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右遠俊郎「二升ころび」72枚 34歳

 本論に入る前に少し。
 いま本の泉社99年発行の「右遠俊郎短篇小説全集」上下二巻を始めから少しずつ読んでいる。上製箱入り8571円(税別)の高価な本である。日ごろ文庫本しか読まないので、こういう本を手にするのは苦手だ。すでに自分のものになったのだから、どうなってもいいはずなのに、大切に扱わなければならないような気がして、気がひける。もともとモノとしての本には興味がない。ぼくが興味を持つのは内容だけだ。読んだ本を処分しないで置いておくのも、本に愛着があるからではなく、しばしば開けてみる必要に迫られるからだ。それに手元にない本は記憶から飛んでしまう。ぼくが図書館を滅多に使わないのはそのせいだ。
 この本は「まがね」の妹尾さんが気前よくくれた。「右遠さんが来た時あなたの小説を褒めていたから」と彼女は言ったが、ぼくにはその記憶がない。右遠俊郎が来たのは中国研究集会のときだが、そして一緒に入浴もしたのだが、それ以外の記憶がない。そもそもぼくの小説を中国集会で取り上げたことは一度もない。広島のとき、「朝」をどうかと言われたが、入会間なしだったので遠慮した。広島へ行くと、「まがねにやっと面白い小説が登場したと思ったのに、やらないのか」と誰かが言った。誰だったか覚えていない。このときの講師が、雑誌のすべての小説に目をとおしていたようで、「この中で文体感覚を持っているのは、石崎と、高橋恵子(広島の人だが、いまどうしているか知らない)だけだ」と言った。嬉しかったのでそれは記憶に残っているが、右遠ではない。誰だったか思い出せないが右遠ではなかった。褒められたら覚えているはずなので、妹尾さんの記憶違いではないかと思う。
 個人的な思い出話に流れてしまったが、前置きとして言いたかったことは別にある。
 ぼくは太宰治、夏目漱石を別にして、子供のときから翻訳小説ばかり読んでいた。しかも語学の習得に失敗したので、ずっと翻訳だけである。原語で読んだことがない。翻訳するのは小説家ではなく学者だから、文体の特徴は現れるとしても、文章の芸術性を求めるのは無理である。
 たぶんそのせいで、散文というものは、たとえば音楽や美術と比較して、芸術性の極めて薄いものとして受け取ってきた。散文に芸術性をあまり期待しなかった。
 ところが今回右遠初期作品に出合って、その芸術性の高さに圧倒されている。ここには言語芸術がある。言語の密度が極めて濃厚である。これは才能の上に根気を必要とする職人的仕事だ。しかも百枚前後の作品を矢継ぎ早に書いている。30代半ばという若さだからできたのかもしれないが、ぼくには驚きだ。
 右遠初期作品を特徴付けるのは、まずそのストーリーの大胆さである。ここには私小説的、心境小説的傾向はみじんもない。むしろ極めて大衆小説的でさえある。
 第二に、そのストーリーは大胆ではあるが、時代のリアリズムをしっかりと捉えたうえで構想されている。どうでもいいことは書いてない。時代の根本問題をとらえている。
 第三に、先に述べた言語密度の濃厚さである。これはたとえば現代小説にはあまり見られないものではないか。現代小説がさらっと書くところを、右遠はこれでもかというほど丁寧に書き込む。まるで一つの写実的彫刻を丹念に彫り上げていくような作業である。
 第四に、いままでのところ主人公は知的青年である。20才そこそこから30前後。知識人と呼ぶほどには成熟していないが、知性と感性にすぐれ、その一方自尊心が強くて、傷付けられると報復せずにはおれない、喧嘩っぱやく、思い切った行動に出る、かなり行動的人物でもある、自己抑制があまり利かない、現実がよく見えていない、その上、自分の行動をいちいち理由付けして納得しようとする、そうしなければ納得できない人間である。そのような未完成の人間を、三人称で書こうが一人称で書こうが、客観的に見ている作者の眼がある。
 第五に、脇役の人物像にリアリティがある。主人公がいくらか突飛な人間であるだけに、脇役の実在感がこれを救っている。一人もいい加減に書かない。それぞれに個性がある。個性的でありながら現実に根をおろしている。
 特に女性の造形が見事である。
 第六に、これはプロの作家が普通に行っていることではあるが、叙述を効果的に入れ替える。これによって作品を一定のリズム、一定のムードが支配するとともに、読むにつれて謎が解き明かされていくという効果も与える。

 さて、前置きが長くなりすぎた。本論は短く終えよう。
「二升ころび」はそのタイトルで結末が予想できてしまう。これは得なのか、損なのか。
 タイトルから予想し得る性的カタストロフィを期待して読まされてしまうという効果はある。誰でもそういうスキャンダルは好きだから。やはりこうなったかという満足感もある。一方で結末の読者への衝撃度はどうしても減じられてしまうだろう。まあ、どちらとも言えないというところか。
 主人公「僕」は30前後、「結婚するのもおそかった」と書かれているから30代半ばかも知れない。この作品から「ぼく」が「僕」になっている。妻と幼い娘を持って、小さな会社の事務をやっていたが、結核に冒される。健康保険がない。蓄えもない。でも戦後憲法のもとで民主主義の政府が入院治療を保障し、家族には月五千円の生活保護を出すという。1960年の作品であるから、その時代の話である。
