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小山田浩子「いこぼれのむし」

 これは小山田版「藪の中」である。
「工場」では三つのほとんど接点のない職場の三人がそれぞれ一人称で語り、それぞれの人生を生きることで、全体として現代における労働の不条理を示す手法をとった。
 ところが今度は、同一職場の9名プラスその他1名、計10名が、それぞれ一人称で語る。全体は19のパートに分かれており、主要人物の奈良(女性)がひとつ置きに10回、その余の9名がそのあいだにはさまってそれぞれ一回ずつ語る。
 同一職場であるから、お互いのことを語る。ひとつの事象を10人それぞれの視点で繰り返す。そこには10とおりのものの見方があり、それぞれに食い違う。数名の一人称というのは珍しくないが、10名というのは前代未聞ではないか。しかも作品はごく短い。意欲的な実験作である。
 演劇的手法ともいえよう。演劇には地の文はなくセリフだけなので、見ようによってはそもそも多人称表現である。作者は登場人物たちに勝手にしゃべらせて、判断は観客にまかせる。そこに提供されるのは混沌であるといってもよい。
 推理小説の場合も同様のことがいえる。証言者たちの証言はお互いに食い違い、何が真実か分からない。だがこの場合は探偵がもつれた紐を解きほぐし、最後には真実に到達する。皿海達哉氏がいみじくも述べたように大衆小説に期待されるのは達成感だからだ。
 だが、以下に見るように「いこぼれのむし」ではそうはいかない。
 おたがいに人物評をする中で、焦点は奈良に絞られてくる。奈良は「いこぼれのむし」なのだ。「いこぼれ」という言葉に初めて接したが、これは「居溢れる」即ち、集団の中で居場所のない人をいうのだそうだ。
 まじめで無口で陰気で、コミュニケーション能力のない奈良にとって、クラス会のような女性たちの職場はかえって居心地が悪い。孤立の中でストレスがたまり、心身の調子が乱れてしまう。最後に彼女は退職するが、これは最初別人の一人称のなかでただ退職の事実だけがぽんと投げ出され、何の説明もない。最後のパートは奈良の一人称で、ここでも奈良は直接には何も語らない。
 だが、そのパートでの奈良は打って変ったように明るく活き活きとしている。敗北による退職ではないのである。彼女はある真実を見出し、ひとつの人生に区切りをつけたのだ。
 そのきっかけは水谷課長によってもたらされる。水谷は奈良にいくぶん似ているとまわりから見られている。まじめで要領が悪く、自らも「うつ」傾向がある。彼は奈良が「うつ」ではないかと心配し、そのことを奈良に示唆し、医者の助言を求めることを暗に促す。
 水谷の言葉の意味を悟った瞬間、奈良は笑いの発作に襲われる。「そうだったのか。自分が普通に自分でいることが、他人の眼には『うつ』に見えるのか」
 奈良は医者に行くが、それは「うつ」を治すためではない。ストレスから胃炎気味になった身体を、身体だけを、治すためである。もはや精神は完全に回復しているのだ。そこで奈良は目黒課長に遭遇する。産休中のこの女性課長は、奈良を精神科に行かせるように水谷に示唆した人物である。彼女は奈良が単なる胃炎であることにがっかりする。
 ここで勝者と敗者ががらりと逆転する。勝ったのは奈良である。その意味ではここには大衆小説的な達成感がたしかにある。だが、そこまでの奈良のみじめな描写の前ではこの程度の達成感は読者の精神衛生のためにも必要だろう。読者はある程度は満足させられねばならない。
 最終場面はハッピーエンドといえるのだが、全体を見ればここに提示されているのは、ひとつの事象が認識主体によっていかに食い違うか、結局人々の認識はその人の主観にすぎず、客観的なものなどないのだ、という事態なのだ。「藪の中」なのである。
 いったい10人もの一人称を出す必要があったのかという疑問もないではないが、これはこれでひとつの表現として成功しているのではないか。
 ただいくつか問題点はある。
 ひとつは、ふたたび労働を描いていると期待して読んだら、いつのまにか人間関係の話になってしまっていたことである。もちろん労働から人間関係を除くことはできないだろう。ただあまりにも一方的にそちらへ比重がいってしまったのは(最初のうち労働描写が秀逸だっただけに)残念だった。
