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科学的社会主義(植田さんのコメント247に)

 ロバート・オーエン、サン・シモン、フーリエを読んでいないので、空想的社会主義とはどのようなものか直接には知らないわけだが、ドストエフスキーが若いときハマったのがフーリエ主義で、のちにはそれを社会主義一般として扱い、批判するようになるのだけれど、ドストの小説から感じられるフーリエ主義というのは、まさに空想的と呼ぶにふさわしいものに思える。それはつまり頭で考え出した理想社会である。
 そんなものは人によって何通りにも考えることができる。だが考えるだけである。法則性がないので、実現性がない。
 それゆえマルクスは社会主義に科学を持ち込んだ。現実の社会の地道な研究の中から、社会がどのように動いてきたか、今後どのように動き得るのかを見出そうとした。それがつまり彼の経済学だったのだと思う。
 科学的社会主義とは、「社会主義は科学でなければならない」という主張以外のものではないとぼくは受け取っている。夢想することをやめて、現実を研究しなさいという主張なのだと思う。
 そういうものとして生まれてきた思想潮流が科学的社会主義と呼ばれるようになり、それはやがて普通名詞から固有名詞になった。すなわちマルクス思想を指すようになった。だがやがてマルクスが時代に合わなくなってくると、科学的社会主義はふたたびある意味では普通名詞に舞い戻った。それはマルクスを超えて日々新たにされるものとなった。しかしほかならぬそのことが逆に、それを新たな固有名詞にしてしまったようにも思われる。すなわちそれぞれの党が、「わが党の思想こそが科学的社会主義である」と主張しているかのようにも見えることによって。
 言葉の多義性という問題は、小説を書こうとする人間が常にぶつかる問題なのだが、この言葉もそうなのだ。それがいろんな意味に歴史的に変遷し、またいろんな意味で使われているので、厳密にひとつの意味に限定しようとするとわけがわからなくなる。それぞれの主体の使い方、また受け取り手の感じ方の問題として扱うしかないと思う。
 だから、植田さんが科学的社会主義という言葉への懐疑を口にするとき、どのようなものとしてそれを語っているかということはだいたいわかるし、そういう限定された意味では同感できるものである。
 ただし、植田さんは多義的でしかありえない言葉を一義的に限定しようとして、今回多少混乱されているように思える。
 まずマルクス主義を「社会はどうあるべきか、どのような理念が尊重されるべきかを問う……思想である」とされている。
 ぼくはマルクスを植田さんより全然少ししか読んでいないので、あるいはぼくが間違っているのかもしれないが、これはマルクスと正反対の思想に思える。
 ぼくの考えではマルクスはただ現実を研究し、著述したのである。「べき」や「理念」はマルクスから最も遠い。「べき」や「理念」を述べた哲学者を、マルクスは「それはお説教だ」といって嘲笑っている。(マルクスを読んだのがはるか昔なので、どの本で誰についてだったか思い出せないのが申し訳ないが)。
 彼はもちろん社会がどうあってほしいかという思いを持っているし、社会を変えることのできる哲学でなければならないとは言っている。しかし、それは「べき」や「理念」から出てきたわけではない。人間だれしもが持っている思いを彼もまた持っているというだけなのだ。
 それは大切なものなのだけれど、それのみでは何の役にも立たないものだ。マルクスは現実主義者なのだ。現実を変えるには現実に学ぶしかないことを知っている。現実を変えたい。しかしそれは「べき」や「理念」のためではない。人間だれしもが持っている普通の感覚の故なのだ。
 マルクスにとって、価値とは交換価値だけである、とぼくが強調したのはそれゆえである。
「べき」「理念」「道徳」、あるいは「価値」、マルクスにとってそれは下部構造に規定された上部構造であり、すなわち支配者の支配の道具である。
 そして悲しいことに、この原則は共産主義者を名乗る人々が政権をとっても貫徹された。いわく「社会主義道徳」。それはつまり党官僚や独裁者が人民を支配するための支配の道具だった。
 もちろん人々は自己を律する何らかの掟を持つべきであろう。だがそれはあくまで個人的なものだ。それがいかなるものからであれ強制されるならば、必ず問題を引き起こす。人々はそれを生活や文化から学ぶのだ。だからぼくは、それが(ほかのではなく)文学の、課題であると書いた。
 ちなみに、脳や遺伝子の最新の研究は非常に面白く、得るところが多い。だが人間の複雑さが、それらによってすべて解明できると考えればとんでもない間違いを犯すことになる。竹内久美子がよい例だ。彼女は正しい前提からとんでもない結論を導き出した。
 それゆえ、人間に関することは、依然として文学の課題であり続けている。(つまりそれはデジタルでは解明しきれない。アナログでやっていくしかないのだ)。
 もう一点補足する。「いま人々は空想的社会主義からやりなおそうとしているように思える」といつだったかぼくは書いた。政治が一向に問題を解決できないなかで、それぞれの現場でさまざまなことが試みられている。(たとえば、里山資本主義や、地域通貨等々、これ、すべて空想的社会主義だろう)。それは試行錯誤だが、ぼくは期待している。理論が行き詰まったときにはいろいろやってみるしかないのだ。かつての空想的社会主義者たちの試みからもマルクスは大いに学んだに違いないと思う。

