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小山田浩子「工場」

 なかなか面白かった。読んで損はしない作品である。「穴」よりもむしろ優れているのではないか。
 広島のマツダで派遣で働いた経験から書いたと聞いた時から気になっていた。ところが帯を見ると、「何を作っているのかわからない、巨大な工場。敷地には謎の動物たちが棲んでいるーー」と書かれていて、ちょっと興ざめした。なんだ、例によって幻想小説か、と思ったのだ。
「穴」も日常から幻想へと入っていく。村上春樹の作品にもほとんど必ず幻想場面が出てくる。同人雑誌を読むと、「まがね」は別として、たいていの作品が幻想場面を入れている。
 いわゆる純文学(「いわゆる」と書くのは何が「純」なのかよくわからないからだが)には、幻想を書いたら「純」だ、幻想を書かねば「大衆」だといった思い込みがあるのではないか。
 ぼくは幻想には興味を持てない。そういう場面はほぼ素通りする。
 でも読んでみると、「工場」での幻想はおおむね作品によく溶け込んでいて違和感があまりない。
 9時から5時半の小説である。それ以外の場面は主人公の一人牛山佳子の飲み会での場面と、牛山がその兄と兄の恋人と三人で食事する場面の二箇所だけで、あとはすべて労働の描写である。アフターファイブ小説ではない。これが気に入った。
 そもそも生活するとは、その時間のほとんどが労働であるのに、小説がそれを無視することがぼくは気に入らなかったのだ。
 主人公は三人いる。牛山佳子ーー私、古笛ーー僕、牛山の兄ーー俺。
 この三人がかわるがわる語る。独白体である。
 工場が何を作っているのかは確かに書かれていないが、三人の労働内容は具体的である。「私」は非正規のシュレッダー作業員、「僕」は正社員だが、一人でコケの研究をやっている。「俺」は派遣の校正員だ。工場が何を作っていようと関係ない部署ばかりである。その労働内容はいずれも読者に分かりやすいものに限られている。全編ほとんどが労働の描写である。
 だが三人ともその労働がなんの役に立っているのか、意味をつかむことができない。給料はそれぞれ貰っている。だがやっていることは徒労ではないかと感じさせる。この小説全編を支配しているのは、この労働への徒労感、労働の無意味さ、労働の疎外、労働への懐疑なのだ。
 そこへ小学生が書いたという工場に棲む動物たちについてのレポートが絡んでくる。このレポートはコケ研究の古笛が受け取り、牛山の兄の校正にまわってくる。やがて牛山のところでシュレッダーにかけられるのだろう。
 ヌートリア、ウ、トカゲという三種の動物が工場の環境に適応して新種に進化、もしくは退化して、その環境に依存した生活をしている。なんのことはない、この動物たちは主人公三人そのものなのだ。
 こうして最後には古笛はヌートリアに、牛山の兄はトカゲに、そして牛山はウに変身して終わる。
 とくに印象に残る場面が二箇所。
 ひとつは小学生のレポートと銘打った場面。
 ここには三種の動物に関する薀蓄があるが、すでに新種に変化しているので、現実の動物たちに関する記述と、創作された記述とが混ざり合っている。なかでも、ウを述べる箇所は、労働者のおかれている運命の描写として真に迫ってくる。
 工場ウと呼ばれるこの新種は、群れて暮らしているが、ペアを作らず、したがって卵を産むことがなく、ヒナは存在しない。親鳥だけである。ときどき捕獲され、やがて使用済みとして戻される。衰弱した使用済みの何羽かは死んでしまい、残りはやがて元通りになる。にもかかわらずその数は増え続ける。いったいどこから来るのか。そしてどこへ行くのか。一方で、このウは印刷機のトナーと、その交換を暗喩している。それはトナーでもあれば、トナー同様の存在にすぎない労働者でもあるのだ。
 もう一箇所、牛山が兄の恋人を悪しざまにいう場面。全編どこにも感情の激しい吐露がなく、のらりくらりと進む中で、この場面だけは、いわば旧来の小説、もっといえば大衆小説的なものをあらわにして、爆発する。
「あのような人間が正社員として社会の一員ヅラをしてのうのうと生きていて、我々兄妹のような善良で気弱な市民が虐げられて正社員の職も手にできないのは不公平極まりない。死ね、死ね」
 ここで作者が全編のトーンをあえて破っていわば小説らしい場面を挿入したのは成功であった。ここには作者の実感までがこもっている感じがして、思わず吹き出してしまった。
 人物描写で印象深いのは、主人公たちよりむしろ脇役たちである。とりわけ牛山の職場の人たち。少女にしか見えないのに孫が生まれようとしている逸見さん、容貌からのあだ名でハンザケ(オオサンショウウオのこと)、2メートル近いデカオ、それにリーダーと呼ばれる老人、あと悪役として登場する牛山の兄の恋人も印象深い。
 三つの物語には微かな接点があるのだが、労働描写がほとんどだから職場の違う三人の物語はそれぞれ独立している。独白体だから、視点人物による観察で書かれるわけで、主人公は観察されない分、どうしても人物像はぼやける。そのかわり、まわりの人物が活きてくる。
 特に中心的人物である牛山の場合は、兄や、兄の恋人や、古笛から見た牛山が書かれていて、そこで人物像が立体的になる。
 あと巨大工場の描写、工場のなかを河が流れ、そこにかかった橋を徒歩で渡れば一時間半かかる。片側二車線の両側に歩道もある広い道路、無数の車が行き交っており、無料の循環バスが走っている。道路は40キロ制限で法令厳守である。誰の眼があるか分からない。
 敷地内には社員食堂の数だけで百、そのほかにレストラン、中華からフランス料理、イタリアン、寿司、鉄板焼き、スーパー、ボウリング、カラオケ、釣り堀、郵便局、銀行、書店、理美容室、マンション、それどころか、住宅街まであって社員とその家族が住んでいる。変質者の出没する森まである。
 かなり誇張はしているが、川鉄水島で40年過ごした身には珍しくもなんともない。でも工場を知らない人には驚きだろう。ひとつの町といって過言ではない広大な敷地における共同体が、一法人の私的所有下にあるのだ。これは現実なのであって幻想ではない。
 時間処理の問題がある。一部では15年の月日が流れている。説明抜きで時間が行き来するので、不馴れな読者は面喰うかもしれない。
 後藤という人物が二つのケースに出てくる。一方ではすでに中年なのに、他方ではまだ若い。そこを読み落とさないようにしておけば、容易に理解できる。読者に不親切だというなかれ。不要な説明をしたのでは文学でなくなる。できるだけ説明しないのが文学なのだ。読者も努力すべきである。
 さて、ぼく自身は労働者の自尊心について書いてきた。きつい、汚い、危険な作業に安い給料で働く人々の持っている自分の仕事への誇りについて、それが正当なものであり、侵すべからざるものであることを書いてきた。
 小山田浩子は、まったく逆のことを書いている。労働が無意味で、徒労で、疎外している状況を説得力をもって書いている。これも現実なのである。しかもますます激しくなっている現実である。ここにははっきりした社会批評がある。労働の二つの側面の片側をぼくが書き、反対側を彼女が書いたのだ。
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