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右遠俊郎「告別の秋」「残った松笠」

「告別の秋」80枚。「残った松笠」100枚。
 諸山立が日ごろ日本の短編小説の外国にはない特異性ということを言っていたが、彼の誤解もあった。外国の小説はみな長いと彼は言ったが、そんなことはない。短編はいくらでもある。
 それでも今回諸山氏の言葉の意味が分かった。上記二冊を読む中でなるほどこれが日本の短編か、と思わされた。
 文章が濃密なのである。些細なことを実に丁寧に書く。それが的確なので読まされるし、その情景のなかに自分が包みこまれていくような感覚がある。
 たしかに西洋の小説はここまで書かない。簡潔に書いてあとは想像にまかせる。この二作品の描写にはまったく隙間というものがない。完璧にできあがっている。唸りながら読んでしまった。
 小林昭の5月号のレジュメを作る必要から読んだのだが、レジュメはできあがったが、結局二作品の内容には触れなかった。
 人間の実存を書くという小林昭のテーマに沿って見習うべき作として挙げられたのだが、もちろんそれを感じさせられる作品ではあった。
 ヘミングウェイの、盛りを過ぎてなお挑戦する闘牛士や、ほかにもそういった作品があったと思うが、それを思い起こした。
 ヘミングウェイはただ人間の普遍的な問題として書く。右遠俊郎の主人公の姿ももちろん人間の普遍的姿なのだが、そこに社会性を持たせる点が違っている。

 ただ今回ぼくはその内容よりも、その文体の方に興味を奪われてしまった。
 このような文章はぼくは逆立ちしたって書けない。これは職人仕事だ。長い鍛練と忍耐強さがなければできない。なるほど、これが日本のプロとしての作家なのか。そしていくぶん「だったのか」という感想を抱く。
 いまネット空間を無数の携帯小説が飛び交っている。あの手の文章はぼくにはとても読めない。でも今の若者はああいうものを好み、ぼくのなんぞは読みたくない。
 そして右遠俊郎のこの濃密な文章は、ぼくにはちょっと濃密すぎるようにも感じられるのだ。それは気楽に読むことを許さない文章だ。おそらくぼくが読書を怠けすぎてきたのだろう。軽いものばかり(携帯小説ほどではないが)読んできて、ずっしりとくる小説に対して精神の備えが出来なくなっている。
 小説は所詮時代の子に過ぎないのだろうか。やがては携帯小説の天下になるのだろうか。
 それともぼくらは、この、ある意味では無駄とさえ感じられる芸術性への感性を鍛え直していくべきなのか。
 あるいはそれは単に個人的好みの問題にすぎないのか。
 過去に読んだ右遠作品が、「我が笛よ、悲しみを吹け」だけだったので、ぼくは右遠作品をもっと軽いものだと思っていた。あれはかなり大衆小説的だった。右遠氏はどちらも書ける作家なのだろう。

 課題として残ったのは、ほかの作品ではどうなのかということ。ここまで来たら読まねばなるまい。
 いまひとつはモデル小説というものについて。実在の人物を読者に提示して書くということの意味について、少し考えてみたいと思っている。
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