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朝 3

 「別所、じいさんが呼んでるぜ」と杉野がいった。別所はホルダーから、いまはさんだばかりのさらの溶接棒を外して立上った。溶接用の長皮手、その下の軍手、眼鏡、マスク、耳栓、前掛け、これだけのものを順々に外していくにはそこそこの手間がかかる。まったく戦争のような完全武装だ。保護具をつけ外しするたびに別所は、甲羅に入った亀を、あるいは中世のあの鎧冑にすっぽり収まった滑稽な騎士を思い出した。
 詰所に入っていくと、じいさんだけではなかった。係長の黒川が一緒にいた。
 「別所君、ご苦労さん。まあ、座れよ」と黒川はいった。
 黒川はまだ若かった。二十七、八だろう。すらりとした長身で、前田や杉野に比べるとどこか垢抜けのした、気持ちのよい顔だちをしていた。彼はいつも筋の通った話し方をした。人あたりがやわらかく、部下に対して乱暴な言葉を使うことがなかったが、いつも自信に満ちてしゃべり、どんな論争にも負けなかった。ところが事務所では、気にいらないとなると、年上ばかりの同僚や上役相手に啖呵を切りはじめ、かっとなると手も出しかねないほどだという。別所はそういったことも杉野から聞いたのだ。同じ年頃の杉野は黒川と気が合って、よく一緒に飲み歩くのだ。
 「別所君。いくらか君の説明が欲しいんだが」と黒川がいった。
 別所は煙草に火を点けながら、何のことかとたずねた。
 「昨日の朝の一件ばい」とじいさんがいった。「あの徳村のあほが、あれきりですましきらんと腹立ちまぎれにしゃべりちらしたもんやけん、話がでかくなったばい。どげんかせいとうちの事務所にいってきよった」
 黒川はちょっと苦笑した。
 「みんなの眼の前だったんだろ。徳村さんにその気があったとしても、もみ消せはしなかった」
 別所は笑った。「大げさな人だなあ」と彼はいった。
 だが黒川は笑わなかった。
 「あの人が特別なんじゃない。いま、製鉄所全体の雰囲気がそうなんだ。徳村さんに限っていや、あの人は決して悪い人じゃないぞ。思いやりも持ってれば、気さくな人でもある」
 「ありゃ、いったい何者ですか」
 「知らないのか」
 「作業長たい」前田が説明した。「掛の安全担当ばい」
 「製鉄所サイドで話がどこまでいったかはわからん。が、うちサイドでいえば、所長の耳まで入って、所長も心配している……ぶちまけていえば、事務所は今朝からてんやわんやだ。そう、この件でね」
 「ぼくはどうしたらいいんですか」
 黒川は椅子によりかかった背中をゆっくりと前後に動かしながら、別所を見つめた。
 「答を出す前に、君の言い分を聞こうじゃないか。君にも何かわけがあるだろう」
 「何もないです」
 「では訊くが、なぜ、掛合いコールをやらなかった?」
 やれやれ、またか。別所はうんざりした。誰も彼も理由を知りたがる。なぜ、掛合いコールをやらなかったのか、なぜ、学校を中途でやめたのか、なぜ、よし子と別れたのか、なぜ、放浪するのか、なぜ、推理小説を読むのか、なぜ、無口なのか、なぜ、なぜ、なぜ、いつも、なぜだ。そのうち、おまえはなぜ、人間なのか、とでも言いだすことだろう。いちいち理由をきいて納得したがるんだ。やつらは人間の行動には理由があってしかるべきだと信じている。ところが誰にせよ、何かやるのにその都度理由を考えたりするだろうか。おれはいつもやりたいようにやってきた。すべての行動の理由を説明できる人がいたら、お目にかかりたいものだ。
 「理由などありません……ただ、ああいうことがぼくの性に合わないんです」
 「ああいうことというのは何だい」と黒川は別所から目をそらさずにいった。「何が君の性に合わんのか」
