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マルクス雑感

 煙草のない人生を表現できる言葉に、たどり着けないでいる。どう言ってみても実感とは食い違う。このイライラ感。ぼうっとした感じ。つかみどころのない日々。生活のなかの失われてしまったアクセント。いましも爆発の予感。
 さまざまに矛盾した気分に引き裂かれている。
 昨日、小説にとりかかろうとかなりの時間試してみたが、結局、駄目だった。小説の頭脳にはどうしてもなれない。
 で、この機会に読書しようと本を開く。すると眠ってしまう。眠っているときが一番楽なのだ。下手をすると一日眠っている。
 頭の動かないときは身体を動かすべきなのだろう。自転車の遠乗りを再開せねばならない。庭木も手入れを待っている。そう思いつつも、言葉を表出することなく一日過ごすのも、それはそれでまたストレスなのである。きれぎれの言葉が頭の中をぐるぐるまわっている。
 で、今日は少し政治的なテーマで書く。小説以外なら、まだなんとか書けるのだ。

「デボーリンの墓守」さん(できたらこの言葉の由来を教えてほしいが)からコメントをいただいたことはうれしかった。というのはこの人とぼくとははっきり立ち位置が違い、しかも、おたがいそのことは十分認識しているということがひとつ、そして、にもかかわらず、たいへん気配りの行き届いた紳士的なコメントだったので、なおさら嬉しかった。
 まだ若い人らしいが、豊富な知識を駆使しての古本屋さんとのやりとりを、興味深く読ませてもらってきた。そして、あるテーマでは「墓守」氏に共感し、他のテーマでは古本屋氏に共感した。
 具体的には、従軍慰安婦と都議会ヤジでは「墓守」氏、部落問題では古本屋氏である。
 ぼく自身の意見はわかりやすい。ほとんどのテーマで日本共産党と一緒だと思ってもらえばよい。つまり、しばしば話題に上る身近なテーマではという意味だ。
 原発問題では、3.11以前の共産党はあいまいだったが、いまは同じ立場に立った。だから表面的なテーマでは共産党との間に大きな食い違いはほとんどなくなった。(原発は高原氏との間でどうしても一致できないテーマなのだが)。
 それでも共産党と一致できないのは、その綱領と規約に関してである。すなわち共産党の世界観、歴史観、将来展望、そしてその組織論、運動論などに対して大きな違和感がある。
 ここで再度古本屋氏と「墓守」氏とを振り返っておくと、「墓守」氏はかなり原則的なマルクス主義者として、その主張はわかりやすい。古本屋氏は、古本屋主義者ともいうべき独特の主張の持ち主で、それぞれの事象に対してどういう見解を示すか予測しがたい。そこに一貫しているものが何なのかを見極めにくいのだ。
 そこでとりあえず「墓守」氏をマルクス主義者と呼びたいが、「墓守」氏がマルクス主義者だとしたら、ぼくのほうはマルクス主義者ではないということを表明せねばならないだろう。
 逆に、日本や欧米の議会を、もしブルジョワ議会と呼ぶとしたら、ぼくは自分がブルジョワ議会主義者なのだと明言せねばならないことになる。
 ところで、ぼくは名前に重きを置かない。名前に何かを意味させようとすればそれは恣意的なレッテル貼りになる。大切なのはその内実であって名前ではない。
 だから「呼ぶとしたら」という条件のもとで主義を名乗るしかないのだ。
 ブルジョワ議会は欠陥だらけの制度だが、いまのところ、人類が実現した最も優れた制度である。これを越える制度をまだ誰も提起できていない。旧ソ連や現中国の人民代議員制度は、民主主義を偽装した封建制度であって、我々の側の議会とは比較すべくもない。
 日本共産党は、その実質ではすでにぼくとほとんど変わらないように見える。ところが綱領規約で、古いマルクス主義をいまだに引きずっている。ぼくはこの部分を無効だと考える。
 これについては以前にたくさん書いたので、ここでは繰返さない。以下のものを参照してほしい。
 日本共産党への質問状 13/05/30
 不破哲三「新・日本共産党綱領を読む」批判 13/05/31
 日本共産党について 1~9  13/04/01~04/10
 共産党大会決議案とエガリテ批判文 1~6 13/12/02~12/07

