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「憂国」雑感

 作品群のごく一部しか読まないで三島由紀夫の全体を評することはできないが、彼自身が「憂国」は代表作のひとつだと言っているので、それなりに傾向を指摘することはできるかもしれない。
 今回、ほぼ半世紀ぶりにこの作品を再読して、かなり記憶違いに気付いた。
 まず章分けについては覚えていたとおりだった。壱で一人が登場、弐で二人になり、参で馳せ参ずる。肆で死に、伍で伍す。まさに言葉遊びだ。
 ただ、記憶違いは、男が2・26に間に合わなかったことを悔いて自殺するのだと思っていたら、そうではなかった。新婚間がないことを考慮して親友たちが誘わなかった、男が馳せ参じたのは反乱軍のほうではなく正規軍のほうで、日本王ヒロヒトが鎮圧を命じたので、明日は部下を指揮して親友たちを殺しに行かねばならない。それはできない。だが、王の命令に背くこともできない。そこで抗議の自殺を決意する。「諌めるため」(新潮文庫278ページ4行)と書いてあるからヒロヒトへの「抗議」なのだろう。そういうことなら、彼の立場として追いつめられた気持ちは理解できる。
 でもどうにも理解不可能なのは、30才のいい大人の男が、23才のまだ幼い妻を道連れにして悔いないことだ。
 もっとも、この女は一応精神的に自立した女として描かれている。死を決意したのも自分の意志であり、セックス場面で男に対して、私にもあなたを見せてくださいと要求するところに、それは象徴的にあらわれている。(ちなみにこの場面は女からの要求で出現する。そこもぼくの記憶違いだった)。
 だが男はそれを彼女の盲目的な恋の故ではなく、自分の教育の結果なのだと誇っている。女が死を望むことが男にはむしろ望ましいのだ。これは愛ではない。所有欲だ。相手の人格には関心がない。道徳の破綻である。もちろんあの時代にはそういう男がいただろう。それを登場させるのは一向に構わないが、この作品では作者がそれに同調している。作者自身の道徳観が問われる。
 記憶ではこの夫婦のセックス場面ばかりが残っていて、上質なポルノではあるが、2・26を描いてこれではだめだろうという感想しかなかった。
 今回読んで、むしろ、それに続く切腹場面の描写の迫力の方に圧倒された。まるで読んでいるこちらまでが激痛に襲われるかのようで、息詰まる思いがした。
 たしかにこれは天才である。このような迫真の描写は凡人にはできない。その描写力は評価せねばならない。
 だが、その才能を無駄使いしてしまった惜しい男である。
 ごく年少のうちに美しい世界を作り上げる才能を身につけてしまったことが彼の不運だったのだろう。普通はそののち現実世界にぶつかり、単なる虚構の世界の虚しさに気付く。石川啄木が浪漫派の詩人の地位を捨てようとしたように――。詩では食べていけない、小説を書かねば食べられないということが啄木に幸いした。
 だが、三島由紀夫はその前にすでに一流の作家の地位を占めてしまった。それはもはや捨てることのできないものとなった。こうして彼は美しいが非現実的な虚構の世界を作ることを仕事とする結果となった。その上その作品世界に自分自身を同化しようとする。ひよわな文学少年は肉体を鍛え上げてマッチョになる。行きつく先が右翼思想と腹切り自殺だったというのはひとつの悲劇である。
 35才で「憂国」を書き、10年後、45才で若い男を巻き添えにして自殺した。
 彼は作品を現実に近寄せようとするのではなく、現実を作品に近寄せようとしたのだ。出来上がってしまった作品世界を否定できない以上、そうするしかなかったのだ。
 だが、作家は実人生のなかに美を見出さねばならない。作りものの美ではだめなのだ
 ただ、ひとつの真実は書かれている。性の快楽と死との近さについてである。その意味では、渡辺淳一の「失楽園」との類似性が見られる。性の快楽の果てに死を選ぶという点でこの二組のカップルは似ている。
 昆虫たちは長い幼虫時代ののちに成虫になるや否や、セックスを終えてたちまち死に着く。子孫を残す仕事を終えれば、彼らの使命は終わったのだ。ここにセックスと死との原理上の近さがある。
 だが人間が人間になったのは、子供が成長するのに膨大な年月を必要とし、その間親の養育がなければ生きていけないからである。セックスを終えてすぐ死ぬわけにはいかなくなった。ここに人間の人間たるゆえんのすべてがある。こうして人間において、セックスと死とは結びつかなくなる。だが、それはおそらく原初的な感覚として人間に残っているかもしれない。
 渡辺淳一はそういうものとして「失楽園」を書いた。それはただ原初的な感覚を確かめるためであって、そこには道徳が入り込む余地はない。
 三島由紀夫は違う。彼はそれを彼の道徳にしてしまう。
 彼の築き上げた世界は、その世界に浸りきれば美を堪能できるものなのだろう。だが、ひとたび違和感を覚えれば、どうしようもないものとなる。
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