 「何がって……」別所はちょっとの間、考えてみた。どうにか説明できるだろうか……だめだ、とても考えがまとまらない。これを説明するには何年間もかかるだろう。それにおれの方では、何ごとにせよ、いちいち考えて、やったりやらなかったりするわけじゃない。おれはもうずっと以前から、自分という問題には興味を失ってしまっているのだ。
 「ぼくにはわかりません……ただその時その時に感じるんです」
 「君の言うことには、どうも理解しづらいところがある……君は何を感じるんだ」
 「つまり、こうしたいとか、こうしたくないとかいうことをです」
 「それは要するに」と黒川は椅子をまわして左右に動かした。「したくないと思ったからしなかったのだ、そういうことかね」
 別所はなんとなくほっとした。とりあえず話は通じたのだ。
 「まあ、そうです」
 「君はいくつか」
 「二十四です」
 「二十四ねえ」黒川はしばらく別所を見つめた。「二十四といや、もうちょっと大人になっていい年頃だとは思わんかね」
 ほら、ほら、また始まった。たくさんだ、それこそ余計なお世話だ。
 「さあ、そういう質問は、ぼくにはわかりかねます」
 「困った人だな」黒川は溜息をこぼした。「君はしたくないことは、なんにもしないのか」
 「いつもというわけじゃありません」
 「どうしてだ」
 「ときには、したくなくともするべきだと考えたりします」
 「なぜそんなことを考えるのか」
 「それがものの役に立つときもあります」
 「掛合いコールは役に立たないのか」
 「ぼくの役には立たないでしょう」
 「他の人の役にはどうなんだ」
 もう結構だ。いい加減にしてほしい。おれはやれと言われたとおりにやる。最初からその気だし、だからどうすればよいのかときいているのだし、だから昨日も謝ったのだ。あれは何気なくしたことで、こうも大げさになるとは思いもしなかったし、おれの方で話をもつれさせる気はさらさらない。もう一度謝れと言われれば謝りもする。ところがおれの考えをきいたりされれば、まさか口から出まかせも言えやしないじゃないか。おれは嘘をつきたいとは思わない。
 「ぼくはたいして他人に迷惑をかけなかったと思います。ぼくは列のいちばんうしろにいたし、みんなからは見えないのだから、誰の気分も損じることもなかったはずです」
 黒川は少しいらだった様子を見せた。
 「徳村さんの気分を損じたのだ。誰も見てないと思っても、いつどこで誰が見てるか知れたもんじゃない。陰ひなたのある行為は正しくないと思うがね」
 「おっしゃるとおりかも知れません。ただぼくが感ずるのはいかにも大げさだな、てことです。いささか常識離れのした奇異な空騒ぎに思えます。要するにどういう実害があったのですか」
 「君、少しおかしいぞ」と黒川がいった。彼の眉間がいくらか険しくなった。「君のせいで前田さんは困った立場におかれた。これが第一の実害だ。前田さんの気性もぼくはよく知っているがね、君同様、決して頭を下げることの好きな人じゃない。この人は部下にやさしいから君に腹を立ててはいないが、頭を下げたということに腹の中は穏やかではない……君は頭のよい人間かもしれんが、この人の心を察することができないとすれば、君はどこかおかしい」
 「そげんこたよか」とじいさんがいった。二人ともじいさんを見た。じいさんは二人からいくぶん離れて座り、もっぱら二人の話に耳を傾けてはいたが、煙草をやたらと吸い、少しあきあきしてきているように見えた。彼もこのくだらない出来事を早いとこ終らせてしまいたいのだろう。
 「そげんこた、いっちょん気にせんでよか」とじいさんは眼鏡の奥から二人を交互に見ながらいった。
 黒川はしばらく前田を見ていたが、やがてまた続けた。
