プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

乙川優三郎「脊梁山脈」(新潮社)

 なんと言えばいいのだろう。実にひそやかな文章である。山も谷もない。笑いも涙もない。なのに読みはじめるとやめることができない。このような文章に初めて出合った。
 今ふうのキレのいい短いセンテンスではない。かといって長々しいセンテンスでもない。ほとんど二つの文節で一文となっている。これに必ず読点をひとつ打って、反語的接続語で結ぶ。これがイメージを膨らませる。そうして切れ目なくずうっと続いていく。
 その文章の気持ちよさに惹かれて、読むほどに描かれた静謐な世界に浸ってしまう。
 12年に小説新潮に一年間にわたって分載された。作者は53年生まれ。歴史小説の書き手で、これが初めての現代小説だという。現代といっても、敗戦から15年間の物語。作者の生まれる前の時代から書いている。敗戦から15年間の風景や社会の変化が、見てきたような自然な描写になっている。
 設定は直木賞作家らしく少し突飛だ。上海での学業途中で召集され少尉として敗戦を迎える。福島の田舎に帰ってくると、父と弟はすでになく、母が貧しい暮らしをしている。ところが伯父の莫大な遺産が転がり込み、一転して働く必要のない身分となる。
 いまさら学業に復帰する気持ちも持てず、何をして生きていこうかと迷い、とりあえず、佐世保からの復員列車で世話になった男に礼を言うためにその消息を尋ねるところから始める。ところが男の残した住所は本籍地のもので、滋賀県の小椋谷である。ここは木地師の部落で、彼らは良材を求めてそこから信州へさらに東北へと何世代にもわたって山から山へと移っていったのだという。
 こうして恩人を訪ねる旅が、木地師たちを訪ねて山から山へと歩いていく旅になり、木地師の歴史への関心となり、いつしか木地製品の図録を作ることに生きがいを見出す。
 それはさらに木地師の祖先らしい朝鮮からの帰化人の歴史、そしてさらに、日本書紀と大化の改新の闇の部分へと関心がつながっていき、大胆な仮説を構築するに至る。
 大化の改新以前の日本王朝は蘇我氏のものであった。大化の改新とは蘇我王朝を滅ぼして天皇氏が簒奪した事件であった。この天皇氏は物部氏の可能性がある。日本書紀とはこれを隠すための偽書である。日本書紀の記述の矛盾を読み解いていけばそういう結論になるのだという。
 もちろんこれは作中人物が立てる仮説であって、それほどに日本史は謎に包まれているということの表現にとどまり、綿密な考証が書かれているわけではない。だが、だからいいのだ。
 じつをいうと去年か一昨年、大化の改新に発して日本古代史全体に大胆な仮説を試みたものを一冊読んだ。いまその本を探したが、どこに紛れたか見当らない。この本はぼくはとんでも本として見捨ててしまった。というのはそれが小説として書かれたものではないにもかかわらず、欠陥だらけのいい加減な考証で、それを事実であるかのごとく言い立てていたからだ。
 乙川はそういう愚かなことはしていない。一応大胆な仮説は立てるが、日本書紀がさまざまに読める本であり、そういうふうにも読めるのだという以上には踏み込んでいない。
 全体に流れているのは、時代背景として自然に描出されるところの、あの愚かな戦争が日本人個々人に与えた精神的被害の大きさ、そしてその基礎をなした皇国史観、万世一系神話、単民族神話への批判である。まさにいま読まるべき本であろう。
 この本は、ぼくの関心事が書かれていると言って、娘が持ってきた。
 日本古代史を北山茂夫の岩波新書を中心に読み漁っていたのは40数年前で、いまや記憶もあいまいになってしまったが、それがいまでもぼくをひきつけるテーマなのはそのとおりで、彼女はよく分かっている。
 日本書紀はじつは面白くない本である。物語性にとぼしいからだ。だから40数年前、古事記は一通り読んだが、日本書紀はぱらぱらとめくるにとどまった。だが、もちろん研究するとすれば日本書紀だろう。ぼくは怠け者なので、研究者にはなれない。研究者がいい本を書いてくれるのを望むだけだ。古事記も読み直そうと思って失くしていた岩波文庫をまた買ってきたが、それにもまだかかれずにいる。
 話が本からそれてしまった。
 この人の文章が読者をひきつける秘密が、その一文一文の複合性にあることに思い到ったとき、ぼくは高橋源一郎を思い出した。彼は「世界はもっと複雑である」と言った。その複雑な世界を単純化しない点に乙川の文章の良さがあるのだ。
 これはたとえば、ドストエフスキーの登場人物たちが、「カラマーゾフ」や「悪霊」に顕著なように、それぞれに異なることを主張する、そこで描き出される世界の複雑さを、乙川は文章によって表現したように思える。
 この作者は文章もひそやかだが、その装丁もタイトルも、まるで読者を拒否するかのように地味である。中見出しも、「月の夜」「賽の神」「蘇芳赤花」「漂鳥」「山路の菊」「変身」。およそ人を引き付けるものではない。だがひとたび読みはじめればやめられなくなること請けあいである。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す