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高野悦子

 古本屋さんが高野悦子について何か書けとふってきた。申し訳ないが、ぼくはこの人の本を読んでいない。
 いまウィキペディアで引いたら、69年の6月に自殺している。そのときぼくも立命館広小路キャンパスにいた。ジャズ喫茶シャンクレールに近いと書いているから、史学科も衣笠ではなく広小路だったのだろう。文学部だから当然そうなるわけだ。ぼくもシャンクレールにはたびたび行った。
 同志社英文科を退学していくつかアルバイトをしたのち、前年の12月に日新電機に臨時工で入り、俄然勉学意欲に目覚めて、生れてはじめての受験勉強にとりかかり、4月に夜間の人文学科に入った。6月に本採用になり、組合員になるとすぐ代議員に立候補して当選し、職場集会とその後の組合大会で執行部批判をぶった。
 大学では河原町通りを挟んだ確か社会学部だとかの校舎が反代々木系に封鎖されており、広小路校舎でもしょっちゅう暴れまくっていた。わだつみの像が倒されたのもその頃だったと思う。何派だったかもはや記憶にない。
 クラスには民青も自衛官もいろいろいた。クラス討論の司会を何回かやったが、あくまで中立の立場で公明にやったつもりだ。抜けて帰ろうとする女子学生を、ぼくが司会だから頼むからいてくれと説得したら、もう市電で居眠りしてても起こしてやらないよと反撃された。九条にあった分工場から学校までの市電のなかでぼくはたいがい居眠りして、ほとんど毎日乗り合わせる彼女が起こしてくれていたのだ。
 反代々木系が封鎖しようとしているということで徹夜で防衛し、翌朝そのまま出勤したりした。このころ滋賀県庁勤務の若いやつがぼくを慕って付きまとった。
 早稲田を卒業して来たという人間もいて年齢はばらばらだったが、年下も多く、御しやすかった。
 懐かしいので自分ことばかり書いてしまった。同志社でのどうしようもない落ちこぼれからようやく立ち上がってぼくの一番輝いていた時だったのだ。じつはその後再び落ち込んでしまったのだが。ぼくの青春は挫折の繰返しである。
 それがちょうど高野悦子の自殺したときと重なる。本が出た71年には、ぼくはふたたび学校をやめ、日新電機もやめて、四条の和紙問屋で働いていた。すでに結婚して長岡天神に住んでいた。本は話題になったので、彼女が立命だというのも知っただろうが、久しく記憶から飛んでいた。今回、ウィキペディアで気付いた。
 当時の学園紛争にぼくはあまり正面から関わっていなかったのでよく分からない。自分の生き方がわからなくて、関心が外に向いていなかった。
 史学科なら北山茂夫がいたのだろう。ぼくもずっと古代史が好きだったので、この頃から北山茂夫の岩波新書は何冊も読んだ。何故史学科に行かなかったのだろうと今になって不思議でならない。
「まがね」の野中秋子(ペンネーム)が、ちょうど同じ時期に穀田恵二と一緒に立命にいた。彼女なら詳しいことがわかるだろうが、いま母親の介護で休会している。
 同世代人として、全共闘運動にはいずれ関心を向けたいと思っている。ただ暴力学生とだけでは済まないものがあるだろう。高野悦子もいつか読むだろう。いまは眼の前の本を読むだけで手いっぱいだ。
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