 「前田さんも、君同様、意に沿わぬことは言ったりやったりしたくないたちだ。会社にも製鉄所の社員にもずけずけものをいうので、ときには煙たがられる……ぼくも、どちらかといえば、そのたちかもしれないがね……そういう人がなぜ我慢して強いて頭を下げたのか。それこそ、君のいう、したくなくともすべき場合、それがものの役に立つ場合だったからだ。君は大げさだとしきりにいうが、まさに問題は大げさになってきつつあるんだ。それも今後の君の態度ひとつだがね。いまならまだ実害は多少ですむだろう。だが放置すれば、われわれは決定的に製鉄所のがわの心証を害することになるんだ。君には下請の立場というものがわかっているのか。ここではどんな理屈を並べてみせたって通りはしない。親会社に好かれるか嫌われるか、だ。この一点に、百名からの従業員とその家族との生活がかかっている。これはうちの事業所だけですむとしてだがね。だがひとつ付いた傷は全国に波及する。全国の十指を超える事業所の千名からの全従業員とその家族にだって多少の影響は与えかねない。これは大げさな話ではなく事実ありうることだ。いったいこれでも君の行為には実害がなかったといえるのか」
 別所はうんざりした。黒川のいうことが本当だとしても、そうならどうだというのか。そんなことはおれの知ったこっちゃない。みなそれぞれに自分の生活をひきずっていけばよいし、自分の好みもひきずっていかねばならない。好みが生活より価値が劣るというわけでもなければ、そもそも生活と好みとは別々のものではないだろう。だからお互いさまだ。人は誰しも生きている以上人に迷惑をかけている。ただそのことに気づいているかいないかだけが違うのだ。
 「あなたの言うことは、おそらくそのとおりでしょう。ぼくの配慮が足りなかったというのなら、それもそのとおりかもしれません。でも、話がずれているのです。ぼくが大げさだといったのは徳村さんのことなんです。あれは安全のための集会だったし、ぼくは安全に対して害を与えなかったのです」
 「まだ言い張るのか」と黒川は心もち声を張り上げた。「どのみち規律は必要だ。そう思わないか。災害が続発している。緊急事態ともいうべき状態なんだ。事故で痛い目にあうのは君たち自身だ。ある人は亡くなり、他の人は一生かたわになった。ちょっとした心の隙、決められたことを守ろうとしなかったこと、一瞬の油断が大惨事を招いている。誰のための決起集会なのか。君たちがけがをしないために、君たちの安全意識をもう一歩進めてもらおうとして、製鉄所は日当を払ってまで下請を含めた全員を繰返し呼び集めているのじゃないか。掛合いコールは確かに形だ。だが人間はえてして形が心に影響を与えがちだ。形を軽んじるのは浅はかなことだと思うがね。それにだ、規律を認めないとしたら、どうしてひとつの組織が成り立つのかね。君の考えは社会生活に適さないよ。無人島のロビンソンなら好きなようにしたらいいがね」
 「規律を認めないわけじゃありません」と別所がいった。彼の声も少し上ずっていた。「だが、ぼくの眼には、一糸乱れずというのは異常と映ります。人間というものはそんなにぴったりと一致しうるものでしょうか。ぼくは人はもっと多様なものだと思っているし、それが一致を強制され、強制されているうちにそれに馴らされ、いつのまにか強制を感じなくなり、あたかも自発的な意思であるかのごとく錯覚してしまうことを見ると、いやな感じがします。ぼくは自分が異常と感じるべきだと判断したことを、異常と感じなくなってしまうようにはなりたくありません」
 黒川は大きく溜息をついた。人にわからせるということはなんと難しいことだろう、といま黒川は感じていた。別所くらいの年頃には……それもわずか三年ほど前であるにすぎないが……そのころは黒川もいま思えば向う見ずだった。地方の三流大学を、それも講義になどほとんど出席することなく、もっぱらアルバイトと社交で四年間を費やして卒業し、営業をやってみたりしたあと、この三流企業に何とかもぐりこみ、持ち前の快活さと弁舌、誠実さと頭の回転の速さと押しの強さとで、たちまち所長に実力を認めさせて、ひとつの職場を係長として受持たされた。よく喧嘩をしたものだった。自分の正しいと思ったことは譲りたくなかった。だが少なくとも企業というものが存立するためにどうあらねばならないかは知っていたし、ひとつの社会を成立させていくために、人々がどのように譲りあっていかねばならぬかも、ある程度はわかっていた。このおかしな小僧っ子のように、わけのわからぬ駄々をこねた覚えはない。おれの頭がどうかしているか、それともこの男がろくでなしか、どちらかだと黒川は考えた。
