単位で、知覚できるものであり、存在: システムオブジェクト、と相互作用(=運動):プロセスオブジェクト、の二つがある。さらに種類という面から、存在を、ものと心(自分の心と、他人の心のうち認識可能な物理的実体に担われたもの)に分ける。
  (存在間の) 関係 、 (存在間の) 作用、 (一つの) 運動、 (時間軸上の) 過程、 (結果としての) 変化は、同じものを、違う属性の粒度で見たものである。まとめると次のとおりである。
 1.物 :存在
 2.(固定化してとらえた) 「観念」:存在
   21. 実体に担われ認識できる観念内容
   22. 私の精神
 3.(存在間の) 関係 = (存在間の) 作用= (一つの) 運動=( (時間軸上の) 過程= ( 結果として) 変化
 運動は位置的運動に限らず、物理的、化学的、有機的、社会的運動、人間の行動、観念の運動を含む。
 作用は必ず相互作用である。
 運動について分かっている前提を整理する。
 実用上、運動しているかどうかの認識は、通常は、変化を観測できるかどうかによっている。その上で、運動を、ある状態にあり、同時にある状態にないという「論理的」矛盾として理解する。運動を直接観測できない観念について、やむを得ず、変化が観測できれば、運動と理解することによって思考や感情の運動を扱う。
 一般的運動の場合、変化の観測を用い、その属性が「ある状態にある」と同時に「ある状態にない」ということを次のように表現することができる。これは、運動の構造を示さない、最も粗い密度での運動表現で、論理的矛盾に似ている。 通常の意味の論理的矛盾ではなく、「論理的矛盾」的矛盾、ないし「論理的」的矛盾であるが、これを「論理的」矛盾と書くことにする。
 Aが一般的 (位置的、機械的、化学的、有機的、生物的、社会的) 運動をしているとする。
 ある時点t で、Aがcという値の「ある状態」にあり、時点t +⊿tで、Aがcに等しくないc +⊿cという値である時、Aは「ある状態にない」。
 ⊿t をゼロに近づけていくと、⊿cがゼロに近づいていき、⊿t をゼロに限りなく近づける極限で、⊿cがゼロに限りなく近づいていくことを、「ある状態にある」かつ「ある状態にない」という。

 植田さんが、
 「具体的な目の前の現実を新しい切り口(オブジェクト、存在と関係、、、)で切れ味よく捕まえてくれたら、そして今までの「常識」では得られなかった視点を示してくれたら」
と言われるのは、もっともです。
 特に、まだ、公表されていませんが、2013年、2014年の論文には、努めて理屈の例を入れています。
 初期のオブジェクトについて書いてあるものを見ていただければ、(「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」にリンクがあります)オブジェクトや機能の例が多く載っています。特に、FIT2004の「オブジェクト再考」(リンクは、高原利生論文集1に入っています)で、機能について考察していて、運動の属性が機能だと書いてあります。人に役立つ機能は、ものの運動が提供しようが、人の運動という「サービス」が提供しようが、同じです。これは、資本主義以前も以後も同じです。石崎さんの理解と同じです。歴史的に、人の運動という「サービス」が提供する機能は、人の歴史と同じ長さを持ちます。むしろ、ものが提供する機能より、サービスが提供する機能の方が歴史は長い。最後は、一部、今までの繰り返しになり、失礼しました。

 分からない点を言っていただき感謝しています。

373:論理の筋立てをあらかじめ提示することは可能か  高原利生 by 高原利生 on 2014/10/06 at 20:07:42 (コメント編集)

論理の筋立てをあらかじめ提示することは可能か  高原利生

http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html 植田さんと高原さん への返信(二回目)です。
(20141106改行を追加)(20141007、「第三の弁解に」、「これが少し分かってくると、特に、他人や集団の議論の粒度が全部違っている、と思うようになりました。粒度が全部違っている、と思うようになったのは、おそらく、オブジェクト、粒度、矛盾、これらを規定する価値の四つが違っていることが分かって後です。なぜそうなのかは、分かりません。おそらく全部分かると一部も分かるのでしょう。もしそうであれば、僕の言っていることは、殆ど理解不可能になる恐れがありますね。」を追加)

