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大衆小説

 大衆小説を分類できるほど読みこんでいないのだが、乏しい知識で仮に分類してみる。
 歴史小説、推理小説、SF、社会小説、世話物。
 細かく分ければいくらでも分けられるだろう。
 いちばん読んできたのは推理小説である。ルパンもの、ホームズものを筆頭に、エラリー・クィーン、アガサ・クリスティ、横溝正史、東野圭吾などはほとんど読んできたような気がしている。もっとも読み残しもかなりあるだろうが。
 ルパンものは推理小説というよりも冒険小説と言った方がふさわしい。もちろん謎が解けていく部分の魅力も大きいのだが、わくわくさせる冒険と、甘く切ないロマンスこそ無上のものである。
 クィーンは格調高い文体と本格推理にしびれたが、読み返したいほどの魅力はなかった。
 クリスティに惹かれたのは、愉しんで読める点と、あと、人間というものの本来持っている謎めいたものを描き出す筆であろうか。
 その点、東野圭吾も、初期から本格推理に加えて人間描写に深い味わいがあったが、一時期、推理小説のジレンマみたいなものに落ち込んだ後、最近はまた本格推理にこだわらなくなって、クリスティが書いたような人間存在の謎の部分を描き出そうとし、また社会的なテーマにも踏み込んでいる。
 横溝正史は日本の風土を描き出した点で独特であった。
 社会派推理と呼ばれる分野があるのは知っていた。だがどういうわけか読みたい気が起こらない。松本清張も中学生のころに「点と線」、あと「小倉日記」と短いのをいくつか読んだくらい。
 社会派推理を読まないと同様、社会小説と呼ばれるものも全く読んでいない。有吉佐和子や山崎豊子である。この分野では弟のほうがたぶん詳しい。いずれは読まねばと思っているのだが。
 日本では社会的なテーマは主として大衆小説が請け負っている。いわゆる純文学はどういうわけか、そういうテーマを嫌う。民主文学がそういうものを目差しているのかもしれない。
 世話物と仮に書いたのは、日常生活を描写した普通の小説である。これもまったく読んでいない。
 SFは好きで高校時代には創元社のSFマガジンをときどき買っていた。そのわりにいま思うとあまり読んでない。
 H・G・ウエルズはかなり読んだ。あとフレドリック・ブラウンなんかが好きだった。
 SFでつまらないのは、ただ舞台を未来なんかにしただけで、内容は単なる冒険小説に過ぎないような類いである。
 ウエルズは社会批評が鋭いし、ブラウンは秀逸なユーモアと、論理のパラドックス、人間心理などに優れていて、味わい深い。いずれにせよ人間的哲学の深みのないSFはつまらない。
 さて歴史小説である。これも歴史小説と時代小説とは区別すべきものであるそうだ。過去の時代背景の中での庶民的な生活を書くものが時代小説。歴史的事件を取り扱うものが歴史小説であるらしい。
 時代小説のなかで、山本周五郎と藤沢周平とは特に評価が高いが、まだ読んでいない。
 もっともどれが歴史小説と呼べるのか、かなり疑わしい。歴史的人物を取り上げたもののほとんどすべてが単なるフィクションである。事件は一応歴史的事実を追っているが(それすら真偽は疑わしいが)、人物は空想で書いている。
 ぼくは歴史も小説も好きだが、歴史小説は読む気になれなかった。高校時代まではわりと好きで、海音寺潮五郎や井上靖を読んだり、歴史読本を読んだりしていたが、その後岩波新書を読むようになってから、歴史小説があほらしくなってしまった。
 岩波新書に書いてあることだってもちろんどれが真実かは分からない。しかしそこでは少なくともそれがどの資料によっており、その資料を著者がどう評価するかを書いてある。判断しがたいものには判断しがたいと書いている。どこまでをほぼ真実であると著者がどういう根拠でそう判断するかを書き、どこからは判断できず、どこからはまったく間違いであろうとこれも根拠をあげて論じている。
 そのすべてがそれでも仮説にすぎないが、それは少なくとも学問的仮説なのであって、単なる空想ではない。
 歴史小説を読むとまだるっこいのである。こんなことわかるはずないのに書かなくていい、とか、これ空想なの、それともどの資料にあるの、とか質問したくなってしまう。
 思うに歴史小説が人気があるのは、面白く気軽に読めて、そこに書かれていることがたとえ嘘八百であろうと、一応歴史上の薀蓄に触れることができるので、何か得をしたような気がするのだろう。
 ぼくが推理小説ばかりを読んでいると、歴史小説好きな知人に馬鹿にされた。彼にとって歴史小説は推理小説より高尚だったのだろう。たしかに推理小説には薀蓄はない(最近は薀蓄で売り出す推理小説もあるが、歴史薀蓄ほど高尚ではない)。それは思考本能を刺激する知的遊戯の面白さなのだ。歴史小説はただ受け入れるだけで、そこには知的刺激がない。
