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一人称

 笹本敦史がブログで、どうでもよいことだがと断りつつ、一人称への戸惑いを記している。日本語の人称代名詞の極端な多さには、誰しも戸惑う。I you we he she theyですべて済ますことのできる英語の簡便さを思う。(フランス語にはtuとvousがあるが)
 とりわけ男性一人称は多彩である。わたくし、わたし、わし、あたし(翻訳小説で少女の一人称に使われるが、江戸弁では男性も使う)、わい、おれ、おら、おいどん、おい、じぶん(関西では二人称である)、われ、わがはい、みども、せっしゃ、てまえ、てめえ(二人称にもなる)、ちん、まろ、ぼく。たぶん、まだまだある。
 ぼく自身はもっぱら「ぼく」だが、これは職業的な慣習で他意はない。改まった場での対話を要求されることのない現場作業を永年してきたせいで、「わたし」を使った経験がない。実はずっと「おれ」だった。それでかまわない職場だった。それでも子供のころは「ぼく」だったが、中学高校あたりからだんだん「おれ」になってきて、大学以後、「ぼく」はいったん消えていた。退職してから対話の機会が減り、書くだけになって「ぼく」が復活した。
「ぼく」には子供っぽい印象があり、他方、目上の人に対しては失礼だという印象もある。しかし、「わたし」を使ったことがないので使えない。もう歳とったのだから許してもらうことにしている。
 福山の子供たちは「わし」を使うが、ぼくは福山生まれではないので、その一人称になじむことはなかった。すべてただ習慣的なことなのだ。
 ところが小説上では、人称代名詞で小説の印象が変わってしまう。「異邦人」の最初に読んだ新潮文庫では、「私」だったのが、別の翻訳で「僕」になっているのを目にしたときはとうてい馴染めなかった。主人公の印象も小説全体の印象も違ってしまう気がした。
「カラマーゾフ」の亀山郁夫訳で、スメルジャコフが「僕」でしゃべるのにも閉口した。スメルジャコフの印象が変わってしまう。もちろん亀山はそれを意図したわけだが。
「僕」の本来の意味は「しもべ」であり、へりくだった言い方なのだが、明治維新の志士たちが使って流行らせてから、へりくだった印象はなくなってしまっただろう。亀山がどちらを意図したのか、いまちょっと分からなくなった。
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