 石崎さんが、高原の文章の分かりにくさについて次のように言われました。

 「論理の筋立てをあらかじめ提示してもらいたいと思うのだ。既存のどういう理論のどの点に疑問を持ち、それをどういう方向に解決しようという目論見のもとに出発しようとしているのか。既存の論理が現実と合わない点はどこなのか。どういう問題が生じてくるのか。解決の方向性をおよそどうつかまえ、どういう展望を抱いて問題に挑もうとしているのか。」
 まことに、ごもっともです。退職後、最初の論文を出した時に、ある人から、文章が独断的過ぎることを長文で反論されました。数年前のシンポジウムでも、高原の論文は、こういう問題があり、それをこう解決すると言うストーリーが見えないと言われました。僕の文章は、論文でもそう、短い文章でもそうですね。
 書いたつもりでも、不十分です。最近、気を付けているのですがなかなか直りません。
 僕の原発とか、他の政治についてはどうでしょうか?抽象論だから分かりにくいのか?
 以後、抽象論についての分かりにくさを述べます。もちろん、論理が違っていて分かりにくい点は触れません。用語が分かりにくい点も触れません。

 以下、読む方の中には、高原は、大げさにとらえすぎていると思われる方もいらっしゃると思います。しかし、ことの本質に関わる問題だと思いますのでお許しください。
 「論理の筋立てをあらかじめ提示してもらいたい」と言われる内容が二つありますね。

1.まず、「既存のどういう理論のどの点に疑問を持ち、(中略)既存の論理が現実と合わない点はどこなのか。どういう問題が生じてくるのか。」という点です。
 いきなりですが、これは、本来、不可能だと思います。論理の筋立てをあらかじめ提示することは本質的に不可能です。それでは、分からないではないか、分からなくても、何とかそれを書くことが必要ではないか、と言われるでしょう。

 取り敢えず、情けないことですが、このことの弁解から始まります。
 第一の弁解。
 問題が提起されたら解けたと同然と言う意味の言葉は、いろんな人が言っています。マルクスは、「人は、解決可能な問題だけを提起する」だったと記憶します。どこだったか忘れました。
 僕は、極端に言うと、問題が解けたと思った時に、始めて問題が分かった気がするが、実は解けていないことが多いと思います。実は解けていないのに、解けたと思わせてしまうのは、書くものの失敗だと思います。マルクスのことを思いながら書いています。書いたほうの責任ではないかもしれないです。
 高原のホームページ
http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/
の「本の読み方」に書いた、「未完の著書だけが良い、生きている」と書いた理由は、この弊害がないゆえです。完成した著書は、死んでいる。良い未完の著書として挙げるのは、デカルトの「精神指導の規則」、マルクスの「経済学・哲学手稿」、パースの諸論文です。退職以降、本は読まない主義で通していますので、読んだわずかの中に限定された例です。

 何か分からずに書き始める。書いていくうちに、何が「問題」か分かりだし、考えた末解ける、大抵は、解けたように見える。始めに戻って、最初から問題が分かっていたふりをして、こういう問題がある、と書き、解決方法と解を書く、というのがフツウのパタンでしょうか。資本論の序文で述べられた研究の方法と叙述の方法とは違う話です。
 要するに、前に戻って書き直すと、一応、解決するはずなのですが、僕にできない。「一応」でも、それは、屁理屈を言わず、しなければならないことです。反省しないといけない。なぜできないのか自分で謎です。

 第二の弁解。
 もう一つも弁解になりそうです。
 僕の(広い意味の)「問題解決」の論文の内容に、「差異解消の理論」という名前を付けていただいたのは、中川徹教授です。中川徹教授のホームページに「高原利生論文集」を作っていただいた方です。
 差異解消、(広い意味の)問題解決に、三種類あり、新機能追加、(狭い意味の)問題(不具合)解決、理想化です。三つの粒度、視点といってもいいかもしれません。理想化というのは、いまあるものをもっと良くする改良です。
 三種類ある差異解消、(広い意味の)問題解決は、あるべき姿と現状の線をどこで引くかの違いがあるだけです。同じものを違う粒度で見たもので、どれでも解けるということが分かっています。そもそも「問題」(problem)と言う語は、評判が悪く、英語では、political issue, business issueですね。
 要するに言いたいことは、扱う範囲は、世界の全issueだということです。つまり、狭い意味の「問題」ではない。これは揚げ足取りですね。

