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「ノロ鍋始末記」について

「民主文学」の読者なら3月号を読んでもらえばわかるが、「まがね」54号、55号に分載した「ノロ鍋始末記」を、支部誌同人誌評でかなり手厳しく批判された。小説はこのブログでも公開しているので、関心のある方は参照してください。
 いま読み返すと、たしかに失敗作である。労働現場、またそこでの複雑な人間関係、そのどちらもあまりにもごたごたしていて、文学的鑑賞に堪えるものになっていない。創作意図としては、説明を一切排除して、現場の複雑さをそのまま再現したいというつもりだったのだが、再現できていなかったようだ。思い込みで書いていて、読者の客観的鑑賞に堪えるものとなっていない。ぼくとしてはひとつの実験の失敗ということで今後の参考にする。
 だから、支部誌同人誌評の評者に反論するつもりはない。ただ、二点だけ指摘しておきたい。

 ひとつは誤読の問題である。
 評者は、登場人物のうち「柴田、直木、渋井」の三名を派遣労働者であるとしている。なおその上にこの三名の所属しているのが請負会社であって、請負会社からの派遣、すなわち偽装請負であるとしている。さらに労災隠しが生じたのはこの偽装請負を隠すためであると書く。
 作者としては、評者が作品とはまったく無関係な物語を新たに創作したように思えた。
 作中で明らかなように、登場人物中、派遣社員として明記されているのは、柴田班長と、安部係長の二人だけである。あと、製鉄所の社員や、製鉄所からの出向者、および他社の社員が端役として出てくるが、残りの人物はすべてタチバナの社員である。
 柴田は元タチバナ社員、安部は製鉄所からの出向者で、二人とも定年退職後、タチバナが創立した派遣会社に所属を替え、そこからタチバナに派遣されている。班長、係長という肩書は、派遣先であるタチバナでの肩書であって、派遣元の肩書ではない。定年以前の肩書をそのまま引き継いでいる。彼らが形式上所属している会社は、派遣会社であって請負会社ではない。偽装請負などという問題はどこからも出てくる余地がない。
 もちろん人物のせりふのなかに若干の混乱がある。柴田、安部が「自分はいまでは下請だ」と発言する場面、渋井が安部を指して「下請の言うことなんか聞けん」と発言する場面がある。彼らの所属しているのは請負会社ではなく派遣会社なのだが、慣習的に下請と呼ばれる。
 こういう現場の複雑さはもっと説明する必要があったようだ。現場では常識的なことなので、理解されるという思い込みがあった。丁寧に読んでもらえれば、以上に書いたことはすべて作品に書いてはいる。だが、懇切な説明ではなかった。誤読されたということは失敗したということだ。だから誤読を批判はしないが、こんなにも大きく物語が変更されてしまうものかと驚いた。
 この自社設立の派遣会社自体は、物語の中で何の意味も持っていない。ただ柴田が62才にもなって、しかも今では「下請」(タチバナの「下請」)の身分でありながら、人材不足のために、親会社であるタチバナの社員に対していままでどおり(給料は下がったのに)班長として臨まねばならない不合理を嘆く、あるいは渋井と安部との対決という場面でこの設定を活かしたかった、加えて現場の複雑さを知ってもらいたいという意図もあって挿入した。
 派遣に関する法律はころころ変わっており、たいへんわかりにくい。年代設定を間違えると齟齬を生じる。この小説ではリーマンショック直前を舞台としている。すなわち派遣村の前である。
 あの時代、それまで自動車、電気などではすでに一般的になっていた派遣が、遅ればせに製鉄所にも入りこんできた。ただし、既存の派遣会社から入れるのではない。製鉄所自体が入れるのでもない。製鉄所の下請会社が派遣会社を設立して、定年者の、籍だけをそこに移して引き続き雇用するのである。形の上では派遣労働者ということになる。それとは別にいわゆる二次下請会社から一次下請会社に派遣される例もあった。これが終わりの方で少し触れられている「下請からの派遣はのきなみ切られた」という部分である。これはリーマンショックで不景気が来たから切ったのだ。下請と表現されているのは現場用語で、実際には派遣契約をしており、偽装請負ではない。現場では法律用語は使われない。
 一方、自社が設立して自社のみに派遣する、これが「専ら派遣」と呼ばれて問題になったのである。「違法の疑いのある」と書いているのはこのことであって、偽装請負とは何の関係もない。
 リーマンショックと派遣村ののち、派遣業が批判にさらされる中で、設立したばかりの派遣会社を解散し、嘱託に移した。ただ現行法では定年者の受け皿としての「専ら派遣」は例外的に認められるようになったようで、ころころ変わる法律を背景に書くのは難しい。
 製鉄所では、自動車や電気のような派遣は成り立たない。製鉄所の仕事は流れ作業ではない。経験を積んだ職人にしか作業できない。一人前になるには何年もかかる。下請になるほどそうである。そこで修行を積むには忍耐力を要求される。そのわりに危険、汚い、きついの3Kで、しかも給料は安い。だから労働者は長続きしない。慢性的な人手不足である。現場は高齢化が進み、残りは新人ばかりで後継者たりうる中堅が育っていない。みんな辞めていくからである。おりしも団塊の定年をひかえて危機を迎えた中小企業が定年者の再雇用の場として考え出したのが「専ら派遣」であったのだ。年金支払い年齢が繰り延べされたこともあって、それは労働者の要求とも合致していた。
 下請、請負、派遣の問題は背景としてはあったが、作中では何ら問題とすべきものではない。
 ただこのように書いてきて、ぼく自身、この複雑さを読者に理解させるには説明が足らなかったなと反省している。だからこの誤読の件で評者を責める気はない。ただ全体はフィクションであるが、モデルとした企業、モデルとして借りた人格は存在しており、その方面への影響を考えて、誤読部分の指摘だけはさせてもらった。

