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資本論 9

 しばらく忙しかったので、読書も進んでいない。第8章労働日の終わりのほうをうろついている。
 労働日の後半は、14世紀から19世紀にいたる主としてイギリスにおける労働時間の推移の記述である。さして難しいことは書いていないのだが、どうもピンと来ないのは、我々日本人にとって、これは鎌倉幕府の滅亡から明治維新にいたる期間である。この500年に及ぶ期間の労働者の状態と言われても、なんとなくあっけにとられる。そういう時代に我々の頭に浮かぶのは、たとえば今テレビでやっている黒田官兵衛などであろう。スイッチの切り替えに難しさがある。
 最初の労働者規制法は1349年である。この法律は14世紀から18世紀まで有効だった。これは何かというと労働者を12時間働かせるための強制法である。なんのことはない、イギリスでもまだ大部分が農民であり、農民気質の抜けきらない労働者たちは、一日の半分以上も継続して働くことを認めようとはしなかったのだ。もちろん夜間労働など認めない。資本家たちはそれでは儲けが出ないので、なんとか労働時間を延長させようとして苦闘する。賃金が高すぎるので働かない、もっと下げようなどと画策する。そういう牧歌的時代であったのだ。
 ところが19世紀に労働者たちが闘ったのは、日に15時間の労働時間を12時間に縮めるための闘いだった。これは次には10時間要求までいくが、資本のもとでの労働が、封建制下での労働以上に極限までいくことが対比されている。
 しかもこれは成人男子だけの労働ではない。8才から、ときには6才から働く。夜間労働もする。婦人から、女子児童まで含めてである。
 ためにヨーロッパの労働者階級の平均寿命は極端に縮められ、その体力は世代ごとに眼に見えて衰え、兵役不適格者が続出するというありさまである。
 これは国家にとっても、資本主義にとっても由々しき事態だ。
 だが、「このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家にたいして外的な強制法則として通させる」
 したがって、「他の資本家たちとの競争は、自分たちが児童の労働時間を自発的に制限することなどを許さない。それゆえ、いくらわれわれ(児童労働調査委員会)が上記の弊害を嘆いたところで、工場主たちのあいだでなんらかの種類の協定によってそれを阻止することは不可能であろう。……これらすべての点を考慮した結果、我々は強制法が必要であると確信するにいたった」
「国家の強制的介入」が必要である。
 こうして、ロンドン労働者協会などのチャーティスト運動、10時間法運動の高揚と、資本家階級間の利害の対立(自由貿易主義者と保護貿易主義者の対立など)、加うるに、「直接には利害関係のない社会階層のなかで労働者階級の同盟者の数が増大するとともに彼らの攻撃力が増大し」、1860年以後、労働時間に関する法とその実施が「比較的速い進歩」をとげる。
 そののちまた反動があったらしいが、マルクスが、労働時間という問題をどう考えていたか、この部分で示唆されるのは次のことである。
 圧倒的なページ数をとって、数世紀にわたる膨大な例証で力説しているということ自体、彼がこの問題を重視していたということだろう。労働時間とは剰余労働の問題なのであり、資本主義の根本にある問題なのだ。それは「総資本家すなわち資本家階級と、総労働者すなわち労働者階級とのあいだの一闘争――として現れる」
 だが一方資本家どうしの自由競争を放任すれば、資本主義自体が成り立たなくなるだろうことにも、マルクスは目配りしている。
 マルクスが挙げているのは、資本主義国家に雇われた労働調査委員会や、工場監督官たちの報告なのである。彼らはこの無法状態を放置すれば資本主義が危うくなるとして、警告を発している。そしてここまでの部分では彼らの活動と報告とをマルクスが高く評価しているように読みとれる。
 そして、資本家階級間の利害の対立を利用し、利害関係を持たない階層の労働運動への同情に力を得て、労働法を確立し、その実施に向けた国家の強制力の介入に期待することに批判的であるとは読みとれない。
 つまりここでぼくは、資本主義を改良すればそれを長引かせるだけであり、むしろそれが破綻することこそ望ましいのだ、というふうの傾向を持つように見える論への疑問を提出したいと思う。
 資本主義の改良はまず生活者の要求そのものである。これを軽視するところからはどんな運動も生まれてこない。
 そしてこの要求のためにはあらゆる層との共闘が大切である。
 そして決定的な予測を言えば、資本主義の破たんは決して希望ある未来を開かないだろう。
 過去、行き詰まった社会に起こった革命は、まず混乱をもたらし、多大な犠牲を生み、そしてひとつの独裁の代わりに別の独裁を生みだすことで終結した。それがまったく無意味であったとは言わない。フランス革命もロシア革命も、人類社会を大きく前進させる役割を果たした。それは人類史のなかでいつかどこかで起こらねばならない革命だった。
 だが、それはそういう時代の話だ。一定の経済的、社会的、思想的水準に達した社会における変革はまたまったく別のものとしてしかありえないだろう。
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234:社会変革の主体はどこに by 植田与志雄 on 2014/03/25 at 13:38:16 (コメント編集)

<一定の経済的、社会的、思想的水準に達した社会における変革はまたまったく別のものとしてしかありえないだろう。>

資本主義が最大(過ぎてみなければ分からないけれど)に発達した状態からの改革、まさに社会主義の出発点ですよね。
ただし、変革の主体は何か、この超複雑化・超グローバル化・密結合した社会経済システムの改革の主体は「立て飢えたる者」ではなさそうだし、さらに言えば「革命」も現実的でないと思える。
ここではマルクスを超えることが必要。
「革命」は暴力を含むか否かを問わず、この超複雑化した社会経済システムの変革のスタイルとしてとうてい現実的とは思えない。
資本主義というより現在システムの限界を設けない改革、例えば現代民主主義の人権の一つである私的所有に手をつけることも含めて、より賢い選択を一つづつ探るしかないのではないか。余談ですが、そういう点ではJCPの不破氏が最近語っている「資本主義から社会主義への過渡期は100年超を要する」は「革命」の実質的な放棄で、「ルールある資本主義」は革命のオルタナティブとしての過渡期100年を指すと理解して、ここは同感です。

ただ、今のJCPはあまりにも現代資本主義、現代社会の理解が手薄で資本主義の改革の頼りにならない。
さらに言えば今までのような革命を目指す党派的な組織は改革を進めるには不適と思う。
党派的枠組み、それは善意から生まれたものであっても、その変革にこそ「革命」は必要ではないか。

改革に不適の実例:例えば東京都知事選での脱原発か否かの選択、未だ収束できていない空前の重大事故をもたらした科学技術の社会化に当たっての選択で、従来の左右、保守革新、の政治的枠組みを超えて現時点で議論を尽くして選択すべき重大課題だったけれど、従来の政治的枠組みが持ち込まれて、敵味方の線引きも誤って、選択のための中味のある議論も発展できなかった。

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