 半年前にどこからかふらりと入りこんできたこの別所という若い男は、昨日まで誰の注意もひくことがないほど、おとなしくて、無口だった。仕事は、上等とはいえないまでも何とかこなし、特に協力的というのでもないが、こつこつと真面目に働いた。大学を中退したという噂に黒川ははじめちょっと興味を持ったが、気のきいた話し相手ではないので、すぐに関心を失い、昨日までその存在さえ忘れていた。それが急に理屈をこねはじめた。黒川の眼から見れば、それは大人の世界に通用する理屈ではない。なぜそれをのみこめないのだろう。まったく、まるで十二の子供のように頑固だ……そろそろ結論を出さねばならない。黒川は煙草に火を点けた。すると考えが浮かんだ。
 「君はつまり、てれくさいんだろう。握りこぶしを突きあげて声を張りあげることを、なにか芝居じみたことのように感じるんだろう」
 「そのとおりです」と別所はにやりと笑いながらすぐに答えた。「ぼくはてれくさいんです」
 それをきくと、黒川はほっと肩の力を抜いた。これで解決だ。おれは要点をつかんだのだ。結局こんなことだったのだ。どうも難しく考えすぎていたらしい。
 「慣れるものだよ」と彼はようやく笑顔を見せた。「我々はちょっと大げさな話をしすぎた。要は簡単だ。どんなことでも最初は少してれくさいもんだ。てれくさいことをすべて避けて逃げまわっていたら、人間に何がやれるかね。一度だけ勇気を出せば、あとはそれが当り前になるんだ。それをちょっとした気おくれのために、一生何もできずにあとになって後悔する人間がどんなに多いことか。こういうことは解決せねばならない」
 別所が眉を少し曇らせた。
 「そのとおりです。しかし、ぼくは当り前にしたくないものの話をしていたんです。てれくささはいつも必ず失うべきものでしょうか。それはときには貴重な感覚でありえないでしょうか」それから急に彼は手ぶりをしながらしゃべりはじめた。「気がつきませんか。この製鉄所の構内には異様な雰囲気があります。誰一人ポケットに手を入れません。灰皿のないところでは煙草を喫いません。そのこと自体はいいことです。だがそれは自主的な行動なのでしょうか。人々はお互いに看視しあい、いつも他人の眼を気にして疑心暗鬼です。外から入ってきた人は、これはとても異常なことだと感じます。でも半年も経てば当り前のことだと思いはじめます。環境は人を変えて当然でしょう。しかもいい結果をもたらす方に変るのだから何も言うべきことはないと人々は考えるかも知れません。でも表向きいいことずくめの下で、何か……根本的な何かが見過ごされているように思えます。ぼくが気になっているのはそのことです」
 黒川はがっかりした。問題はふりだしに戻ったのだ。そんな書生っぽい理想論を製鉄所の中でふりまわされてたまるか。しかも我々は下請なんだ。泥の中をはいずりまわってでも、食っていかねばならないんだ。別所としゃべるということは言語の違う人種と話すようなものだ。この男がどうしても飲みこむ気がないのなら、強制するか、排除するしかあるまい。
 前田がこのとき口を開いた。
 「別所の言うことは難しくて、わしらにはいっちょんわからん。そやが、別所には別所の考えがあるのやろ。それに従って決めたらよか。誰でんおのが考えに従って生きる権利があるばい」
 「そう、その権利がある」と黒川がいった。「同時にその結果も自分自身で引受けねばならない」
 「ぼくは最初から指示に従う気でいます。ただあなたがぼくの考えをきかれたので、しゃべらざるを得なかったのです。言いたいことはすでにいいました……それで、どうすればよいのですか」
