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旅、禁煙、新山口、津和野、萩

 コメント欄を見ると、高原さんと植田さんの討論が久しぶりに再開している。興味深い内容である。

 ところで、しばらく更新がなかったので、原稿に邁進しているかと思ってくださった方が、もしおられたら、たいへんうれしいが、じつは残念ながら、原稿は一行も進んでいない。
 小旅行で二日とんだ。その二日分の新聞を読むのに帰宅後二日かかった。
 その上に、きのうの朝、二本吸って煙草が切れたのをきっかけに、突然、禁煙を思いついた。(この記事は12日に書いたので、きのうというのは11日だ)
 禁断症状で、いま苦しくてたまらない。予期した以上の苦しさだ。
 やめられるという自信はとてもない。しかしどのみちいつかはやめるべきときがくる。いつ苦しむのも同じことだという気もする。
 煙草でさえこれだから、麻薬中毒患者の苦しみは想像に余る。
 やめようと思ったのは、咳が激しくなったからだ。交通機関のなかでも、飲食店でも、何かの会場でも出る。出始めると止まらない。これはかなりはた迷惑だ。人前に出られなくなってしまう。
 禁煙でとまる咳なのかわからないが、とりあえず実験だ。
 昔読んだ説によると煙草の禁断症状のメカニズムは以下である。
 脳内の情報伝達物質Xがある。ニコチンはその代用ができる。ニコチンを常時摂取すると、Xがサボって出てこなくなる。ニコチン摂取をやめても、Xはすぐには回復しない。これが回復するまでの間は苦しい。
 いまXの正体を確認しようとネットを検索したが、情報伝達物質は各種あるようで、よく分からない。というか、文字がちらついて頭に入らない。
 ぼくの心配はXが永久に回復しないのではないかということだ。齢もとっているし、そういうことだってあり得るのではないか。

 小旅行について書きたいことがいくつかある。頭がぼうっとしているので、ろくな文章にならないだろうが、書いてみる。
 怠け者なので、自分で旅行計画を立てたことがない。誰かさんの立てたスケジュールに付いて歩く。今回も驚くべきスケジュールであった。
 行先は津和野・萩である。この二箇所はなぜかひとくくりにされることが多く、昔会社の同僚たちと行ったときもそうだった。そのときは車だったが、幹事の計画に沿って動いただけで、やはり自分では何もしていない。
 今回、汽車に乗ってから説明を聞き、地図を見ると、なんだかすごい計画である。
 自転車でちょっと走れば岡山県というわが町から福山まで電車で出て、そこから「ひかり」で広島県を縦断し、はるばる新山口まで走る。そこでローカル特急に乗り換え、島根県の津和野まで舞い戻る。そこから、ふたたびUターンして定期バスで萩に向かう。
 じつに怪傑ゾロのサインよろしくZigzagのコースなのだ。二日間のほとんどが乗物での移動時間で、津和野でも萩でも滞在は短時間しかない。
 でも終わってみるとそれなりに興味深い旅だった。

 まず新山口という駅だ。そもそも山口県というのは非常にわかりにくい不思議な県だ。この新山口という駅は、おそらくなんどか通っている。だが、ホームに降り立ったのも、注意して見たのも初めてだ。小郡の近くらしく、山口とは少し離れているようだ。その駅に、なんと、ホームが7つもある。今回、乗り換えが端から端だったので、走らねばならなかった。そんなにホームの多い駅とは思っていなかった。岡山駅よりも多い。各種ローカル線がここで交差する場所らしいのだ。
 このあと通った山口駅はほんとに田舎の駅だったが、新山口駅は侮るべからざるちょっとしたターミナルである。
 ところで山口県の県庁所在地はいったいどこなのだろう?

 新山口駅で米子行きのディーゼル特急に乗る。これはまるで登山列車である。「木曽路はすべて山の中である」という「夜明け前」の冒頭が頭に浮かぶ。木々の枝葉をかすめながら森の中を飛ばし、断崖の谷底を這い、あるいはちょっとした絶壁に貼りつき、延々と登り続ける。あまり眺望が開けるわけでもない。だが、新幹線がまるで地下鉄に乗っているのと変わりないのに比べれば、多少は旅気分になれる。立ち寄る駅がすべて鄙びているのもよい。