 第三の弁解。
 これで弁解は終わりかと思っていたのですが、もう一つ弁解があります。これが、最初の弁解の解説かもしれません。問題解決でも差異解消でもいいのですが、それらのための思考のプロセスは、一直線に進まない。ああだからこう、こうだから結論というわけにいかない。
 その理由は、弁証法の世界観にいうように、全ての物事は関連し変化するからです。そうでなければ、変化、あるいは変化の単純な積み重ねだけで物事は解決する。
 しかし、実際には、目的を達成しようとして、何かを変更すると、全ての物事は関連し変化しているから、単純化して言えば、変える必要のない別のものも変わってしまう「副作用」が起きる。
 そのために、オブジェクトだけでなく、相互作用を扱う矛盾という、世界の事象を扱うモデルが要る。矛盾が、二つのものの相互作用を考える最少のモデルなのです。つまり、全ての物事は関連し変化しているのに、単純化して「副作用」を別の1オブジェクトに限定するモデルであることが、最少のモデルである所以ですね。この矛盾の合成の仕方にも複数案があります。矛盾という、二つのものの相互作用の機能は、一つのものの変更か二つのものの両立です。
 また、矛盾モデルでなく、複数変数の両立をそのまま扱うモデルもあります。

 昨日(2014年10月5日)から、書き始め、今、孫と分かれ、書くのを再開して、気が付いたのは、大体、僕は、退職以来11年半、問題を解決するために何かを書く、という意識はなかった、ということです。論文では、そう書けと求められるので、しようがなくそう書いていた。
 書いている内容が、あらゆる「問題」を解決するのでは、と思い出したのは、この一年です。
 今の時点でやっと言えるようになった一番目の「問題点」は、大きな世界の課題解決から、発明,発見や、政治や、人の日常生活に至る様々なあらゆる物事を考える基本概念は、ある価値のもとで、オブジェクト、粒度、矛盾の三つである。これらを規定するのが価値です。この四つについて、今は、世の中の全てが違っている、ということです。
 これが少し分かってくると、特に、他人や集団の議論の粒度が全部違っている、と思うようになりました。粒度が全部違っている、と思うようになったのは、おそらく、オブジェクト、粒度、矛盾、これらを規定する価値の四つが違っていることが分かって後です。なぜそうなのかは、分かりません。おそらく全部分かると一部も分かるのでしょう。もしそうであれば、僕の言っていることは、殆ど理解不可能になる恐れがありますね。
 二番目の、この基本概念を用いた応用問題も、今は、世の中の殆ど全てと違う意見になってしまった。石崎さんの政治についての意見は例外で、僕は、ほとんど石崎さんに近いように見えるのです。原発については別ですが。ほとんど石崎さんに近いというのも誤解をまねくかもしれません。これは別途、書かせていただくつもりです。

 でも、これも、おそらく、本当は「問題」ではない。結論がまずあり、その従来との差を述べているだけです。問題の形にしないといけないのでそうしているだけです。つまり、(広い意味の、ですが)問題を解決しようという気は、端から、なかった。突如、問題が解決することが分かった。気のないものを気があるように書かないといけない。

 しかし、まず、おおよその全体が分かり、少しずつ、詳細が分かって行く、、という順でないと、読む人には分からない。
 話がずれたように見えるかもしれません。この、「おおよその全体が分かり、少しずつ、詳細が分かって行く」という順、内容もよく分からない。最近、ホームページでは、分かるように努力しています。僕には難しいです。

2.次の、「それをどういう方向に解決しようという目論見のもとに出発しようとしているのか。(中略)解決の方向性をおよそどうつかまえ、どういう展望を抱いて問題に挑もうとしているのか。」
についてはまた別の形で述べます。今回はここまでにさせてください。長くなりました。多分、今回も分かりにくく恐縮です。

