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植田・高原論争への疑問

 素朴な疑問です。それも脳内情報伝達物質の欠乏下で頭に浮かんだ不十分な疑問です。
 特に植田論への疑問。(これを明確にしないと高原論へは入っていけない気がする)。

1、情報とサービスとをごっちゃに論じていないか。
 物質の商品価値よりも情報の商品価値のほうが高くなってしまった。これはマルクス時代になかった現代資本主義のひとつの側面であり、新たな分析を必要とするテーマであろう。
 だが、「商品生産労働とサービス提供労働」というテーマは、これとは別のテーマであると思われる。
 にもかかわらず、それが混同されて論じられている。

2、サービス提供労働について
 マルクスがサービス提供労働の価値を否定した(ただしそれが会社形式で為される場合には認めた)ことに対して、植田さんには一種感情的にも見えるこだわりがあり、これを出発点として現代情報産業の問題へとつなげてしまってはいないか。
 だが、マルクスは経済学者であって、宗教家ではない。彼が「資本論」で述べたのは、資本主義経済にとっての「価値」であって、それ以外の何かにとっての「価値」ではない。
 マルクスにとって「価値」とは資本を形成するものであって、誰かの役に立つものでもなければ、誰かの心を温かくするものでもない。
 何の役にも立たないものでも、それが資本を形成すれば、それはマルクスにとって「価値」である。どんなに役に立つものでも、あるいはどんなに人の心を温めるものでも、それが資本を形成しなければ、それはマルクスにとって「価値」ではない。

 サービス提供労働は昔からあった。最初は奴隷労働として、次には封建的主従労働として。そして資本主義的工業が発達したのちも、サービス提供労働は封建的主従労働形態のままで残り続けた。それは剰余労働である。「剰余労働は資本主義が発明したのではない」。その労働従事者が、自己の消費分を越えて雇い主に提供するなら、それは剰余労働である。だが、その提供されたものが雇い主によって個人消費され、資本に転化しないなら、それは剰余価値ではない。(剰余労働だが、剰余価値ではない)。すなわち「価値」ではない。
 やがて資本主義の発達は、サービス提供をも企業形態に組み込みはじめる。それは利潤を生むようになり、資本に転化し始める。一方で封建的主従関係は消滅していき、疑似主従関係ともいうべき個人的雇用関係も、人件費の高騰によって難しくなり、絶対的に希少化する。(つまり、女中、お抱え運転手、庭師、コック、秘書、執事、家庭教師、小間使い、看護婦云々云々――かつては少なからぬ人口が一個人もしくは一家庭へのサービス労働に従事していた)。そしてその時代は終わる。
 こうしてサービス提供労働が「価値」となった。この問題について、マルクスには曖昧なところはひとつもない。きわめて明白である。

 植田さん引用の箇所。
「資本論」第3篇第5章第1節
「労働は、まず第一に、人間と自然との間の一過程、すなわち人間が自然とその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程である」(新日本新書版)
「同」第5編第14章
「労働過程は、なによりもまず、その歴史的諸形態にかかわりなく、人間と自然との間の過程として、抽象的に考察された」
「もし労働過程全体を、その結果の、すなわち生産物の立場から考察するならば、労働手段と労働対象の両者は生産手段として、労働そのものは生産労働として現れる」
「生産的労働のこの規定は単純な労働過程の立場から生じるのであって、資本主義的生産過程にとっては決して十分なものではない」
「生産的労働にかんする前述の本源的規定は、物質的生産そのものの性質から導き出されたものであり、全体として見た場合の総労働者にとっては依然として真実である」
「しかし他面、生産的労働の概念が狭められる。資本主義的生産は商品の生産であるだけでなく、本質的には剰余価値の生産である」
「すなわち資本の自己増殖に役立つ労働者だけが、生産的である」
「物質的生産の部面外から一例をあげてもよいのであれば、学校教師は、児童の頭脳を加工するだけでなく(これはマルクス一流の皮肉です。読者が自然の加工を教育に当てはめないように予防線を張っているのです)、企業家を富ませるための労働に自ら苦役する場合に、生産的労働者である」
「企業家がその資本を、ソーセージ工場の代わりに、教育工場に投下したということは、その関係を少しも変えない」

 植田さんの引用箇所から少しはみ出して引用したが、ここに描かれていることは、(この翻訳の日本語を信用する限り)、明らかであろう。それが自然的物質への加工から言及されているのは、そもそも労働がそこから始まったせいだけであり、そこに教育労働が含まれても一向に構わないのだ。
「前述の本源的規定」は「歴史的諸形態」を無視して「抽象的に考察されたもの」であり、「資本主義的生産」には当てはまらない。「資本主義生産」において「生産的」なのは、「剰余価値」を生みだす労働者だけであり、その労働が、「自然の改変」であろうと、「サービス提供」であろうと全然関係ない。

 植田さんは、その自ら引用された部分のマルクスを、完全に間違って解釈されている。
 ここで差別化されているのは、剰余価値を生む労働と生まない労働(生産物ないしサービスの受益者が、雇い主であるか、それとも雇い主の顧客であるか=雇い主が自ら消費するのか、それともお客に売って利潤を得るのか)であって、商品が、加工された自然物であるか、それともサービスであるかということはまったく問題になっていない。
「人間と自然とのあいだの一過程」という言葉にとらわれ過ぎている。これは「まず第一に」であって第二も第三もあるのだ。マルクスの続く文章(ぼくが引用した箇所)がそれをはっきり示している。

 情報に関するテーマに入る前に、まず以上のことをはっきりさせておかねばならないだろう。このテーマはこれだけで完結するテーマであって、ここに情報問題を紛れ込ませる必要はいっさいないものと考える。
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