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漱石

 昨夜床に就いてからどうしたわけか珍しく眠られず、ふと気付くと漱石について考えていた。そのうち、漱石は意外とドストエフスキーとの共通点が多いと思いついた。
 漱石に関しては主要作品を読み直してから何か書くつもりでいたが、見通しが立たないので、ちょっとメモふうに綴ってみる。ただし、漱石論の類いは三浦雅士以外一冊も読んでおらず、漱石を読んだのも昔のことなので記憶もあいまいであり、あくまで独断である。

「こころ」
 漱石作品のほとんどが失敗作である。小説としては未完成だ。「こころ」は駄作である。
1、物語に関係ない「私」の語りで話が進められ、彼個人の物語までがかなりのスペースで挿入される。これはたしか金にまつわる親族間の争いの話だったと記憶しているが、「先生」にも過去にそういう経験があり、人間不信に陥るきっかけとなったとすることで、「先生」の物語と関連付けようとしている。しかしその「先生」の過去自体が、物語の主要テーマとはまったく異質である。
「私」にはいかなる人格も、テーマとの関連性もなく、単なる語り手に過ぎないのに、スペースを取りすぎている。そして結局「私」には何ひとつ語らせることができないで、最後は「先生」の手紙で決着をつける。この手紙がこの作品の唯一の内容だ。しかもこの手紙が「私」に宛てられなければならなかった必然性がひとつもない。
 ずっと以前に、ある劇作家が、「私」は「先生」の妻の愛人で、「先生」は妻を「私」に託すために手紙を書いたのだという芝居を書いたという記事を読んだが、そうでもしなければ「私」の存在を小説的に許容できない。
 これは実のところ、朝日新聞と契約した連載期間を守るために漱石が考え出した方便に過ぎない。「先生」の話だけでは短すぎるので、「私」を登場させることでなんでも挿入できるように仕組んだのである。職業作家の因果だ。

2、話は学生時代に、恋のために親友を裏切り、実に冷徹に騙して、彼の恋心を思いとどまらせ、その隙に自分の恋をまんまと成就させ、その結果親友を自殺させてしまった、この罪の自責から永年逃れられず、結局自分自身も自殺で決着をつける、罪と罰の物語である。
 平凡なテーマであるが、平凡さゆえに、やっとものを考え始めた思春期の少年少女にとってはそれなりに意味ある書、哲学を始める第一歩としての役割を果たさないとは言えない。
 だが、小説としては破綻している。「先生」の恋はこの裏切りの結果見事に成就し、「お嬢さん」を妻としていまも一緒に暮らしているのである。この妻への恋心は今どうなっているのか、いまでも恋しいのか、それとも罪の意識のために、恋は消滅したのか。恋とは精神と肉体とが複雑に合一する全人間的な感情である。それは理屈では書くことができない。文学でしか表現できない。だが、作中で表現されているのは、学生時代の恋だけである。「お嬢さん」が親友と親しく話しているのを目撃して嫉妬に駆られてしまう、そのあたりはよく書けている。だがこの恋はすでに過去のものとしてしか表現されていない。現在の妻はまるで別人であるかのようである。
 結局のところ、漱石はこの小説を観念的にしか書けなかった。小説は理屈ではない。バーチャルリアリティである。妻と夫との間に横たわる過去との相克が、生きた現実として再現されなければ、文学ではありえない。

「それから」
 この作品で成功している女性像は、主人公「代助」の兄嫁ひとりである。資産家で有能な実業家である父と兄の俗人ぶりを描く筆で、作者はこの女性の知的で、感性豊かな人となりを、見事に描き出している。それは「代助」にとって心温まる人物である。その女性から最後に手痛いしっぺ返しを食って、道徳的にも経済的にも破綻した「代助」はほとんど気が狂ってしまう。このあたりは一応見事といえよう。
 だが、それに比してヒロインの影の薄さはどうしたことか。テーマはこちらにあるのだ。この女性こそ力を込めて描き出さねばならない。なのになにも書けていない。「代助」の恋心が全く読者に伝わらない。「代助」は兄嫁に恋しているとした方がいっそふさわしい。
 この「兄嫁」にはモデルがあったようである。小説家も想像力だけで人物を作りだすことは難しい。現実生活の中で遭遇したあれこれの人物を切ったりつないだりして一人の人物を作り上げ、その人物に一定の情況を与えて、その状況の中を泳がせることで、さらに豊かな人物像が形成されていく。漱石にとってはここでも「こころ」の場合と同様、主人公の恋は観念の産物にすぎず、生きた人間の恋とはなりえていない。

