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東田一雄 実盛和子 千石ゆきえ 坪井宗康

 いま小説は160枚だが、微妙なところにさしかかっているので、再度休憩してエネルギーを蓄える。
 古本屋通信が東田一雄と実盛和子について書いているので、ローカルな話題になるが、少し思い出を書く。
 ぼくが「まがね」に参加したのは、81年の第8号からである。この頃、東田一雄はまだ「まがね」にいた。その独特な、少し陰気な雰囲気は記憶に刻みつけられているが、発言の記憶がない。彼の声の記憶がないのだ。あまり発言しなかったのではないかと思う。
 当時、創刊号からすべて求めて読んだ。3、4、6と実名で随想を書いている。その内容はいま思い出せない。1、2、3に隅田晴彦名の小説があり、これが東田一雄のペンネームだったと思う。当時これを読んで才能のある作家だと思った。その内容自体はいま思い出せないが、力量を感じたことは記憶している。
 2、3に分載した作品はたぶん未完に終わっている。水島が舞台の青春群像だったので、特に興味を引かれて読んだ。この作品に対する当時の誰かの評で、舞台が水島であるのに、言葉が東京弁である、という指摘があった。いまぱらぱらとめくってみると確かにそうだ。
 その評を読むか聞くかして、地方で小説を書くむずかしさを感じた。方言で小説を書くというのはかなり難しいのだ。こういう指摘をされると、最初からすべて書き直さねばならなくなり、それで連載が止まったのかな、といま思う。
 いずれにせよ、当時バックナンバーを読んだなかで、唯一小説らしい小説を書ける作家だった。
 そののち随想しか書かなくなったことについて、小説を書かなきゃ駄目でしょと誰かが発言したのを聞いたような気がする。
 亡くなったのがいつだったのか、記憶にないが、ぼくがまだ「まがね」にいた頃で、江利チエミと同じ死に方だったと聞いた。睡眠中に嘔吐し、窒息したのだ。
 書物を始末するということで、何人かで訪れた。だからたぶんそのとき奥さんに会っているのだろうが記憶にない。書物をどう始末したかも覚えてない。たぶんぼく自身は何ももらわなかったのだろう。
 才能が、やがて埋もれ、消滅していく過程は痛ましい。なまじ才能のある人ほどその傾向があるような気がする。どうでもよいようなものなら書かない方がましだと感じてしまうのではなかろうか。
 今回古本屋文を読んで、東田夫人が古本屋さんと因縁のあった女性であることを知り、いくばくか感慨があった。

 余談だが、古本屋さんの党籍消滅のいきさつは小説になりそうな話である。ただ井上光晴のような大げさな党批判の小説にするのではなく、おたがい青春の気負いや未熟さから生じる不幸な行き違いというものを客観的に描写できれば、よいものになるだろうと思う。
 遠い日の青春自伝的な小説を「民主文学」誌上でいくつか読んだが、作者が主人公(過去の自分)になりきって無批判に書いているものには違和感を覚えざるを得なかった。現在の作者の眼から見た自己批評が必要であろう。
 それはそれとして、党籍消滅の例を身近にもうひとつ知っている。すでに故人となったが、日本福祉大で党活動をやって水島に帰ってきた人で、転籍書類を出したが、なしのつぶてである。奥さんのほうは引く手あまたで、うちの支部へいらっしゃいと方々から誘われたが、本人はトロッキストの疑いを掛けられて、ついに転籍させてもらえなかった。それもはっきり拒否されたのではなく、うやむやにされた。こういう例はかなりあったのだろう。

 実盛和子は、お母さんのような人である。ぼくは齢をとっても甘ったれの性分が治らないので、こういう甘やかしてくれる女性が好きだ。
 今回「まがね」に復帰して、岡山市民会館で再会したとき、「おじさんになったな」と言ってくれた。「おじいさんになった」とは言わなかった。
 一度か二度会って、それっきりになった。見舞いに行きたいとも思うが、会ってもこちらを認識できないという話なので、それなら仕方ないかとも思う。
 ぼくの亡母が短歌をやっていて、昔、実盛さんの短歌を読んで、「この人はプロだね」と言った。プロもプロ、赤旗の短歌選者をやっていたというのだから。
 ところがぼくはプロの短歌が苦手なのである。いままで歌集を手にして最後まで読んだのは、啄木と「サラダ記念日」だけで、そういういかにも素人向きのわかりやすい短歌ならよい。芸術的な短歌を鑑賞できるほどには、ぼくは鍛えられてない。百人一首くらいが手頃である。
 彼女は小説はうまくないが、そのうまくないところに魅力がある。彼女の素朴で一生懸命な生き方が魅力的なのだ。

 ついでにもう少し書く。
 千石ゆきえである。長瀬佳代子が、あの人のような面白い小説を書きたいのに書けないといつも嘆いているが、実際、彼女の小説は面白かった。どこが面白いかというと、人を見る眼も自分自身を見る眼もきわめて冷静で客観的なのだ。鋭い批判精神を持っていて、それを軽妙な文章にできる人だった。
 車椅子生活の若い女性で、かわいい人だった。一度彼女を抱きあげて喫茶店の二階まで運んだことがあった。ぼくはその頃すでにぎっくり腰があったので少し不安だったが、彼女はとても軽く運びやすかった。ぼくが「まがね」をやめてのち、亡くなったと電話してきた妹尾さんは電話口で泣いていた。若くして亡くなった。

 もう一人。
 坪井宗康について。
 この人の詩集は何十年も前から持っているのだが、じつはいまだに読めていない。だから読んだのは「まがね」に発表されたものだけだ。それでもこの人の詩は好きだった。好きなのになぜ詩集を読まないのか。自分でもわからない。
 こういうことがあった。あるとき散文詩を提出したが、編集が随想あつかいしてしまった。そのとき居合わせた「まがね」の面々が、こういう形式の詩があるなんて知らなかったと言った。ぼくはちょっとびっくりした。その散文詩はどう読んでも詩としか読めないものだったから。まあ、当時の「まがね」の文学水準はその程度だったわけだ。
 この人で一番印象に残っているのは、「美しい岡山弁をしゃべる人だ」ということだ。彼に会うまで岡山弁が美しいと思ったことはなかった。むしろ汚い言葉だというイメージがあった。ところが坪井氏が岡山弁をしゃべると、耳に非常に心地よいのである。言葉というものはその言葉に熟練している人から聞くと美しいのだなと初めて知った。
 この人も早く亡くなったが、近年、くにさだ きみの本を読んで坪井氏の岡山詩壇に占めていた位置を知ることができた。

 ぼくが「まがね」にいたのはわずかな間だったが、さまざまな人ともっと交流する機会を与えられていたのに、もったいないことをしてしまったといま思っている。
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