 ところで古本屋ブログの良い点のひとつは、主宰者に反する言論でも、資料価値を認めれば掲載するという点だ。今回、朝日バッシングへの赤旗による批判文を掲載した。ぼくは赤旗を読んでいないので、こういう掲載は助かる。
 そのなかで赤旗が主張しているのは朝日バッシングの異常さ、吉田証言が慰安婦問題にとっては枝葉末節にすぎないこと、それをもって慰安婦問題がなかったことにはできないということである。斎藤美奈子や中島岳志の言っていることと一緒だ。
 ぼくは慰安婦問題の資料を詳しく読んだわけではないが、右翼がネットに書いていることくらいは一応目を通している。そして共産党の出すしっかりした文章と、右翼の文章のどちらを信頼するかといえば共産党である。
 古本屋さんの場合には、この問題に韓国政府への評価の問題が絡んでくる。慰安婦問題をこういう角度から論じるのは、ぼくの知る限り古本屋さんだけだ。そして、これはぼくにはとうてい理解できないことだ。それはぼくがブルジョワ議会主義者だからだと言われてしまえば、返答のしようがない。しかしマルクス主義者の「墓守」さんは、マルクス主義の立場から、慰安婦問題を批判している。共産党もそうだ。だからいっそう古本屋さんの立ち位置が分からないのだ。

 都議会ヤジ問題はぼくにとってセクハラ問題というよりも、議員の責任問題である。ヤジを飛ばしたいときはあるだろうし、それが思わずセクハラ発言になってしまうこともあるだろう。しかし、議員が議会で発言している以上、それがヤジであっても、その発言には責任を持つべきだろう。こそこそ逃げ隠れした、いまだに何人もが逃げ隠れしているということが情けないと思うのだ。間違っていたと思えば謝ればいいし、正しかったと思えば正しいと言えばよいのだ。発言するために議会にいる人間にはそういう義務が伴うだろう。
 セクハラ自体は古本屋さんもいろいろと書いているとおり、複雑な問題であって、ひとことで言えないところがある。それは別の場で論じてくれればよい。
 ただこの問題で古本屋さんが、タレントに議員の資格なしと発言し、資格のない議員だからどんなヤジも甘んじて受けるべきだとしてしまったことはやはりぼくの理解に余る。
 ぼくが理解できないのは、ぼくがブルジョワ議会主義者だからだそうだ。つまり日本の法律に沿って日本の問題を論じてはならないと言われているわけだ。
 百歩譲って、法律が間違っており、まちがった法律のもとでの議員には議員の資格が無いものとしよう。ならばどういう法律を作れと言うのか。タレントには立候補資格はないと書くのか。タレントを法律の条文としてどう定義づけるのか。特定の対象者を差別する根拠は何なのか。憲法にはどう書くのか。これこれの人物は差別すべきであると書くのか。その理由をどう書くのか。
 おそらくブルジョワ議会主義を認めない人にとっては、法律などどうでもよいのだろう。彼らにとってはすべてが権力闘争なのだから。だから法律の条文などを問題にするのはチャンチャラおかしいのだ。
 しかし、同じマルクス主義者でも、「墓守」さんはそうではない。共産党もたぶんそうではないだろう。(共産党がこの問題をどう言っているのか、ぼくは知らないのだが)。

 部落問題も、ぼくがほとんど知らないテーマだが、いままで見聞きしてきた限りでは、これは古本屋さんに分があり、「墓守」さんの主張は無理なように思える。
 福山に帰ってきて、文学関係で何人か元教員の人と話す機会があった。彼らの口から出てくるのは解放同盟にどれだけむごい目にあわされてきたかという話である。呉の元教員からもそういう話を聞いた。いきなり差別者扱いされて法廷に訴える決心をしたその人は、弁護士から、「たたかうのは弁護士ではなくあなた自身だ、どこまで本気でたたかう決意があなたにあるか、もし本気でたたかうつもりなら共産党に入る以外に道はない」と言われて、入党したそうだ。ブルジョワ議会主義の法律では守りきれない世界なのだろう。
 ただ、京都にいた時分に多少部落出身者と話す機会があった。彼らがいかにひどい目にあってきたかも理解できる。だから生半可の知識では口をつっこめない世界のようには思える。