 問題意識が、植田さんの提起したものから、大分ずれているかもしれない。ひとの関心のありどころはおのおの違うので、いたしかたない。乞ご容赦。
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コメント
250:つづき by 植田与志雄 on 2014/06/01 at 14:33:47 (コメント編集)

石崎さんのいいたいこと、いくらか理解できたような気がします。
科学的社会主義、あるいはマルクス主義は徹頭徹尾科学である、科学であるべき、そう理解すべき、マルクス自身もそういうつもりだったろうし、石崎さんもそう思っている。
科学的、合理的な社会理解に徹するのがマルクス主義で、それ以上をマルクス主義の中に求めるのは違う。思い出せば確かに私もそう思ったことが何度もあったように憶えています。
では、私がマルクス主義に恋したのは何だったのか。
科学的合理性に対してだったのか?
自分はエンジニアだったのでスケールの大きい合理性に感銘を受けやすい素性があるのですが、
どうもそれだけだったのではなかったと思っています。
つまりマルクス主義は科学的認識に過ぎないしそれ以上であってはならないと思いつつも、一方でそれ以上の、人間どう生きることが幸せなのか、個としても人類としても、を論じているところに強い共感を覚えたからだった。
だから自分にとっては科学とその目的たる価値(もちろんマルクス経済学での「価値」ではなく)の両面でマルクス主義に惹かれたし、多くのマルクス主義者はこれだったと思っていましたが、ここは石崎さんと違うのかなと少し驚いています。

【「べき」や「理念」を述べた哲学者を、マルクスは「それはお説教だ」といって嘲笑っている】
これは現実と確かな接点を持たない観念論的な「べき」や「理念」に対してのマルクスの姿勢だったのではないでしょうか。だから
【マルクスはただ現実を研究し、著述したのである。「べき」や「理念」はマルクスから最も遠い】と言われると同意しずらいのです。

【加藤周一が社会科学は科学ではないと言っていた】、検証不可能なことを扱うというより価値の領域に踏み込んでいるからではないか、私はそう感じています。

これ以上は繰り返しになるのでやめておきます。

249:笹本さんに by 石崎徹 on 2014/05/31 at 23:17:35 (コメント編集)

 科学〝的”にやろうという意味にとるべきでしょうね。つまりあくまで相対的なものです。それを絶対化する傾向が見えるので、植田さんが嫌っているのだろうと思います。

248: by 笹本敦史 on 2014/05/31 at 22:17:35

何で読んだのか忘れたのだが、加藤周一が社会科学は科学ではないと言っていた。確か、追試が不可能なものは科学ではないというような理由だった。だから、というわけではないのだが、科学的社会主義でいう「科学」はレトリックに過ぎないのではないかと思う。

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