 岩波新書にはそれがある。知的刺激がある。
 ただぼくの歴史読書が鎌倉幕府の成立で終わっていて、それ以後の知識がなかったので、歴史小説で薀蓄を得た人たちに対抗できなかったのはたしかである。
 それでも若いおりの一時期、司馬遼太郎はかなり読んだ。彼はまず文章がよい。漢文調の歯切れ良さがある。それから人物造形がよい。もちろんかなり疑わしいし、基本的にフィクションなのだが、描かれる人物が薄っぺらくない。よくできている。だがそれはやはり小説としての醍醐味なのであって、それが歴史であるかのように錯覚すべきではないだろう。
 歴史小説としてぼくが唯一評価するのは、トルストイの「戦争と平和」である。これはナポレオン戦争を書いている。トルストイの父親の時代の戦争である。ぼくが第二次世界大戦を書くようなものだろう。比較的近い過去だから、歴史小説と呼ぶのは違うかもしれないが、司馬遼太郎にとっての「坂の上の雲」みたいなものだから、一応歴史小説だろう。
 そこにはナポレオンも登場するし、この戦争でのロシアの英雄クトゥーゾフ将軍も、皇帝アレキサンドルも登場する。ただし、誰も主人公ではない。主人公は大勢いるが、すべてフィクションである。それが全員貴族なのはトルストイの限界だが、この戦争のなかでのロシア貴族たちの姿を描いたのである。
 それはナポレオン戦争に対する、一般に戦争に対する、とりわけ侵略戦争に対する、トルストイの思想の表明である。
 ナポレオンがなぜ負けたか、モスクワがなぜ炎上したか、戦争とは何であり、何が勝ち負けを決定するのか、といったことに関する、そしてまた人生一般に関する若きトルストイの思想表明である。
 これと「坂の上の雲」と比較して面白い点がいくつかある。
 まず司馬遼太郎が描いた乃木将軍である。司馬は乃木希典を無能だが人情味のある人物として描いた。たいへんな抗議が来たそうである。無能かどうかは別として、最近彼の手記がどこかから出てきて、旅順で多くの兵を死なせたことを遺族に対し大変申し訳なく思っているという趣旨だったという記事を朝日新聞で読んだ。彼の自殺は明治天皇への殉死と言われているが、そうではあったのだろうが、また別の解釈もできるのかもしれない。
 ところがこの司馬遼太郎描く乃木希典を読んでぼくはすぐトルストイの描いたクトゥーゾフ将軍を思い出した。そっくりなのだ。作戦会議の場でクトゥーゾフは居眠りをしている。戦争の勝ち負けは作戦で決まるわけではない。ロシアの大地と民衆とをどれだけ愛しているかで決まるというのが彼の考えなのだ。
 そしてアンドレイ・ボルコンスキー公爵も同じ考えである。彼は参謀本部を離れ、一介の連隊長として戦場の前線に立つ。そこで敵の砲撃を受けて負傷したのがもとで死んでしまう。だが、ナポレオンは結局モスクワから逃げ出し、敗走途中で大半のフランス兵を死なせてしまう。侵略戦争に勝ち目はないのだ。
 話が脱線したが、ぼくは司馬遼太郎がトルストイから影響を受けたのは確実だと思う。この二人の描かれ方は非常によく似ている。
 にもかかわらず、作者二人の戦争観は必ずしも似ていない。ぼくが「坂の上の雲」を評価できないのは、この戦争はロシアと日本の戦争ということになっているが、それが行われたのは中国人の土地だったということが忘れ去られているからだ。両国は勝手に人の土地へ入りこんで勝手に戦争したのである。トルストイなら、この戦争はそういう観点で書くだろう。
 ともあれ、ナポレオン戦争を書くにあたって、トルストイは歴史的人物たちを主人公とはしなかった。彼らは歴史のわき役である。歴史の主役は名もない民衆なのだ。彼は民衆を主役に据えたわけではないが、そこが弱点だが、しかしアンドレイやクトゥーゾフの眼に映っているのはロシアの民衆なのである。

 さて、すでに長くなり過ぎ、まとまりも悪いが、最近、竹中半兵衛について二作読んだ。一人は知らない作者、もう一人は笹沢佐保でこちらは文庫本で上下二冊になっていた。
 竹中半兵衛は一応祖先ということになっているので昔から読みたかったのだが、本が見当たらなかった。吉川英治と司馬遼太郎の「太閤記」はどちらも読んだが、半兵衛には詳しくない。半兵衛が主役の本がない。
 ところが今年黒田官兵衛のおかげで半兵衛本がどっと出た。とりあえず三冊買ってきて読んだ。両方の内容が頭の中で混ざり合ってどちらがどちらかもはや分からない。そして結局何もわからなかった。すべてが作者の空想なのである。資料がほとんどないのだ。それでも多少の薀蓄は得たが。
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