「三四郎」「猫」「坊っちゃん」
 漱石作品中、小説的に成功しているのはこの三作だと思う。「坊っちゃん」はユーモア小説として秀逸である。「三四郎」は恋愛小説たりえている。それは淡い恋愛で現代人には物足りないかもしれないが、ぼくの世代にはよく理解できる。もっとも「美禰子」像は、いかにも男によって理想化された女性像で、女性読者に言わせるとチャンチャラおかしいということらしいが、まあ、古い男は女性にそういうイメージを抱いていたのだということで勘弁してもらうとしよう。これはぼくの青春の書である。
「猫」は最初に読んだ漱石作品で、たぶん中学生の時だ(ひょっとすると高校入学後かも知れない)。それ以来読み直していないので、いま読んだら違うかもしれないが、当時非常に深く感銘した。漱石のテーマと題材のすべてが出そろっている百科事典のような作品だといえよう。これは子規の求めに応じて「ホトトギス」に気軽に書いた最初の作品で、40才の非職業作家だから書けた。それから50歳で死ぬまでの十年間にあれだけ書いたのはすごいことではある。

「虞美人草」
 失敗作ではあるが最も興味を引かれる作品。松山中学のしがない英語教師から、一高教授、帝大教授と駆け上がったその職を放り投げて朝日新聞のお抱え作家となった第一作で、気負いばかりが目立つ。冒頭の雅文調は読むに堪えない。樋口一葉や森鴎外とは比べものにならない。だが、そのストーリーと登場人物、その情況設定には注目に値するものがある。
「赤と黒」の影響が如実に見える。もし「赤と黒」を読まずに書いたとすればもっとすごいが、旺盛な読書家の漱石が読まなかったということは考えられない。
 ある田舎の貧しい秀才が、恩師の経済的支援があって、帝大に進み、一等生で卒業する。前途洋洋である。恩師の娘との間には婚約関係がある。ところが彼は恩師とその娘を裏切って、家庭教師先の資産家の娘に恋してしまう。この女性が独特の人物である。「美禰子」とはまた違ったタイプの気性の激しい現代女性で、非常に個性的、魅力的に描かれている。父はすでになく、母と異母兄と同居している。異母兄は世をすねた変わり者で、自分には資産などいらないから、継母とその娘に全て譲ると言いながら、なかなか実行に移さない。財産をめぐる相克があり、理解の難しい異母兄の存在がある。その異母兄の親友がこれまた資産家で、変わり者である。そこへ前途洋洋の一等生の恩師とその婚約者である娘とが、いまや尾羽打ち枯らせて上京してくる。一等生の裏切りが露見し、すべてが破綻する。(その詳しいいきさつはいま記憶に浮かばない)。一等生は悔い改め、女は気が違って死んでしまう。
 主人公は変わり者の異母兄なのだが、この作品を一等生とその恋の相手との立場から読めば、まさに「赤と黒」の世界になる。
 貧しい田舎青年だが学に秀で、才覚のあるジュリアン・ソレルは、二人のまるでタイプの違う女性との恋愛を通じて出世の階段を駆け上がるが、ゆくてを邪魔されたと誤解して最初の女性に凶行に及び、逮捕されギロチンにかけられてしまう。
 ナポレオン没落後のフランス社会の閉塞の時代、旧体制の復活によって、能力がありながらそれを発揮する場を与えられない青年の悲劇を描きながら、悠揚と死に臨むジュリアン・ソレルの誇りたかい姿はいっそすがすがしい。
「虞美人草」の情況設定はまさに「赤と黒」そのものなのであるが、違うのは一等生が誇りを失ってしまうことである。結局貧乏人が貶められ、資産家の世をすねた変わり者たちが勝利してしまう。これがはたして漱石の限界だったのか、それとも時代の読者の限界だったのか。