 いま香港で学生たちが祭りを始めた。ぼくはこの先の展開を憂慮している。台湾でも、つい最近学生たちの議会占拠があったが、あそこでは政府が学生たちに気を使った。学生たちも政府の紳士的態度に紳士的に応じて撤退した。
 中国政府は無慈悲に彼らを虐殺しかねない。いまは力関係が香港の学生たちに圧倒的に不利だ。香港の民意はそこだけ部分的に傑出しており、大陸全体の後進性のもとでは孤立している。学生たちは、自殺する決意でないのなら、時機を見て手を引くべきなのだ。
 天安門のときにもぼくはそれを感じた。そろそろ限界だと思ってハラハラしていたら、鄧小平が戦車でひき殺した。今回だってそうなりかねないのだ。たたかいは力関係を見て慎重にやるべきだろう。

 基本的に、香港も、台湾も、ウイグルも、チベットも、そして琉球も独立すべきだというのがぼくの考えである(スコットランドやカタルーニャは知らない)。しかし力関係を見ねばならないとぼくは思っている。死者ばかり出して結果を得られないのが一番まずい。

 ブルジョワ議会主義の問題に戻る。
 マルクス主義者は自らの構想を示さない。ブルジョワ議会主義を否定するとしたら、どのような制度を人類にもたらそうとしているのか、全く不明である。
 労働者の権力と彼らは言う。それはどういうものなのか。どういう形態が出現したときそれが実現したと言えるのか。
 かつて労働者の権力と思われていたものは、じつは労働者を利用した権力にすぎず、労働者の無知と従順さを利用したファシズムであった。その権力は結局彼ら自身を抑圧した。
 さいわいなことに、もはや労働者は無知でも従順でもない。そのような労働者利用はもうあり得ない。
 ブルジョワ議会主義を否定するとしたら、それに代わるものを提示せねばならない。実現可能なものとして提起されねばならない。それが提示されない間は、われわれはブルジョワ議会を守る。

 古本屋さんは我が福山の共産党議員を応援してくれている。その点は感謝している。共産党の議員はほんとに超人的に活動している。少ない議員で広い地域、多くの課題を受持つのはたいへんなことである。ブログに難癖を付けられても、まともに対応している暇などあろうはずがない。最初から相手をしなくてよいのだ。このブログ難癖対策はちゃんと確立しておかないと、どこかの辞職した議員のようなことは今後いくらでも起こりうるだろう。
 ぼくが共産党を支持するのは、彼らが本当に価値ある活動をしてくれているからである。そこで頑張ってくれればよいのだ。難癖コメントの相手などしなくてよい。

 話があちこちする。頭もまわっていないが、すでにブログで書いたこととの重複を避けつつ、まだ書いていないことを取り上げてみたいと思っているので、どういう順序で書くべきかよく分からないのだ。

 いま思うと、ぼくの考えの骨格は文化大革命とカンボジア虐殺によって作り上げられた気がする。
 文化大革命について、共産党が出した10.10論文は優れた内容だった。だがその後、イギリスやフランスの学者たちの研究結果が次々翻訳出版された。これは香港経由で壁新聞を収集するなどして相当実証的に研究したものばかりだった。日中出版が出した六冊ほど、それに新書を何冊か買って熟読した。
 そのあと、カンボジアの虐殺が起こった。これについては二十冊ほど読んだ。ポルポト派のもの、その立場を代弁するもの、シアヌーク自身の手記なども含めて相当多角的に読んだ。
 いま、文化大革命についてもカンボジア虐殺についても具体的な知識はほとんど失われた。だが、そうやって同時代に起こった人類史上のふたつの事件をいろんな角度から読んだことが、人間について、歴史について、組織について、イデオロギーについて、そして権力についてのぼくの考え方の基本を作り上げたのだと思う。
 ぼくが小学生のときから持っていた歴史に対する関心はほとんどこの一点に集中していた。権力とは何か。人はいかにして他を支配するのか。組織はどうして成立するか。人々はなぜ個人によって支配されるのかということだった。高校のときトルストイの「戦争と平和」がその答えをくれた、というか、その問いをもっと先鋭化させたと言ってよい。ぼくはまだマルクスを知らなかった。大学へ入ると同時に「共産党宣言」と「空想から科学へ」その他若干を読み、答えの基礎的部分は与えられた。しかしそれが現実の歴史の実証的研究から学んだ具体的なものとなったのは、文化大革命とカンボジア虐殺のおかげなのである。
 その後ぼくはソ連が、あんな滅茶苦茶な体制なのに、何故革命が起きないのかを知りたいと思って、資料を探した。サハロフのものや、メドベージェフ兄弟のもの、ソルジェニチンの一部作品、その他何冊かの新書はあったが、なかなかソ連社会の実態はつかめなかった。つかめないままにぼくの関心は移っていった。そして十数年してゴルバチョフが現れた。