 容態が安定せねば手術できないので、一年間の療養生活を送り、手術のときが来た。手術を目前にすると、人は外泊許可をとって妻との時を過ごす。だが交通費のない「僕」はあきらめている。ここで「僕」は最初の理由付けを行う。帰宅しないのは交通費のせいではない、安静が大切だからだと理由付けして自分を納得させる。いわば負け惜しみである。このあともこじつけに近い理由付けでいちいち自分の行動を正当化していく。
 ひょんなことから金が手に入り、また術後の肉をそがれた人の身体を風呂で目撃し、そのほかいろんな精神的動揺があって、夜に入ってから外泊許可をとる。ここでの状況設定はまことに巧みである。前触れなしに帰宅するに至った経過を無理なく、しかも説明調ではなしに、ストーリー展開のなかで読者に納得させている。
 そのあとも長々と帰宅途次の様子が書かれるが、妻の肉体を思い浮かべ、性交場面を想像して、期待に胸を膨らませて帰ってみると、布団のなかに男がいた。という話で、この結末は読者が最初から予想したとおりである。
 それを単なる浮気と思った「僕」は、逆上し、暴れまくり、妻に暴力をふるったあと、思い直して、妻咲子を許し家族の生活を壊さないための理由付けを、ここでは口に出して長々と演説する。近所の世話好きの「お徳ばあさん」が聞いている前でである。ところがお徳がうっかり口をすべらして、それが浮気ではなく売春なのだ、米二升と引き換えに誰とでも寝てきたのだということが露見する。
「僕」は再び荒れ狂う。浮気ならまだしも、売春では夫の立場がない。荒れ狂って、お徳ばあさんにまでとばっちりが及ぶ。ここでお徳が反撃に出る。
 咲子はさまざまな内職をやって頑張ってきた、だがそのわずかな収入さえも、福祉主事は見逃してくれない、生活保護は自助努力で足らない分を補うだけだといって、働いて得た分を取り上げてしまう、働こうが働くまいが、結局五千円しか手元に残らないのである、それで一ヶ月暮らせるわけがない、福祉主事が把握できない収入は売春しかなかった、これが戦後憲法下の民主主義の実態なのだ。
 こうして、売春の事実を知る前にした「僕」の長ったらしい甘い演説はお徳によって完膚なきまでに叩きつぶされ、嘲笑される。その上売春の仲介をしたのは自分だとお徳は告げる。
 実際のところ「僕」の演説内容は、まるで少女趣味の甘ったるさで延々と続いて読者をうんざりさせるが、これが作者の計算なのである。お徳に批判させるための準備なのだ。
 こうして最後は、「どうすればいいんだ」「どうすればいいのか」「僕はどうすればいいというのか」と何度も繰返しつぶやいて、答えの出ない劇は終わる。
 ストーリーは少しも奇抜なものではない。大衆小説が好んで取り上げる題材である。またそこに社会的背景を入れて読者の同情を誘ったとしても、それも大衆小説の常套だ。「民主文学」は社会的背景さえ入っていれば喜ぶ傾向があるが、そんなものは大衆小説と変わらない。
 一方これは心境小説でもない。たしかに「僕」の心境で埋め尽くされてはいるが、これを心境小説から区別するのは、その「僕」への作者の扱い方なのである。ここではその心境に特権的地位が与えられていない。作者は「僕」と他の登場人物とを同等のものとして扱い、「僕」という主観で書かれながら、「僕」を外から見ることが読者にとって可能であるように書く。
 つまり、近代文学は、「私はこんなことでこんなに悩んでいます。偉いでしょ」というようなところがあった。それが鼻についた。右遠文学にあっては、悩む主人公は少しも偉くない。主人公もまた彼自身その他大勢なのだ。
 しかしこれはまた風俗小説でもない。ただ単に世間の人はこういうふうに生きていますよと書いてみせたわけではない。
 ここに書かれるのは、絶望のなかに置かれ、その中で出口を求めつつも出口を見出せない人生そのもの、人間の実存の姿である。
 そして、この作品で作者が、「無傷の人」や「無傷の論理」という観念的なタイトルを避けて、「二升ころび」という生活的なタイトルを選んだということのうちに、知識青年の現実への無力を描くだけではだめだ、一歩進んで現実に立ち向かわねば、という意志を感じる。
 心境には出口がないということを作者は確認したのだ。ここからは社会の変革の方向に向かわねばならない。
 しかし、小説が最もその役割を果たせるのは、まさにこの瞬間においてなのである。
 ここには出口がない。解決がない。希望がない。「民主文学」はしばしばそういったものを作品に対して求めがちだが、ここで解決を書いてしまったら、それは文学ではなくなる。大衆小説になってしまう。
 現実社会のただなかで、人がその実存のさなかに立たされる、その瞬間を切り取ることによって、この作品は文学となったのだ。それが読者を文学的な深いところで感動させ、そこに読者を立ちどまらせ、そこに描かれた社会と人間の情況、そして自分自身についての深い思索へといざなうのである。
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