361:「失われた夜のために」と「存在は運動を前提にしないが、関係(運動)は二つの存在を前提とする」 by 高原利生 on 2014/10/03 at 00:28:13 (コメント編集)

http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html 植田さんと高原さん への返信

 石崎さん、ありがとうございます。
 「失われた夜のために」と「コスモス」の感想を評価していただいてうれしいです。
 特に、「コスモス」については、自分のためのメモになってしまい、失礼しました。この戯曲が上演されればぜひ見たいと思います。
 「失われた夜のために」の最終章とそれ以前の章の落差というか飛躍は、今でも気になっていますが、この落差があってもいいのではないかと思っています(そう、どこかに追加で書いたような気がします)。もし追加されるとしたら、この飛躍をそれとなく意識させるような何か一言を、最終章の頭か、その前の章の終わりに追加すればいいのではないか?
 小説について何か書いたのは、孫が貸してくれた「ルドルフとイッパイアッテナ」をAMAZONの書評に書いたのと、この二件だけです。
 「文学にしっかりした見解をお持ちの方」というのは多分誤解です。ただ、今は、基本的に本は読まない主義で生きていますが、そうでない昔は、読む本と言えばほとんど(中編までの)小説でした。
 
 何を読んだかほとんど忘れてしまいました。大江さんの「空の怪物アグイー」と三島の「英霊の声」は頭に残っています。それと今は「失われた夜のために」と、戯曲ですが「コスモス」ですね。三島と一緒にされて御迷惑でしょうが。

 書くものが、多分、独りよがりなのを反省しており、反省の言葉などを、高原利生ホームページhttp://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/に書いています。まだまだ反省が足りないですね。
 今まで僕の論文をほめてくれた人は、この世に3人しかいません。その中の中川先生は、TRIZホームページで、「用語が分かりにくい」として、高原の用語集を作っていただいています。新しい用語を作れば楽なのですが、出来れば今ある用語を使いたい、今ある用語を、既存の意味を含んで定義しなおして、使っていますが、少し意味がずれる、それも分かりにくさを生んでいる一因でしょう。

 ご指摘いただいた例は、「存在は運動を前提にしないが、関係(運動)は二つの存在を前提とする。」というところですね。
 336:オブジェクト、属性、労働  高原利生 by 高原利生 on 2014/09/15
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-415.html#comment336
 349:常識と仮説設定   高原利生 by 高原利生 on 2014/09/18
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-462.html#comment349 で、
 「オブジェクトに存在と関係(運動)の二種がある。関係、運動、作用、過程、変化は、同じものを違う粒度で見た表現である。
 存在は運動を前提にしないが、関係(運動)は二つの存在を前提とする。」
と書きました。

 今日の高原利生ホームページに書きましたが、まず
 「粒度という概念がある。物事を扱う単位といっていい。正確には、粒度は、扱うものの空間的時間的範囲、属性の範囲である。粒度の定まった粒も、慣例に従い単に粒度という。
 通常、人は、無意識に、自分のある価値に規定された粒度を固定観念として持ってしまっている。粒度が先なので粒度を間違うと、論理、方法は間違う、または他人と話が通じない。」(この「価値」はフツウの価値です。マルクスの価値ではありません)

 粒度で、世界から扱うオブジェクトを切り取ります。
 「オブジェクトに存在と関係(運動)の二種がある。関係、運動、作用、過程、変化は、同じものを違う粒度で見た表現である。」
 これも分かりにくいと思います。
 上の336で、オブジェクトが存在と運動(又は関係)の二つであるということを「あと一歩でマルクスはとらえ損ねました。エンゲルスは、過程という概念で、その重要さをよく理解していたが、運動、過程については、マルクスは足らなかった。
 なぜ、オブジェクトの話を出すかというと、マルクスに情報概念が足らないからサービス労働をうまくとらえられなかったのでなく、オブジェクトのうち、運動、運用が機能をもたらすことの把握の弱さがあったのではないかと思うからです。」
と書きました。

 オブジェクトとは何かということを、二年間考えた末に、めぐりあったのがカントとマルクスでした。
 「一切の実体は、空間において同時的に存在するものとして知覚される限り、完全な相互作用をなしている」(カント、「純粋理性批判」 二版1787、第二部門, 第一部, 第二篇, 第二章, 第三節, 3, c,篠田訳, 岩波文庫上, pp.286-294, 1961.)
 「対象的,自然的,感性的であるということと,自己の外部に対象,自然,感性を持つということ,あるいは第三者に対して自らが対象,自然,感性であるということは,同一のことである」(マルクス、「経済学・哲学草稿」1844、岩波文庫、城塚登、田中吉六訳1964.p.223)
 「太陽は植物の対象(オブジェクト)であり,植物には不可欠の,植物の生命を保証する対象である.同様にまた植物は,太陽のもつ生命をよびさます力の発現,太陽の対象的な本質力の発現として,太陽の対象なのである」(同)
 「それ自身が第三者にとって対象でない存在は,いかなる存在をも自分の対象として持たない.(中略) 非対象的な存在とは一つの非存在である」(同)
 このマルクスの言葉に、関係という言葉や相互作用という言葉はありません。 しかし「太陽は植物の対象であり」ということは、「植物には不可欠の,植物の生命を保証する対象である」ということであり、太陽が、植物の生命に必要な何かをあたえる関係を持っていることを表現し、驚くべきことは、この逆の「植物は,太陽のもつ生命をよびさます力の発現,太陽の対象的な本質力の発現として,太陽の対象なのである. 」ということは、植物が、太陽にとって意味のある対象、オブジェクトだと言っている。これは読んだ当時、衝撃でした。アニミズム一歩前までマルクスが行っていることに、です。