 その点で考えさせられたのは、人生とコミュニケーションとが切り離しがたく結びついているという点でやはり女性には男と少し異質なものがあるのだろうかということ。もっとも男が書いても労働そのものはたいがい排除されるのだが、この作家の場合、労働をたくみに描くので、かえって労働とコミュニケーションとの結び付き方と、それが途中から一方的に後者へと移行していくことが気になる。もっとも女性のおかれている労働環境が男よりもコミュニケーションを要求されるということかもしれない。それは単にぼく個人がコミュニケーションを必要としないところで働いてきたというだけのことかもしれないが。
 もうひとつは、話し言葉を小説に持ち込むことの難しさについてである。
 全編が一人称なので独白体である。独白なので、会話は行替えされない。地の文の独白に溶け込む。この作家はいまのところすべてそうだ。それが彼女の文体だ。
 だが他の作品では話し言葉は用いられなかった。一人称ではあるが、それは小説の文体だった。この作中では奈良のパートおよび若干は小説体だが、何人かの独白が話し言葉になっている。
 これに違和感がある。庄司薫の「赤頭巾ちゃんシリーズ」はすべて読んだが、これは話し言葉の小説として一世を風靡した。そして何の違和感もなかった。だが今回の小説で何人かが長々と話し言葉で独白すると、だんだん鼻についてきた。それは話し手の個性を表現するために必要だったのだろうが、もう少しセーブしたほうがよかったような気がする。
 ぼくは労働現場の雰囲気を出すために方言を多用するが、ここにも読み手に違和感を与えないための工夫が必要だろうと考えさせられた。
 さて最後になるが、かなり終わりのほうを読んでいてふと気づいた。たしか二回目のパートでパートタイマーの女性が一人称で登場したはずだが、どこに消えてしまったのだろう。その部分を読んだときには彼女と奈良との二人主役だろうと思って読んだのだ。ところが話が全然違う方へ行って、その唯一名前のない一人称人物は小説から消えるとともに、ぼくの記憶からも消えてしまっていた。疑問を持ちつつ読み進むと、ほとんど最終近く「この人だれ? こんな人うちの職場にいた?」という箇所が確かふたつのパートで出てきて、「おお、生きていたか」と再会したのだが、つまりこのパートタイマーは作者なのだ。この話全体がこの人物による観察であるという二重構造になっている。観察者だから、誰からも観察されない。誰の一人称のなかでも語られることがない。それは本質的にこの小説を語っているのが彼女だからなのだ。そのことは早い時点で彼女のパートで明らかにされている。「非正規だから、他の、正社員ばかりのフロア内の女子社員の付き合いとは一線を引いていられる」
 ヒッチコックの映画には必ず彼自身が通行人の一人としてまったく目立たないように一瞬登場するが(それを探すのが観客の楽しみのひとつなのだが)、このパートタイマーも最初目立つが、あとは忘れ去られるべき人物なのである。そしてヒッチコックがその映画の監督であるように、この女性はこの小説の作者なのだ。
 そしてそのことは、10人の視点で書かれているかのように見えるこの小説が、じつはたった一人の視点で書かれているのだということを想起させずにはいない。まことに心憎い仕組みである。

 すでに作家という職業を獲得し、母親ともなったこの作者が今後被雇用者として労働現場に立つことはもうないだろうし、急速にそのテーマから離れていくだろう。ぼくにはそれがもったいなく思える。彼女は労働を描いてこそ最も興味深い作家なのだ。

 すでに長くなりすぎたが、ひとつ別のことを書く。
「労働者を書いたからといって、プロレタリア文学なのではない」と「民主文学」誌上でだれかが言っていた。たしかにプロレタリア文学とは戦前の一時期の文学流派をいうのだろうし、それを読んでいないぼくはそれについては何も言おうとは思わない。しかし――
「ただありのままを書くのではない。批評が求められているのだ」と小林昭はいう。基本的にぼくはそれに賛成だ。だが、批評とは何か。それはありきたりのドグマに手足を付けることではないだろう。自分の眼で見た、自分の心で感じた批評でなければ、まだ誰も書いていない自分独自のものでなければ、批評とは呼べないだろう。
 ぼくは小山田浩子にはそれがあると思う。それだけに、彼女が今後労働文学から離れていくだろうことにもったいなさを感じる。
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