 津和野は、乙女峠のマリア教会。駅をぐるっと迂回して、観光客が決して来ようとしない険しい山道を登る。デング熱を恐れながら、蚊を警戒しながら、足早に上る。誰も来ない場所でおばさんが一人掃除していた。
 明治元年になって、長崎浦上の隠れキリシタンが一網打尽に逮捕され、その数数千人、うち百名ほどがここに押し込められて、あらゆる拷問の果てに死ぬ者、転ぶ者、ヨーロッパ列強からの激しい批判によって、ついに禁教令が解かれ解放された。
 こういう話に接すると、非常に複雑な思いがして、言葉を失ってしまう。
 江戸時代から戦前まで、日本におけるキリスト者は共産主義者と同様の問題をたたかってきた。その犠牲者たちに対するとき、我々は少なくとも謙虚であらねばならない。と、ぼくは感じた。
 あと殿町の畳の教会もよかった。

 津和野バスセンターから萩バスセンターまで、3組の年寄り夫婦だけを乗せて、誰も乗り降りしない停留所にいちいち停まりながら、硬い座席の定期バス二時間の旅。萩到着後、市内循環バスに乗り換え、城下から海岸沿いをぐるっとめぐり、夏ミカン農園で降りる。そこから宿屋探し。宿屋は眼の前にあるのだが、土塀が延々ととり囲んでいて入れない。はるかにまわり道をしてようやく到着。旅をした気分にはなった。
 ここは三の丸である。三の丸は萩城の重臣たちのお屋敷跡である。屋敷はすでにないのだが、土塀と、街路とが当時のままに残っている。かなり広大な規模でお屋敷街の全体が残っている。
 ひとつひとつの屋敷の区画がだだっ広い。それがいくつも整然と並んで街路を形成している。
 歴史的保存地区であるから二階を越えては建てられない。我々の泊ったところも毛利一族の屋敷跡で、高層化できない代わりに廊下が長い。庭がすばらしい。
 隣は家老の屋敷跡だが、これが家老であると同時に宇部11万石の大名である。福山が10万石であるから、福山の大名クラスがここでは家老なのだ。宇部からの上がりでここに広大なお屋敷を維持していた。どのくらい広大かというと、高校がひとつすっぽり入るくらいだと思えばよい。
 だが、明治維新後、日本の支配者となった彼らはみな東京へ出ていく。それなりの地位と収入とを保障されたにはちがいなかろうが、萩の屋敷を維持しうるだけの財力も必要性もなくなったのだろう。売り飛ばされた土地は使い道もないままに、夏みかん農場となる。
 これがこの歴史遺産を救った。街路と土塀とが残された。海風から夏ミカンを守るのに、土塀が必要だったのだ。
 こうして維新後忘れ去られたこの町は、高級果物だった夏ミカンをほとんど唯一の産業として日々を重ねたが、戦後夏ミカンが金にならなくなって放置される頃に、観光地として脚光を浴びる。

 今回半日だけだったので、志士たち中級下級武士を生んだ城下には足を延ばせず、ここと、菊ヶ浜だけでせいいっぱいだった。でも、萩で最も見るべきものを見たような気がする。
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コメント
344:コメント338について by 石崎徹 on 2014/09/15 at 22:56:10 (コメント編集)

 コメントの取り消しは当方からもできるし、投稿者のほうからもできますが、338はたしかに独断的ではありますが、ぼくとしては面白かった。面白い提起だと思いますよ。取り消さなくてよいのじゃないですか。

343:338コメント取り消します by 浪人 on 2014/09/15 at 22:31:45

338コメントについては、具体的に典拠をあげて論ずるべきですし、当方が匿名ですから、礼儀をわきまえるべきでした。お詫びし取り消します。

339: by 浪人 on 2014/09/15 at 08:03:18

長いコメントになりました。読んでいただける場合には一番したから順に上に向かってお願いします。また、反論などはこちらのブログ上でお願いいたします。

338: by 浪人 on 2014/09/15 at 07:40:47

民主文学系文学の推進者たちは、文学を、素朴に認識手段だと思っているのではないだろうか。化学が分子を認識し、生物学が生物を認識し、社会科学が社会を認識するように。だが、分子と生物と人間社会と、ましてや一個の人間内面とはまったく別物だ。同じ方法で取り扱うことができない。人間は機械や単なる物質の塊ではない。「肯定的人物像」などはどこにもいない。「語り手が肯定的というスタンプを押したいと思っている人間像」がいるだけだ。「典型」などは評者の脳内の幻想にすぎない。「典型を描く云々」と恥ずかしげもなく公言できる評者の頭のなかの方が小説の対象としてよっぽど面白いのではないか。

