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「寒風に抗して」再論

「まがね文学会」ブログのスタイルが変わった。実はぼくのブログの以前のスタイルが読みにくかったので娘に変えてもらったところ、「まがね」と同じスタイルにしてしまい、紛らわしかった。本当はぼくの方が変えねばならなかったのだが、「まがね」の方で変えてくれた。
 それで新しいスタイルを試すのに、あちこちしてみた。基本的に以前と変わらない。カテゴリーに民主文学評がある。これも以前と一緒だが、そこを見ているうちに、ぼくの書いたもので内容を思い出せないものが多いことに気付いた。ごく最近のものでも思い出せない。かなり記憶力が退化している。
 そこでところどころ読み直してみた。すると、なかにはずいぶん思い切った酷評をしているものもあって、作者に申し訳ない気になった。ここで謝っておく。こういうことだからぼくは嫌われるのだろう。謝るが、今後も同じ調子で書くだろう。ぼくの個人的感想ということで勘弁してもらいたい。

 ここまでは前置き。
 書きたかったのは、3月号の相沢一郎「寒風に抗して」についてである。4月号の文芸時評で、岩渕剛がこの作品を評価しつつ、疑問も呈している。それを読んだときこの疑問に対して疑問を感じたのをいま思い出した。
 相沢作品は、橋下徹の「労使関係に関する職員アンケート調査」を下敷きにしている。架空の市の50才の係長が、アンケートへの回答を拒否する。ところが上司が勝手に本人に成りすまして回答してしまう。本人はおかげで異動を免れるが、自分の意思が無視されたといって怒り狂うという話である。
 ぼくはこの話に単純に感動した。人はどのようなとき怒るか、また怒るべきなのかということがうまく表現されていると思ったからである。
 岩渕氏もまさにその点を含めて評価しているのだが、この主人公の来歴との整合性を問うている。というのは主人公は学生時代弁護士をめざして司法試験の勉強をし、明治期の自由民権運動にも関心を持っていたと書かれてある。そのような人物の反抗の理由が、クリスチャンだった母親の思い出という個人的なところに置かれ、そして労働組合とは無関係な個人的な反抗で終わるのが解せないというのである。
 ぼくには岩渕氏のこの疑問は理解できない。
 人はさまざまであろう。法的権利を理解し、自由民権に関心を持っているからといっても、その生き方は人それぞれであろうし、組合運動に関わる人ばかりではないはずである。
 相沢一郎が想定した人物は個人主義者なのだ。越智と名前を与えられたこの人物は、何らかの運動に加わる気はないが、権力に媚びる気もない。そのような人物がどういう状況で本気で怒るかということを作者は書いたのである。
 これこそまさしく、小林昭言うところの人間の実存だ。
 人はどのようなとき行動に立ちあがるか。文学が書かねばならないのはそのことだろう。そして「寒風に抗して」はそれを描いてみせたのである。
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