 「君に判断してもらおう。君の気に入ろうが入るまいが、ぼくはどっちだっていい。ともかく自分の非を全面的に認め、今後決してあのようなふるまいに出ないことを誓い、深く反省し謝罪する旨の始末書を書き、ぼくと一緒に徳村さんのところに謝りにいき、しかるのちだ、その始末書に反することは決してしないと断言できるなら、それは誰にとってもいちばんいい解決だ。そうでないなら、くびだ。立派に就業規則違反が成立つ。だがこの解決は誰にとっても愉快なものではない……考える時間が必要かね」
 「いいえ、始末書を書きましょう」
 黒川は別所を見つめた。しばらく試しているようだった。
 「よし。君を信頼しよう。この信頼に応えてくれるものと思う」

 始末書ができあがると黒川は電話をかけた。それから二人はでかけた。十一時だった。その日も風が強かったが、すばらしい天気で、車の中はむしろほかほかとして気持がよかった。トラックではなく、黒川の乗用車だった。作業着で乗るのが気がひけるほど車の外も内もきれいだった。エンジンをかけるとすぐ黒川はラジオを切り、すっかりうちとけた調子で話しかけてきた。君はほかの連中とどこか違う、と黒川がいった。自分の考えとはまことに正反対ではあるが、ともかくも君なりの考えを持っている。一度一緒に飲もうじゃないか、きっと愉快に語りあえると思う、と黒川はいった。別所は、黒川はほかの連中とまったく同じだと思った。無知な労働者に長くまみれていると何となく郷愁を覚えさせてくれる種類の人物ではあるが、結局はあの古なじみの、快活で、おしゃべりで、人あたりがよくて、自信家で、親切で、頭の中が空っぽな連中の一人だ。この男としゃべることはきっと退屈なだけだろう。別所は、ぼくは酒は好きじゃないのです、といった。すると黒川は酒の話をはじめた。別所はあいづちをうって陽気に笑った。酒の話がいつのまにか女の話になった。別所も調子を合わせて笑った。黒川は決して話題に困ったりしないたちの男だった。目的地に着くまで、彼は他愛のない冗談話を次から次へと続けた。すばらしい青空だった。車の中はほかほかと気持よかった。まるで何ごとも起らなかったようだった。
 二階の、だだっ広い、書類の乱雑に山積みされた机のずらっと並んだ、ありふれた事務所風景の中央あたりに、徳村がいた。広いわりに人影はまばらだった。徳村はなにかの書類の上にうつむいていて、二人が近づくまで気がつかなかった。黒川はまっすぐ徳村の傍らに歩みより、深々と一礼すると、生まじめな様子で真先にわびを述べた。別所が入社半年で製鉄所の様子に不馴れであったこと、新入社員教育が行き届かなかったのは全く自分の責任であり、深く反省していること、今後全所的に教育をやり直し、二度とこのような問題は起さないこと、安全確保のために全力を尽すこと、本人もまた深く反省し、始末書を持参していることなどを述べたてた。
 徳村は黙ってきいていた。別所は徳村の表情を見るともなしに見ていた。別所はもともと徳村に見覚えがあったが、ヘルメットなしで見るのははじめてだった。ヘルメットなしに見ると顔の印象はどこか全く変わってしまい、最初のうちそれが徳村だと納得するのに骨が折れた。いつもヘルメットに隠れている額の部分には、無頓着さそのものの太い乱暴な横じわが数本並んでおり、その下で見ると、例の短気そうなぎょろ眼もむしろ間が抜けて善良さにあふれて見えた。彼の頭には二本線は巻いてなく、その短い縮れ毛には白いものが相当混じっているのがわかった。彼はすでに、あの滑稽な軍隊遊びの二本線ではなく……まったく、ヘルメットに線を巻くなどという子供じみた思いつきを最初に持った男はどんなやつだったのだろう……それはごくありきたりの、無知で、善良な、少し老けかかった男、どこか、おそらく半径三十キロ以内にある小さな幸福な家庭の、夫であり、父であり、ひょっとしたら息子でもあるかもしれない。