 こういう経過を通していまぼくはブルジョワ議会主義者としてここにいる。
 そして何が正しいかと考えるよりも、異なる考えのままでもよりよく共存していける社会について、考えてみたいと思っている。
 人間の考えが一致するということはおよそあり得ない。現に、同じ左翼、同じマルクス主義者でありながら、古本屋さんと「墓守」さんとはとうてい一致できるとは思えない。左翼どうし、マルクス主義者どうしでさえこうなのだ。どうやって妥協しあっていけるかを考える必要があるだろう。
 議論の勝ち負けというのはぼくには何の意味もない。議論に勝っても相手を納得させていないということを若いときさんざん経験してきた。そのときから勝ちたいとは思わなくなった。むしろ相手の考えをどこまで理解できるかということの方が重要だ。こちらの考えを理解するのはむこうがわの仕事である。

 とりとめない文章になったが、いまぼくの立っているおよその位置である。

 マルクスについては、その哲学は、もはや何ひとつ付け加えるものがないほどに完璧に思える。そしてそれは方法論として以外に哲学というものはありえないということだったと思う。彼は当時の社会を当時与えられていた情報に基づき、彼の方法論で分析した。それは見事な分析だった。だが、社会はすでに変化し、情報量も格段に増えた。したがって分析ははじめからやり直さねばならない。
 彼の経済学は、経済の基礎を明らかにした点において、いまなお有効である。この基礎部分に無理解な経済学は結局あやふやなものでしかないだろう。
 この基礎の解明はヘーゲル観念論の援用によってなされたと思う。ぼくが言っているのは「価値」という抽象概念を用いて経済の構造を読み解いていく方法のことである。
 そこからマルクスは現実の経済現象の研究を基礎に理論を展開していく。だが、いま、この現実の経済現象はすでに当時とは大きく変化しており、この作業はやはり初めからやり直す必要がある。
 ぼくは資本論ははじめのほうしか読んでいないが、そういう感想を持っている。興味深い本なので、いずれ続きを読み進めたいとは思っている。

 マルクスが政治システムについて何を言ったか言わないかぼくは知らない。そういうたぐいの本は一切読んでいない。しかし、いずれにせよ、それはすでに無効だ。マルクス主義者たちはここ百年間のマルクス主義政治理論をすべて捨てることから再出発すべきだろう。そこに現代世界を理解するのに有効な何かがあるとは思えない。それは世界を見る眼を曇らせるだけだ。すべて捨て去って白紙の状態で見たほうがよく見える。

 偉そうなことを書いたが、これはぼくの感覚である。知識の上に言っていることではない。
 そしてぼくの第一義的関心は、政治でも経済でもなく、文学にあるので、ぼくの無知はどうぞ責めてくれてよいが、それはつまり、それだけのことである。
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363: by 浪人 on 2014/10/03 at 09:59:27

節度と言ったのは、とりあえずは、ネット中毒にならないようにという意味です。ネットに書き込みをするのはけっこう神経使います。時間があっというまに過ぎてしまいます。

362: by 浪人 on 2014/10/03 at 09:57:21

興味深く敬意とかなりの共感をもって拝読しました。このような討論が自由に不安なく節度をもっていろいろなところでできるようになればいいと思います。政党内でもそうです。

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