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価値について

 価値について考える。日々の生活に明け暮れながらも何かを考えずにおれないのが人間の頭である。昨夜は価値についての想念が去来して眠れなかった。そこでケリを付けるためにいったん書き込むことにする。
 もっとも何らかの概念について書くという行為は、本来先人たちの文献の検証の上になされるべきものだろう。そうでなければ普遍性を獲得することは難しい。その点、ぼくの読書歴が圧倒的に貧困であり、ほとんど欠如しているので、ここに書くのはまったくもって個人的な、いまの時点でぼくはこの言葉をこういうものとして認識しているという主観の表明にすぎない。あらかじめそのことを断っておく。その上で表現が断定的になるのは許しを請う。

 価値はイデアであるから、それは客観的存在ではない。
 まず経済学上の価値について考える。使用価値とは何か。それは人間の欲望の対象である。マルクスの言葉を借りれば、その欲望が胃袋に起因しようと精神に起因しようと関係ない。欲望の対象となるものを我々は使用価値があると呼ぶ。だが、その対象があらかじめ使用価値を持っているのでわれわれが欲望するわけではない。われわれが欲望した結果、その対象が使用価値を持つのである。
 我々が欲望しなければ酸素はただの酸素であり、米はただの米である。われわれが生きたいと欲望したとき、生きるのに不可欠なものが初めて使用価値となる。
 価値はわれわれの欲望とその対象とを結びつけるイデアである。仮想観念である。それは存在しない。
 ふたつのリンゴというものは存在しない。存在するのはあのリンゴとこのリンゴであって、ふたつのリンゴではない。だが数える便宜上、人はものの共通点を抽象化して数えることを始めた。数もまた抽象的観念であって、実在ではない。
 では商品価値=交換価値とは何か。これは補助線である。価値が存在しているわけではない。実際に存在しているのは市場における価格である。だが、労働市場と商品市場、すなわち生産と市場との間で、価格が需要と供給によって上下するメカニズムは解明できても、その上下幅のベースになるもの、なぜカラーテレビ一台は鉛筆一本よりも常に高額なのか、ということを解明するためには、ここに価値という補助線を引かねばならなかった。価値という抽象概念を仮想することによって、はじめてわれわれはロドスを飛ぶことができた。そして我々はそこに労働時間を発見したのである。
 かくて経済学における価値とはイデアであって実在ではない。

 では価値という言葉のもうひとつの用法、いかに生きるべきか、すなわち人生論や道徳の分野で使われる価値とはなにか。
 ここでも存在しているのは価値観であって価値ではない。
 価値観は人間の頭のなかに存在する。それはわれわれが何を大切だと思うかということである。これは経済学用語でいう欲望とほとんど重なる概念だろう。ただし、経済学ではそれを銭勘定するのに対して、ここでは生き方の問題となってくる。
 しかしそのありかたは経済学の場合と同様である。対象に価値があるから、我々がそれを大切だと思うのではなく、我々がそれを大切だと思うから、その対象を価値と呼ぶのである。
 価値観は人さまざまである。地球上に70億の人間がいれば、70億通りの価値観がある。70億のなかのたった二つでさえ、同じ価値観とはなりえない。それはDNAがそれぞれ違い、生きてきた環境と経験とがそれぞれ違うからである。
 だが、人間とチンパンジーでさえ、そのDNAの違いはわずか1%であると言われている。人間どうしのDNAの違いはパーセントで小数点以下何桁になるか分からぬくらいの微々たるものだろう。圧倒的に共通部分が大きい。環境や経験にしても現実にはそうである。われわれは共通部分を当たり前としか認識できないので、相違部分が肥大化して映る。だが、現実には共通部分が圧倒的である。そしてこの共通部分を受持つのが政治だろう。
 ひるがえって相違部分は政治が絶対に立ち入ってはならない部分である。そしてしばしば政治が立ち入りたがる部分である。多数者の共通観念を少数者にも押しつけようとし、あるいは少数者の観念を多数者に押しつけようとする。どちらの場合も、価値観の多様性を主張する立場からは絶対に受け入れられない。価値観の多様性を否定することもまたそれ自体価値観の多様性だと主張するならば、それは自己矛盾である。

 さて、かつてこのブログ上に、「頭で考え出した価値は危険である。価値は現実に根差さねばならない」と書いた。その自分自身の言葉を、いま展開した文脈のなかにどう位置づけるかと考えると、少し困難を感じる。それはまた次元の違う話なのだ。
 ここでは価値の主観性を述べ、あちらでは価値の普遍性を述べたように見える。だが、ぼくのなかではこれは矛盾していない。一体のものだ。ここで述べたのは政治が個人の価値観に干渉するなということだ。あちらで述べたのは、現実生活に根差さない観念的な価値観を政治に持ち込むなということだ。
 価値観そのものはイデアであり、観念であり、頭のなかに生まれるものであり、多様なものであるが、それを政治的に尊重することと、その価値観が頭のなかだけで変に作り上げたものであるか、現実生活に密着したところから出てきたものであるかは、おのずから異なってくる。
 どんなものであっても政治は個人の価値観に踏み込むべきではない。しかしまた一方、現実に根差さない価値観で政治をやらせるわけにはいかない。
 もちろん高原氏の言うことも分かる。安倍の価値観は彼の生育環境の現実に根差した価値観であって、決して頭のなかだけで拵え上げた価値観ではないということなのだろう。それが無理に作り上げた価値観に見えるのは、ぼくらの生育環境が安倍とまったく異なるからだということなのだろう。
 だから異なる価値観の者どうしがたたかいあうしかないのだと言われれば、それもそうかもしれない。
 しかし、ここからまたまったく次元の違う話になってくるが、このたたかいとは政治的には、どちらの価値観がより世論を獲得できるかのたたかいであって、それ以外のものではないだろう。

 ひとつの言葉が、突き詰めようとすれば逆に無限に広がっていく。
 観念は常に現実から生まれるということをぼくは否定するわけではない。ただそれはいつの場合にも、現実を映す鏡ではなかった。現実と主体との相克のなかで生まれてくるものである。そしてぼくはそこにこだわる。このこだわりを総体的に論理づける言葉がぼくにはまだない。
 分からなくなったので、ここでやめる。
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