337: by 浪人 on 2014/09/15 at 07:34:48

小説の醍醐味は、劣ったものだと思われていたことが優れてものになり、逃げだと思われていたことが実は戦闘的なものになるという、既成観念ではかれない、ポジネガの関係だと思う。ポジの人がするポジな行動をポジの語り手がポジティブに描く小説は大きな嘘になる可能性がある。「社会主義国」のリアリズム小説によくあった。私は高校生のころ中国革命文学選というのを全部読んで、やはり「太陽は〇〇河を照らす」というチベットでの漢族活動家の話にはさすがにヘンだなと思った記憶がある。スターリン時代の「開かれた処女地」という映画もあった。今から見れば???だ。

335: by 浪人 on 2014/09/14 at 20:40:40

お屋敷は東京にもあった。東京の半分以上は大名屋敷だった。それが中小屋敷に切り売りされ、されに切り売りされして、20坪くらいの三階建て狭小住宅地として2000万くらいで売られているそうだ。そんな土地を売るブラックな不動産業界で働く若者の小説があった。(『狭小住宅』数年前のすばる文学賞)みかん畑になって残っている萩とは大違いだ。

334: by 浪人 on 2014/09/14 at 20:30:40

桜坂洋『All You Need…』の原作は語りに自覚的だった。何度も戦死を繰りかえすごとに語りが変わっていった。ハリウッド映画はとても面白かったがやはり生身の演技でそれは無理だったようだ。

333: by 浪人 on 2014/09/14 at 20:13:31

数時間の読書をするとき、語り手が好感の持てる人物であることを願っている。顔の見えないこの人物と二人きりで過ごさなくてはならない。民主文学誌では共産党事務所で中間幹部と向き合っているような気分になる。

332: by 浪人 on 2014/09/14 at 20:08:11

印刷が普及する前は語り手がすべてだった。印刷ができるようになったとき人々は誤解したんだな。神の視点で描けるんじゃないかと。日本だったら芥川が、ほんとうは、語り手が主人公なんだということに初めて気づいた。太宰は最初からそれを濫用した。図書館で新刊書コーナーに並ぶ小説で、神の視点みたいな客観描写は珍しい。

331: by 浪人 on 2014/09/14 at 14:31:48

共産党の文化運動は、現代版の政教一致ではないだろうかと疑っている。前に多喜二百合子賞というのを共産党中央委員会が出していた。

330: by 浪人 on 2014/09/14 at 14:26:50

民主文学にかかわるむなしさと徒労感をまぎらわしている。

329: by 浪人 on 2014/09/14 at 14:25:27

幽霊また読んで叔父と祖母の関係が示唆されていることが分かった。ストーリーとして面白いと思った。だが、やはり、それが小説的感動に結びつくためには、語り手に返ってこないといけないのではないか。たしかに返ってはいるが、もっと強く、なんと言っても語り手の話のなかの世界だ。すべては語り手の嘘かもしれない。たしかなことは、ただ、こういう語りをする語り手がいるということだけだ。

328: by 浪人 on 2014/09/14 at 13:28:33

もう一度お願いしますが、以上のコメントに関する議論はこちらのブログ上でしていただくことを希望します。他ブログへの引用は見ませんし、何を言われても無視します。

327: by 浪人 on 2014/09/14 at 12:48:10

御作幽霊は茫洋とした味があって読んで損をした気分にはなりません。ここで食い足りない思いが残るのは語り手についての情報が少なくて、語り手の方が幽霊のように感じることです。もしかしたらそれでいいのかな? それと、何とか縦書きか、または、横書きでも一行を短くしていただけたら、もっと気楽にどんどん読ませていただくことができるのですが、なかなか難しいことなのでしょうか。

326: by 浪人 on 2014/09/14 at 12:39:52

追伸です。一般文壇で言うと、岩井三四二の戦国時代ものはすごい。英雄豪傑は全然出てこず、すべて無名の百姓たちだ。実在の古文書をタネに戦場になった村の人々の打算や哀しい勇気が描かれている。よく勉強しているなあ。すごいなあと思う。でも何か足りないので読み終わると辛い。岩井もなかなか直木賞がとれないでぼやいている。今年直木賞の黒川博行だが、ピカレスク小説である。大阪ヤクザ。とんでもない悪いやつらだ。そのヤクザに寄生するやつもいる。だがなんだか憎めない。人間そんなもんだよなあと思って肩の力が抜けてほっとする。岩井三四二はどこか唯物史観というか、支配階級が悪で百姓が善という歴史観の名残があるんじゃないかな。戦国時代観としてはまるで当時の新聞三面記事でも読むみたいな生々しさだけど、善悪があるのは読んでいてやはり肩が凝る。これは蛇足コメントです。

