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「ノロ鍋始末記」へのコメント

「民主文学」誌上の「ノロ鍋始末記」評の「誤読」をこのブログ上で指摘したところ、松井活さんからコメントが入った。内容はコメントを読んでいただきたい。
 松井さんの指摘はまったく新たな指摘である。「民主文学」誌上で久野通広さんが指摘された内容とは異なっている。
 久野さんの「偽装請負」という指摘がどこから出ているのかはっきりしないのだが、子会社からタチバナへの派遣のありかたを誤解し、さらに「渋井」をその子会社の社員であると誤解したところに原因がある。
 松井さんも基本的に久野さんと同じ読み方をされているようである。ただ久野さんと違っているのは、(ノロ鍋とは別の作業において)製鉄所がタチバナに対して「指示書」を出しているという個所を新たに問題とされている点である。
 あるいは久野さんの意図もそうだったのかもしれないが、評からは読みとれない。評では「違法の疑いのある自社設立の派遣会社」という記述を問題とされており、この「違法」の内容を「専ら派遣」ととらずに「偽装請負」ととっているように読める。ここでは「渋井」の所属問題と、「自社設立の派遣会社」問題と二つの点において、意図とは違った読み方をされた。製鉄所とタチバナとの関係を問題にされているようには、評からは読みとれない。
 もちろん、誤解を招くような分かりにくい記述だったのだろうと思う。その点はぼくの反省点であり、責めているわけではない。「誤読」という表現がふさわしくなかったと言われれば撤回する。
 さて、松井さんは、久野さんと同じ読み方をされた上に、新たに「指示書」問題を提起された。これもなるほど言われてみれば誤解を招く書き方であったかもしれない。
 製鉄所とその下請会社(彼らは協力会社と呼ぶが、実質的に下請であり、労働者も会社もそう認識している)との間で、請負と派遣の関係にはあいまいなところがある。ずっとあったし、いまでもある。ただ一件ごとの請負契約はちゃんと文書になっている。特殊なのは、そのとき限りの一時的作業でもなければ、毎日の持続的作業でもなく、間隔を置いて周期的にめぐってくる作業が多いということだ。このシュート作業はそうである。もちろん契約内容はそうなっているのだが、作業発生のつど指示書を出す。これは請負契約にある作業が発生したから掛かってくださいという指示書だ。契約に基づく作業内容と、簡単な安全指示が記載してある。作品の舞台は偽装請負が問題になった時期でもあり、この指示書の扱いが特に厳格になった。口頭の指示(安全に関することは別として)は絶対に受けないこと、特に追加の作業は受けずに、「会社に言ってくれ、勝手にやると法律違反になるのだ」という旨返答すること、指示書を確認してから作業にかかること、ということが徹底された。
 ところが製鉄所の担当者は法を知らない。派遣と請負の違いを知らない。だからしょっちゅうもめたし、違法と知りつつやってやることもあった。指示書も要求しないとなかなか書こうとしない。柴田はそれを意識して作業前に要求しているのだ。作業中にではない。
 偽装請負はケースとしてはある。だが、ここで問題になっているのは偽装があるかないかではなくて、評のように、「偽装請負隠しのために労災隠しがされている」と読むべきなのかどうかである。タチバナが意図的に偽装請負をやり、それを気にしているとどこに書いてあるのか。指示書自体が違法かどうかは別にして(ぼくは指示書への誤解があると思うが)、それがたとえ違法としても、その認識が会社になければ会社は気にしない。たぶん、評者に誤解を与えたのは、「違法の疑いのある派遣会社」という記述だったのだろうと推察する。
「労災隠し」と「派遣」や「請負」の問題はこの作品上では一切関係ないのである。「労災隠し」は明るみに出れば大問題になるが、現場ではありふれたことである。
 そもそもは「渋井」が派遣社員であるという誤解にはじまっている。どうやったらそう読めるのか、ぼくには不思議だが、そう読まれた以上、書き方に問題があったのだろう。
 それは今後の反省点として活かしたい。全体にごたごたして読みにくいものとなっており、誤解を招く要素はあったと思う。だがそれにしても、という思いは残るが。

 もう一点書いておきたいのは、この作品は「直木」を視点としているということである。「直木」の知らないことは書けない。会社と「渋井」との関係の真相は「直木」にはわからない。「渋井」は会社を批判し、会社はあいまいな態度に終始する。「柴田」は「渋井」を毛嫌いしている。そのなかにあって「直木」はひとつの判断を下した。それはまず自分が働きやすい場所にするために、「柴田」の納得できる環境を作るということであり、周辺の事情から考えた彼の「渋井」への判断でもある。「直木」と「渋井」の話し合いの場面には無論売り言葉に買い言葉がある。ここに登場しているのは聖人君子ではない。現場の労働者である。そして作者は必ずしも「直木」に一方的に加担しているわけではない。「渋井」の言い分にも聞くべきところはあるのだ。
 そして最後の場面で「直木」はその判断がはたして正しかったのかという疑問に陥っている。とりあえずそこに書かれているのは、自分のやったことの結果かもしれないことで、会社も労働者も大きな混乱と損失を受けたということである。これは「直木」の心情である。彼は階級的視野を持った労働者ではない。かなりいいかげんな生き方をしている人間だが、自分の流儀だけは持とうとしているありふれた人間である。だから言葉にできたのはそれだけだった。しかしその背後には、「渋井」の選んだ道も含めて、「直木」には思いもよらなかった現実の複雑さが読者の前に展開することを、作者としては期待した。
 もちろん不十分な作品だったので、そういうふうには読んでもらえなかった。そこは深く反省する。

 このブログ上の文章でさえ、いろいろと誤解されることが多く、自分の文章にはまだ独りよがりのところが多いなという反省はしている。
 ついでに、前回書いたなかで気になっているところを修正しておく。「労働運動が組織せねばならないのは渋井ではなく柴田だ」と書いた。筆の滑りである。労働運動はもちろんすべての労働者を組織せねばならない。ぼくが言いたかったのは、未組織労働者のなかでまず目を付けるべき対象の選択の問題である。

 ぼくのブログを読んでいただき、疑問点を指摘してくださったことには感謝しております。至らない点が多いと思いますので、今後もよろしくお願いします。水掛け論になりそうなときには返答を控えますが、建設的な討論はできるだけしていきたいと思います。
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