彼は落着いた表情で、椅子の背に寄りかかり、しゃべり続ける黒川の顔を見、ときたまうなずいたり、あいづちを打ったり、別所の方にその善良そうなぎょろ眼をふりむけたりしながら話をきいている。そのぶ厚い唇は男の気さくさとやさしさとを印象づけた。まったくのところ、この男が別所を呼びとめたのは、その善良な気さくさのせいだ。彼はただ何気なく一言注意しようと思っただけであり、そのときにはまさかあんなことになろうとは思いもしなかったのだ。彼は自分のために生きるのと同じくらい周囲の人々のためにも生きてきたのであり、ときには怖いが、思いやりのある、よき上司であり、よき家庭の主人であるのだ。彼は自らの変ることなき善意を一生の間信じ続け、それを子供たちにあるいは部下に譲り渡していくことだろう。
 突然、別所は笑いの発作に襲われた。善良さ、この善意、人々の善意、無数の人々の無数の善意、これこそお笑い草だ。善意が最高のものであるなら、この世に不幸は存在しなかったことだろう。善意がそこらじゅうであふれかえり、善意は決して他人に迷惑をかけないと信じこみ、無数の善意が陰湿に絡まりあい、無数の汚らしい善意がこの世のあらゆるところで悪臭を放つ。おれの生きてきた道、まちがいだらけの青春、こうして過ぎ去っていくしかない人生、おれの、そして人々の、前田の、黒川の、よし子の、たいしたことは何もない、幸福で、馬鹿げていて、しかもこうであるしかない、いくつもの人生。このようにして、おれも、人々も生きてきたし、またこのようにして、人々もおれも生きていくことだろう。
 よし子は、自分の少女時代を惨めだったと思いこむことにして、労働がその正当な報いを得る地位、あごでこき使われるのでなく、逆にあごでこき使うがわに身を置こうと、あの細い体に、山ほどの無邪気な嘘と、芝居好きの、感動したがり屋の性分と、そのくせいつも自分でそれをひっくりかえしてしまわずにはおれない皮肉好きの知性と、悪あがきを繰返しながら、あらゆる種類のさびしさに耐えて、薄い唇と、ほくろのあるとがったあごをつきだして、長いつけまつげをあげたりおろしたり、髪の毛を滅茶苦茶にひっぱったり、自由とはお金よ、とか、あんたのことを毎日考えていたとか、その他無数の空虚な言葉の中で、誰かを好きになったり、嫌いになったりしながら、それでも彼女だけの、本当に彼女だけの人生を生きていくことだろう。
 そうだ。すべては過ぎ去っていく。そして人々の行為は動機づけられるには、あまりにもろく矛盾に充ちていて、何がどうなったのか、どのようにしてはじまり、いつのまに結末を迎えたのか、結局のところそれらはどういう意味だったのか、理解しようとするまもないうちに新しい現実が人々の生活を流し去っていく。
 そして、おれも、このくだらないできごとにひとつの結末をつけるとしよう。それは偶然から始まった。これぽっちの重要性も持たないできごとだった。いままでのところ、そのように推移してきた。おれはひとつの行為をなす。その行為は明日は忘れられてしまうだろう。おれもまたいつか忘れてしまうだろう。それもまたとりたてて何の意味もない、無数のできごとの中のひとつのできごとにすぎない。にもかかわらず、いまこのいま、おれにとってこれはひとつの選択であり、それとともに、おれはその世界を選びとるのだ。
 黒川はまだしゃべり続けていた。別所はおだやかにそっと、それをさえぎった。
「黒川さん、もういいです。ご迷惑をおかけしました。あなたの信頼を裏切ることが心残りですが、ぼくはぼくの結果を引受けますので、あなたもあなたの結果を引受けてください」
 それだけいうと、別所は胸ポケットから封筒に入れた一枚の紙切れを引き出し、徳村のぎょろ眼が次第に拡がっていくのを見つめながら、ゆっくりとそれを引き破っていった。
                  (1982年)
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