 漱石の頭の中には常にヨーロッパの小説がある。だがそれを日本の風土のなかにおくと、まるで場違いのものになってしまう。
「草枕」に端的に示されたように、江戸情緒の中で成長し、長ずるに及んでヨーロッパ文学の世界に遊ぶことになった漱石には、日本とヨーロッパという二つの世界がある。どちらも捨てがたき世界であり、だが、この両者は常に激しく矛盾する。これは明治維新以来日本が背負っている矛盾である。その意味で漱石文学は、その作品の完成度とは別に、近代日本人の問題の基礎をえぐり続けている。
 これが漱石とドストエフスキーとの第一の共通点である。ドストこそ、ヨーロッパとロシアの矛盾を真っ向から見つめ続けた作家であった。漱石もそうである。
 彼の後の作家たちが、あるいは芸術至上主義、あるいは耽美主義、あるいは自然主義、あるいは知識層のどうでもよいような心理の描写に走ったのに対して、漱石はあくまで物語を創ろうとし続けた。西洋的な物語の枠組みに日本の風土を入れこもうとした。そこに転換期の日本が抱える問題を描き出そうとした。自然主義は風土だけを描いた。プロレタリア文学は、日本の現実を批判的に描き、思想的なものを部分的にだが、表現しようとした。その余はただせまい文学の枠にとどまった。そして漱石が描き出そうとした物語的部分は、もっぱら大衆小説のみによって受け継がれたように思える。
 ただ、石川啄木のいくつかの未完の小説には、西洋の物語規模を持った小説を、まさに日本の風土において、漱石よりももっと幅を庶民の方へ広げて、単に自然主義的にでもなく、大衆小説的にでもなく、ひとつの文学世界として描き出そうとした徴候が見える。だが、彼の原稿を買ってくれる雑誌も新聞もなく、当時の情況として、連載契約ができて原稿料が支払われなければとても書き続けることはできなかったのだろう。(あるいは単にゆきづまっただけかもしれないが)。いずれも冒頭部分だけで中断され、顧みられない。再評価が試みられるべきだと思う。

 第二の共通点は、ドストも漱石も、テーマにしたのが、金と女であるということだ。
 漱石の全作品はほとんど男と女の三角関係をめぐる物語である。これは三角関係のなかにこそ恋愛の真髄が現れるからだ。それは最も文学的なテーマであり、人間性がいちばん裸の形で現れる場所である。
 一方漱石作品においては、常に主人公よりも脇役に注目せねばならない。主人公は資産家の有閑階級であることが多い。貧乏人はいつも貶められる。「代助」の恋敵は、複数の学校を掛け持ちで教えたりして貧乏をしのいでいる(ひょっとするとこれはほかの人物だったかもしれない)。ところがこれこそ漱石その人の若きときの姿そのものである。漱石自身は後にそこそこの中間階級にのし上がったが、もともと貧しい生活をしている。養家に資産をかすめ取られたかして、その恨みを「こころ」に披露している。彼の作品には本当は金の問題がいつもバックボーンにある。
 ドストにとっては金と女は赤裸々であった。めちゃくちゃな生活に終始したドストには、金と女では書く材料が豊富にあった。漱石には材料が貧しい。そこで彼は観念的にしか書けない。実感がこもらない。だがそういう不十分な形ではあったが、彼はやはり人間にとって大事なものを頭ではとらえていたのである。
 二人の根本的違いは、ドストにとって最も重要なテーマであった神の問題が、漱石にはなかったということであろう。このことをどうとらえるかは、まだよく分からない。
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