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祭りの終わりと、一回性について

 祭りが終わった。人々は生活に帰っていく。
 祭りというと酒井啓子の言葉を思い出す。エジプトの革命の時、酒井啓子が「これは祭りだ」と言ったのだ。(いまそのときの言葉を拾おうと調べていて、あれからすでに3年も経っているのにびっくりした。ついこのあいだのことに思えるのに)。この言葉をぼくは直接読んだのではなく、朝日新聞で東浩紀が引用していたのを読んだのだった。
 そして連想はどうしても宮本研につながっていく。
 88年に61才で死んだこの劇作家の名を、岡山県や広島県の片田舎ではとんと聞かなくなったが、いまウィキペディアで調べたら、21世紀に入っても上演されているというので少しほっとした。
 河出書房新社から71年に出た「革命伝説四部作」を、ぼくは大阪の本屋で偶然見つけて買った。
 そのカバーはすでにボロボロになっているが、カバー裏に「阿Q外伝」からの次の言葉が印刷されている。
「広場のまんなかに、花で飾った一本の杭を立てろ。そして、そこに民衆を集めろ。そうすれば、そこで、祭りがはじまる」
 この杭とはもちろん阿Qが処刑されるための杭だ。
 木村光一演出の文学座の舞台で、杭にくくられたぼろぼろの衣装の北村和夫が、「一年経った、ひとおつ」と唄った場面が忘れられない。翌日民青の会合へ行くと、夜間高校へ通う少年労働者が、「一年経った、ひとおつ」と口ずさんだ。彼も見ていたらしい。
 あれも、70年前後のぼくらの祭りだった。
 そして3年前、タハリール広場にも一本の杭が立ち、花で飾られ、民衆が集まったが、やがて祭りは終わった。最も不幸な終わりかたをした。人々は生活へと帰っていく。

「原発いらない。官邸前行動」の参加者も激減しているという。無理もない。誰にだって生活がある。すぐには解決できないと見れば、人々はいったん生活に帰っていかざるを得ない。
 だが、祭りは祭りだ。福山ばら祭りは終わったが、一年後にはまたある。人々の祭りもこれで永久に終わってしまうわけではない。

 とはいえ、最近ぼくは「体験の一回性」という言葉をしきりに思い出す。これも朝日新聞で読んだのだが、誰の言葉だったか、いつ読んだのかも忘れてしまった。記事の趣旨は、「人間は同じ経験を二度することはない。何故なら二度目には一度目の経験によってすでに主体が変更を蒙っているからだ」ということだったが、ぼくはいま少し違う意味でこの言葉を反芻する。
 ぼくらのこの世界では、すべてのことがただ一度きりなのだと、近頃しばしば思うようになった。若い頃はもちろんそうじゃなかった。今日会えなかった人にも明日は会えるだろう、今日出来なかったことも明日は出来るだろう、今日の失敗も明日は取り戻せるだろう、と漠然と思っていた。
 だが、いまになってそうじゃなかったことに気付いた。
 今日会えなかった人は明日は死んでいるかもしれない。たとえ生きていてさえ、もう今日と同じ人ではない。
 浅田真央にとってソチ五輪は一度きりだ。
 都知事選が4年ごとにあるとしても、14年の都知事選は一度きりだ。
 すべてのことがただ一度しかない。
 宇宙には循環するなにものもない。それは生成から消滅へと一直線に進んでいき、二度と繰り返されることはない。
 つまり、すべての選択も一度きりなのだ。
 この意味をぼくらはどれだけ分かっているだろうか。

 これが祭りの終わりにさいして、ぼくの頭に浮かぶことだ。
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