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小林昭から、いろいろ

 セキュリティが不安で昨日は開けなかったが、対策プログラムが自動更新されたようである。

 いま「民主文学」5月号を読んでいる。なかなか面白い作品がある。全部読んでから感想を書く。

 何人かが小説論を書いている。すべて読んだが、やはり小林昭がぼくの問題意識に一番フィットする。もっとも小林昭の言うことはいつも一緒だ。批評精神がほしいということ。人間を書くこと、いかに生きるか、いかに選択するか、その実存を書けと言っている。こういうところがぼくの精神にピンとくるのだろう。彼の主張にはマルクス主義文学論の匂いがない。マルクス主義的文学論はぼくは苦手だ。ぼくのいる場所からは遠く離れている感じがする。
 もっとも、小林昭の小説論もぼくの目にはやや狭く感じる。かつて19世紀から20世紀半ばまで、小説は青年たちの人生哲学であった。小説は大説であった。いま一般的に小説はエンタメである。それは日々の生活を潤す栄養剤なのだ。もちろんそれだけで良しとするなら、小林昭に共感したりしない。彼が小説に求めるものをぼくも求めている。だがぼくの考えでは小説はそれだけではない。もっと幅広く考えたいのだ。

「民主文学」の前広島支部長を訪問してきた。その際当人の要望でもう一人の福山在住「民主文学」読者を誘って一緒に行った。前支部長の中学の教え子で、卒論のために天明の福山一揆の資料提供に協力したのだという。この天明一揆というのにも興味をそそられたがそれは別の話として、このもう一人というのが現役の活動家で大変忙しく、電話では話していたが、会うのは初めてだった。
 何が言いたいのかというと、この人は「民主文学」定期購読者だが、本人の言うところではじつは読めていない。本人はミステリーファンで、松本清張が好きなのだそうだ。清張ともう一人名前を挙げたが度忘れした。東野圭吾も何冊か読んでいる。横溝正史も大変好きで、彼の小説には色彩があると言った。適評である。なかなか鋭い。
 以上前置き。本題は、読まなくても購読してくれる人がいるということである。「民主文学」の維持のためには大変ありがたい人である。でも本当は読んでほしい。読めば必ず気に入る作品がある。でもこの人にとって読書はやはり気分転換であり、日常が忙しければそうでしかありえないだろう。
「民主文学」は誰のためにあるのか。作家志望者のためにあるのではなかろう。忙しい中で購読してくれている人々の需要を満たす作品が必要である。エンタメが必要である。そしてじつは最近の「民主文学」にはそういう作品も載るようになってきている。でも定期購読者はそもそも読んでないのでそのことを知らない。だから読まない。そういうことを読者に知らしめる宣伝が必要だ。

 ぼくの母は「文芸春秋」を定期購読していたので、芥川賞受賞作品は必ず読んでいた。ぼくは読んでなかったので、たまに内容を教えてくれた。そういう母がもう一冊定期購読していたのは「小説新潮」である。「新潮」でも「文学界」でも「群像」でもない。いわゆる文学的な、芸術的な小説だけが小説なのではない。そういう小説は絶対必要だが、しかしエンタメも必要なのだ。

 ということを言いたくて横道にそれたが、小林昭に戻る。彼は彼の小説論の具体的な作品例として右遠俊郎の「告別の秋」を挙げた。そこには人間の実存が描かれていると言った。小林昭は右遠俊郎の親友らしいから、例に挙げるのももっともなのだが、実はぼくは読んでない。ぼくが読んだ右遠作品は「わが笛よ、悲しみを吹け」だけだ。エンタメ的な読みやすい小説で、水島公害を扱っており、水島で働くようになって一番に読んだ。大変感動したが、他の作品まで手が出なかった。一度だけ会った。何年のことか、どこでだったか思い出せないが、中国地区研究集会に来てくれた。彼が何を発言したか、毎年招いた何人もの講師とごっちゃになって思い出せない。ただ友と風呂へ入って、「意外と年寄りだね」と言ったとたんに後姿の入浴者が右遠俊郎なのに気づき、しまったと思ったがもう遅い。申し訳なく思ったことだけ覚えている。
 まあ、これはどうでもよい思い出話にすぎないが、今回改めて右遠作品を読まねばならないと思った。でも、読むものが多すぎて、追っつかないよ。
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