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資本論 8

 以下は覚え書きである。

 資本は貨幣の存在を前提とするが、貨幣はいつでも資本であるわけではない。通常、貨幣は交換の仲立ちとして機能するだけである。交換されたものが消費されれば、そこでこの過程は終結する。
 他人の労働の利用は、剰余労働と剰余生産物の発生を予期し、またその結果を得る。だが、この剰余生産物がその場で消費されるなら、それは剰余価値ではない。なぜならこの生産物は商品ではないからであり、商品でないものは価値を持たない。価値は交換によって生じる。交換されなければ価値は生まれず、したがって剰余価値も生まれない。
 剰余生産物が市場に出され、貨幣と交換され、この貨幣が消費のために使われずに、また蓄蔵もされず、再投資に使われるなら、それは剰余価値が資本に転化したのである。
 この生産物が、ものであるか、サービスであるか、あるいは何らかの知的、学問的、技術的、あるいは芸術的、または精神的生産物であろうが関係ない。
 剰余生産物が市場に出され、そこで得られた貨幣が消費されなかったとき、そこに資本に転化しうる剰余価値が発生する。
 これはもちろん自分一個の労働によっても可能である。勤勉と倹約で蓄蔵した貨幣を投資にまわせば、そこでも資本は発生する。これがマックス・ウェーバー言うところの「資本主義の発展とプロテスタンティズム」なのだろう。(読んでないので違うかも知れない)。
 しかし、それは単なる端緒だ。本格的な資本主義は他人の労働を利用せねばできない。また同じく他人の労働を利用しても、古代奴隷制や中世封建制でのように、剰余生産物が消費によって消えてしまい、市場に出されない、あるいは市場に出されてもその結果得られた貨幣がふたたび消費されるだけなら、そこには剰余価値はなく、したがって資本もない。
 ただし、資本主義生産関係が発達したもとでの奴隷制や農奴制は、膨大な剰余価値を生み、資本を生む。アメリカの黒人奴隷を使った綿花栽培がその一例である。市場取引が発達することで、奴隷労働が(奴隷主の個人的消費を超えて)無制限に苛酷になったのだ。これは古代奴隷制と区別して、資本主義的奴隷制とでも呼ぶべきだろう。(もちろんこれはアメリカに限らない。イギリスでも奴隷労働はその産業力を支えた)。

 以上、剰余価値のイメージを疑問の余地なくはっきりさせるための備忘録である。この問題は(無知なぼくにとってだけの問題だったのかもしれないが)、これでたぶん完全に解決したと思う。
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