FC2ブログ

プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
無名人
新潟の同姓同名はまったくの他人
以上

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

資本論 5

「手品はついに成功した。貨幣は資本に転化した」(新日本新書第2分冊332ページ)
「資本論」はまだようやくここまでである。しかし、ここまでで、「植田・高原論争」のひとつに一定の解答を出しうるのではないか。
 両氏がこのブログに現れなくなって久しい。ぼくの知識の浅さにあきれてしまわれたのだろうかと心配している。この間、古本屋さんへのぼくの独り相撲や、ぼくの失敗作をめぐる問題などがあったが、そろそろ「資本論」にたちかえる。
 使用価値のないものは商品ではありえない。使用価値とは消費者の欲望を満たすものであり、その欲望が胃袋から生じようと精神から生じようと関係ない。以上が使用価値に関するすべてである。だが商品とは交換の対象なのであって、価値のないものは交換されないし、価値の等しいものだけが交換される。この価値は使用価値ではありえない。何故なら交換されるのは、使用価値の異なるものだけであって、質の異なるものは計算できないからである。この価値とは自然に対して加わった人間労働である。だが、この労働も各種労働の質の違いを計算することはできない。
「労働過程は……使用価値を生産する有用的労働」であり、「質的に……考察される」が、「その同じ労働過程が、価値形成過程においてはその量的側面からのみ表われる」「労働はその時間尺度に従って計算にはいるだけである」「それは何時間分、何日分などとなる」(334ページ)
 剰余価値の発生について、マルクスはたしかに物質生産を例にあげて説明した。しかし上記部分で、労働の「質」は問題とならない、「時間」だけが問題であるとはっきり述べている。(もちろんこの時間とは社会的平均必要時間であることを断っているが)。
 その労働が物質改変労働であるかサービス労働であるかをマルクスは問題にしていない。
 したがって、この件に関する限り、高原氏の解釈が正しい。
 ただ個人的にはまだ疑問が残っている。マルクスは資本主義体制下における生産関係だけを対象にした。だが、古代的ないし中世的生産関係も剰余価値を生みだしたように見える。この剰余価値が軍隊や、芸術、学問等々に費やされたように見える。これとの経済的内的連関をどう説明しているのか、いままでのところではわからない。したがってまだこの本を放り出すわけにはいかない。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す