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資本論 7

「資本が剰余労働を発明したのではない」(第8章第2節 新日本版309ページ)
 階級のあるところ、どこにでも剰余労働はあった。古代奴隷制社会にも、中世封建制社会にも。もし剰余労働がなくて奴隷が、あるいは農奴が、自分の食べるものしか生産できなければ、奴隷や農奴を持つことに何の意味もない。
 しかし、剰余生産物を奴隷主や領主が消費してしまうなら、それは交換されないので、交換価値を持たない。交換価値を持たず使用価値だけのものはマルクスの言うところの剰余価値ではない。それは資本に転化しない。
 奴隷主が剰余生産物を売って、画家や詩人や歌手を雇うことはあるだろう。芸術家や学者たちはかくして誕生したのだろう。しかし、この雇用は結局奴隷主たちによって消費されてしまうのだから、価値を形成しない。それは資本に転化しない。資本に転化するものだけが剰余価値なのである。
 剰余労働=剰余価値ではない。

 解けてみるとたやすい疑問にすぎなかった。剰余労働を剰余価値と混同したところにぼくの間違いがあった。価値とは市場で交換されるものでなければならない。奴隷主が画家を雇うとき、たしかに労働力と賃金の交換は行われるが、出来上がった絵が奴隷主の鑑賞に供されるのであれば、そこで生産物は消費されてしまい、剰余価値へとつながっていかない。だが、奴隷主がこの絵を売るのであれば、そこに剰余価値は生じる。
 おそらくそういうことがらは商業資本の形成過程について述べる過程でマルクスが述べているのだろう。

 いま読んだところまでではっきりしたことは、ひとつは剰余労働と剰余価値との区別であり、もうひとつは、使用価値を目的とする奴隷制や農奴制は、剰余価値を目的とする資本主義的生産制に比べれば一定の限界を持っていただろうことである。
 いま19世紀におけるイギリス労働者階級の惨状を読んでいる。実に悲惨である。それに比べれば、江戸時代の百姓の生活の方がずっとましだっただろうと思われる。
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