 もうひとつは、労働者をどう描くかという問題である。この問題ではおそらく意見の違いが残るだろう。
 理不尽な企業と闘う労働者像をぼくは否定しない。そこにはさわやかさもあるし、労働者を励ます効果もある。
 しかし現代という時代のなかにおくと、大きな疑問が生まれてくる。そこに描かれたような労働者はごく少人数しかいない。普通の労働者はそこでは捨象されてしまっている。ぼくは彼らを描きたいのだ。彼らこそ時代の主役だからである。
 まず労災問題に触れる。これが主筋だからである。日本の労災死傷者数は年間約12万人、このうち死者は約千名である。しかしこれは氷山の一角である。現実にはこの何十倍もの労災がある。これは現場の常識である。ほとんどが隠蔽される。その理由はさまざまある。特に下請企業における隠蔽は激しい。その理由は書かなくとも類推してもらえるだろう。
 しかしコンプライアンスがやかましくなって、隠蔽が企業にとってリスクとなってきた。小説上で設定した事業所は時代の流れを読みきれていなかったケースである。
 そういうなかで会社が労災を認めてくれなかったら労働者はどうするか。もちろん訴えて出るべきである。しかしそれは訴える側にもリスクを伴う。そこで物語の一方の主人公渋井はサボタージュの手に出た。会社の弱みを握ることで働かずして給料を保証されようとした。これもひとつの抵抗手段ではある。ただこれは個人的な解決方法にすぎない。そして会社は管理力の無さから、きわめてあいまいな対応に終始してしまった。
 周辺の労働者が彼にどういう態度をとるか。それはまったくこの労働者がまわりから信頼されているかどうかにかかってくる。
 転んで肩を打った。重いものが持てない。しかし診断書が出ているわけでもなく、証拠は何もない。本人は若い者をつければ指導してやるという。会社はいわれた通りにした。だが、若い者が役に立たないとみると渋井が追い出し、役に立つ者は渋井の処遇にたまりかねて出て行った。指導者としては失格なのだ。
 配置転換しようとした。だがどこも引き受けない。協調性のない人間であるのを皆知っているからである。
 そのような人間が実際にいるとしても、何故そのような人間をあえて取り上げるのか、労働者を貶めているだけではないか、という声が聞こえてきそうだが、労働現場の問題は決して会社対労働者問題に集約できるわけではなく、誇りを持って働いている大部分の労働者は、このように問題を裏から、自分一人に有利なように解決してしまう人間には冷たいということを言いたいのだ。
 労働者なら誰しも会社には批判を持っている。しかし納得できる理由が明示されないままに働かずに居座っている人間を許すことはない。労働者はみな自分の労働に誇りを持っている。その労働はきつく、汚く、ときとして命がけの労働である。そのままで良いとは決して思っていないが、しかしそういう仕事に従事していることには誇りを持っている。ぼくがいちばん書きたかったのはそのことだ。
 その現場に労働運動の指導者めいた人物を投げ込んで道理を説かせたところで何になろう。そういう人間は大部分の労働現場にはいないのである。いない人間を天から降らせてみても通俗小説にしかならない。
 ぼくがあえてこういう現場を書きたいと思うのは、労働現場の本当の姿、労働者の本当の姿をあまりにも文学が書かなさすぎると思うからだ。たたかいが必要だという。もっともだ。だが現実をまず深く理解しなければ、どんな有効なたたかいもあり得ないのである。ぼくが願っているのは現場の本当の空気を知らしめることなのだ。もし有効なたたかいが組織できるとしたら、そこが出発点であるだろう。
 不満分子を組織してみたってたたかいの役には立たない。労働運動が組織せねばならないのは、有能で責任感ある労働者、周囲からも部下からも上司からも信頼され、なおかつ筋を曲げない人間なのだ。それは柴田のような人物であって、渋井のような人物ではない。

 と、書いてはみたが、これはぼくが書きたかったことであって、実際に書けたかどうかは別である。作家は作品のみによって自己主張すべきであり、作品の外であれこれ言っても弁解にしかならない。そして実際書けなかった。だからこれは反論ではない。まして評者への不満ではない。
 ただこの二番目の問題は、おそらくぼくが今後書いていく中でずっと残る問題だろうと思うので書いた。ぼくは今後もこういう観点で書いていく。それを曲げることはないという自己決意である。
 もちろん書く以上読者の心に響くものを書きたい。そのためにはもっと修行を積む必要があるだろう。だが、読者の理解を得るために自分の信念を曲げようとはさらさら考えない。ぼくはぼくの見た現実を書く。それを受け入れられるようには努力するが、そのために自分を曲げることはない。

 なお以上の趣旨は「民主文学」読者の声宛てにすでに送ったが、なにしろ同欄は四百字詰二枚に制限されている。とても意を尽さないので、あらためてここに書いた。
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