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「こころ」

 朝日の「こころ」再掲を読んでいる。何度も読みなおしている小説だが、やはり違和感を払拭できない。最後に読んでからでもすでに何十年も経っているので、もう一度通しで読もうとは思うが、とりあえずは朝日で読みつつの感想である。
 その前に、再掲が始まったときの説明で、<本になる前の新聞連載時のまま掲載する、本になったときは三部構成だったが、連載時は「先生の遺書」だけである>とあったのを、ぼくは誤解して、「先生の遺書」以外の部分は本になったときに書き加えられたのかと思った。そうではなかった。内容は本と一緒である。ただ三部に分けていないというだけだ。
 姜尚中は、いまでこそ人気著者となっているが、在日韓国人ということもあって少年時代からずいぶん悩んできたという。それを助けてくれたのが、夏目漱石、なかんずく「こころ」と、もうひとつはマックス・ウエーバーだったという。
 ぼくの中学生の孫も「こころ」に感銘を受けて受験勉強をほったらかして漱石ばかり読んでいる。
 それだけ影響力のある作品である以上、そういう観点からいま一度通しで読んでみる必要はあるだろうとは思っている。
 だが、とりあえずは、以前書いたことの繰返しにはなるが、いま毎日読みつつある中で、払拭できない違和感についてである。

 連載はすでに「先生」の遺書に入っているが、先日までは「私」の故郷生活の描写であった。
 この「私」がなんの必要があってそこに(作品中に)いるのかということがぼくには理解できない。
「私」の設定は「三四郎」と変わらない。田舎出の東大生である。「三四郎」の故郷についてはほとんど書かれていなかったが、「私」については事細かに描かれる。にもかかわらず、読者は「私」の像を眼前に思い浮かべることができない。
「三四郎」のほうは、高校時代に読んでから、おそらく読み返したとしても一度くらいだと思うが、それでもその姿かたちがいまだに目の前に鮮明に浮かぶ。姿かたちというと誤解されそうだが、目に見る姿かたちではなく、人間としての姿かたちである。「三四郎」はたいして個性的な人間ではない。むしろ脇役の「与次郎」やその他個性的な登場人物たちのなかで、まだ自己を確立できていない曖昧な存在として描かれる。にもかかわらず、存在感がある。一方「こころ」の「私」にはまったく存在感がない。
 そのこと自体は悪いことではない。「こころ」の「私」は単に語り手にすぎないのだから、むしろ目立たないほうがよいのだ。ところが漱石はその語り手に過ぎない人物の故郷での生活を、なぜああも長々と書くのか。それがまったく理解できないのである。
 その上、本筋はすべて「先生」の遺書のなかで語られる。じつは「私」は語り手でさえないのだ。ただ「先生」の妻を描写する場面で、少し役割を果たしているが、それがかえって「先生」とその妻との関係をあいまいにしてしまっている。本来この場面は「私」抜きで直接語られねばならないだろう。
「私」はまったく不用な人物である。
 まずはそのことを指摘したい。

「先生」の遺書の内容にも大いに不満があるが、連載はまだ事件に入っていないので、すべて終わった段階で書くとしよう。いまのところで引っかかるのは、「先生」という作られた人物の心理をこれでもかと詳述することである。
 右遠俊郎も「ぼく」の心理をくわしく書いた。だが両者はまったく違う。右遠の「ぼく」は、「ぼく」という一人称で書かれながら、実際に書かれた内容は第三者が見た「ぼく」のこころである。それに対して「先生」の遺書に語られる「先生」のこころは、「先生」自身の解説付きの、「先生」の見た自分のこころなのだ。
 どこが違うのか。右遠作品においては、主人公の直面するそれぞれの情況のなかで主人公のこころに浮かぶことを生のまま書いている。主人公はいろいろ解説するが、それは後付けの解説ではない。その解説そのものが現代進行形の生のこころなのだ。
 それに対して「こころ」の先生は何十年も経って過去の自分のこころを自分流に解説してしまう。フィクションのなかにフィクションが入り込んでしまっている。こころは本来解説できないものである。それは生の形で提供されねばならない。だが、漱石はそれを解説してしまうのだ。
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