325: by 浪人 on 2014/09/14 at 12:28:37

これで一段落です。石崎様、勝手に書かせていただきすみませんでした。たしかに公開した以上は公の発言ですから批判攻撃にさらされることは覚悟しなければなりませんが、文学論の範囲にとどまるかぎり、批判はありがたいです。ただし、批判などはこちらのブログ上でしていたくことを希望します。

324: by 浪人 on 2014/09/14 at 12:25:19

民主文学の運動にはほとんど絶望している。だが、若い日に、ここから入ってきた。かんたんには捨てられない。

323: by 浪人 on 2014/09/14 at 12:21:54

たいていの人はそんなことは分かっているから、だから、人のタバコについて言う人は滅多にいない。同居人など副流煙の被害があれば別だが。自分がタバコをやめた自慢を喫煙者にむかって話すなんてもっともみっともないことだということをみんな知っているだろう。それをやっているのが、民主文学でよく出てくる、無党派の青年が運動に目覚める話だ。タバコを止めた自慢話と同次元だと思う。表現のというか文学のレベルとしてはだ。目覚める話も、タバコをやめた話も、世間に広まるのはいいことだと思う。でもいいことと芸術としてすぐれていることとは全然別だ。

322: by 浪人 on 2014/09/14 at 12:16:37

自分がした正しいことを、含羞もなく語る語り手に、私は小さな権力者の幻を感じる。

321: by 浪人 on 2014/09/14 at 12:15:17

たぶん、正しいことをするとは恥ずかしいことなのだと、これも太宰治だったと思う。

320: by 浪人 on 2014/09/14 at 12:13:42

小説で描かれているもののいちばんは語り手の人間像だと思う。話の内容は二の次だ。語り手がどんなふうに語るかだ。

319: by 浪人 on 2014/09/14 at 12:10:28

たぶんそれは小説には「語り手」がいるということと関係しているのではないか。例えば、ある人から話を聞くとき、話の中身よりも話し手がどんな人かということに私たちは普通いちばん興味を持つ。その人が、道徳の教師のように語るのを背筋を伸ばして聞くという態度は、今の私たちが小説を読む場合にはそぐわない。本音も言い、面白いこともいい、というふつうの語りを期待してしまう。それだけ小説は私たちに近くなっている。

318: by 浪人 on 2014/09/14 at 12:04:51

現実世界で正しく行動することと、それを小説世界に描くこととは全然別のことだということだ。それがなかなか分からなかった。現実世界での正しい行動には敬意を払いたい。それが世間に知られることにも賛成だ。だが、それが小説として書かれると、一つ二つならいいが、そういうのばかり並ぶと重苦しくなる。かつての「社会主義国」の重苦しさもきっとこんなんだったのではないかなというような感じだ。理論的にうまく言えないのが悔しい。

317: by 浪人 on 2014/09/14 at 06:58:02

ここまでのコメントは、311旅の話とタバコの話からはじめて下から上へ読んでください。なおご批判はこちらの欄内でお願いします。

316: by 浪人 on 2014/09/14 at 06:52:51

宮本百合子あたりから、正しい人がした正しい行いを正しく描くというへんな私小説が堂々とまかりとおるようになったのではないだろうか。

315: by 浪人 on 2014/09/14 at 06:50:04

太宰治が志賀直哉の端正さを欺瞞だと言ったように、どこかに嘘がある。

314: by 浪人 on 2014/09/14 at 06:44:07

それは、タバコの害を第三者から説教されるようなものかもしれない。

313: by 浪人 on 2014/09/14 at 06:35:42

正しい人が現実に正しい行動をした話を正しく描写した小説があったとしたらどうだろうか。現実世界については立派なことだというしかないが、小説世界においては、その窮屈さ重苦しさはいったい何だろう。

311:旅の話とタバコの話 by 浪人 on 2014/09/14 at 01:02:27

旅の話は読むのも語るのも楽しいですね。山口はほんとうはけっこう良いところですよとか、乙女峠は私も同感ですとか、いろいろ自由に感想を述べることができます。

タバコの話は他者からは何とも言いにくいです。健康リスクについては吸わない方がいいという結論めいたものがすでにあります。第三者としてはそれ以上何も言えませんし言うべきでもありません。

民主文学系の小説はタバコの話に似ていて、ふつうに面白い小説は旅の話に似ているのではないでしょうか。



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