 カント、ヘーゲル、ニュートンの時代は、双方向性を発見した時代なのだと思います。要するに、彼らは、「何かー双方向関係―何か」という三つ組みを発見しかけた。双方向関係は、関係と同じです。関係は、必ず双方向ですから。   ニュートンの作用と反作用は等しいというやつですね。関係は、作用と反作用に等しく、弁証法の教科書に言うようにこれは運動に等しく、時間軸で見れば過程に等しく、結果を見れば変化に等しい。
 今から見ればこれが当然なのですが、しかし、カント、ヘーゲルは、二人とも、存在、一方向関係、双方向関係、という記述の順番なのです。ヘーゲルはこの順に概念は発展すると考えた。
 要するに、ここでの文章が分かりにくいマルクスを含めて、ですが、当時、だれも、この三つ組みの把握は、不十分だったと思います。ヘーゲルがよく分かっていなかったのに、マルクスが分かるはずがない。
 (しかし、「経済学・哲学手稿」「経済学・哲学草稿」を、ここを別にして全体としては、強固に固定された双方向関係をどう打ち破ればいいのか?を扱ったノートとして読みました)

 この「何かー関係―何か」または「何かー運動―何か」という三つ組みが「矛盾」です。ヘーゲルの正反合とは違います。
 世界のあらゆる現象の表現単位として、この三つ組みをとらえたい。問題は、世界のあらゆる事実、現象の最小単位である「何かー関係―何か」または「何かー運動―何か」における「何か」とは何か?
 石崎さんが言われるように、関係や運動のない存在はない。
 「オブジェクトに存在と関係(運動)の二種がある。関係、運動、作用、過程、変化は、同じものを違う粒度で見た表現である。
 存在は運動を前提にしないが、関係(運動)は二つの存在を前提とする。」
という最後の文の後半「関係(運動)は二つの存在を前提とする。」の意味は、事実の最小単位である「何かー関係―何か」または「何かー運動―何か」における「何か」とは、「存在」だということです。
 では、前半「存在は運動を前提にしないが、」は何を言っているか?運動のない存在はあり得る、考え得る、という意味です。運動なり関係は、何か外に二つないと考えられないのに対して。
 マルクスは、26歳時点では「考えた」末に、「それ自身が第三者にとって対象でない存在は,いかなる存在をも自分の対象として持たない.(中略) 非対象的な存在とは一つの非存在である」という結論を出しました。マルクスにとって、対象でないという意味は、関係しない、運動しないという意味です。この非存在の英訳は、non beingですが、ドイツ語の原語は「お化け」という意味があるそうです。

 石崎さんの疑問は、説明しないと分かりませんね。自分で、こういう意味だったと始めて分かりました。以上の説明も、自分だけが前提にしている内容が多分あるのです。分かりましたでしょうか?
 でも、何で僕の文が他人に分からないのか、自分で分からないので、分からない点を言っていただくのは大変助かります。ありがとうございました。

 存在と運動、または同じことですが存在と関係という二種でオブジェクトの要素が網羅されているというのは、普及していません。少なくともTRIZでは。しかし、重要と思っています。それでこの11年、多少苦労してきました。
 そして、これは、植田さんや「マルクス主義経済学者」が、サービスを論ずるときの必要な前提だと僕は思います。

 小説と「存在は運動を前提にしないが、関係(運動)は二つの存在を前提とする」についてだけで、十分長くなり失礼しました。明日、もう少し続きを書きます。

▼このエントリーにコメントを残す