FC2ブログ

プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
無名人
新潟の同姓同名はまったくの他人
以上

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

資本論 3

「金が貨幣として機能するのは、一方では、その金の(または銀の)肉体のままで、したがって貨幣商品として、現れなければならない場合、すなわち価値尺度の場合のように単に観念的にでもなく流通手段の場合のように代理可能でもなく現れなければならない場合であり、他方では、その機能が金自身によって行われるか代理物によって行われるかにかかわりなく、その機能が金を唯一の価値姿態または交換価値の唯一の適当な定在として、単なる使用価値としての他のすべての商品に対立させて固定する場合である」(第3章第3節「貨幣」冒頭 大月版 岡崎次郎訳)

 この文章を一読で理解することは、齢とって鈍くなったぼくの頭では無理である。(老眼の身で古くなった文庫本を読んでいるのでよけい難儀だ)。これはひとつのセンテンスである。原文のままなのであろう。ドイツ語とはこのような構造の言葉であり、ドイツ人はこのようにものを考えるのだろう。たぶん原文ではもっと理解しやすいのだろうと思う。日本語に翻訳すると語順が変わってしまうので、分かりにくくなる。
 岩波では以下である。

「金が貨幣として機能するには、一方では、その金製の(場合によっては銀製の)肉体をもって現れなければならず、したがって貨幣商品として現れなければならぬから、単に価値尺度におけるように観念として存すればいいというわけでもなく、流通手段におけるように、代理可能であるというわけにもいかない。他方では、金自身が、いまや自分の身をもって行なうか、代理を通じて行なうか、いずれにしても、その機能が、金を唯一の価値態容として、または交換価値の唯一の妥当なる存在として、単なる使用価値としての他の一切の商品に対して、固定するのである」(岩波版 向坂逸郎訳)

 センテンスを二つに区切った上で表現に工夫が見られる。少し理解しやすいようでもあれば、かえって難しくなったようでもある。併せ読むと分かりやすくなる。
 いずれにせよ言っていることは単純なことだと思うが、それを抜けなく説明するために付加されている語彙が文章を複雑にしている。もっと短いいくつものセンテンスに区切って、もっと分かりやすくすることもできそうである。ただその場合、訳者の解釈が入りこむし、原文の調子が崩れてしまうだろう。

 あと二点、翻訳文の読みにくさを上げるとすれば、ひとつは「または」という単語である。日本語の「または」は、どちらかというと二つの異なるものごとを並置する場合に使う。「または」に対応するのは英語で言えばorだが、orは異なるものの場合にも使うが、ひとつのものごとを単に言い換える場合にも使う。ドイツ語でもたぶんそうなのだろう。
 資本論には「または」が頻繁に出てくる。そして大部分が単なる言い換えなのである。言い換えることによってものごとをより明確にしようとしている。それに慣れないうちはこれがややこしくてたまらない。この場合、日本語では、「即ち」と言うか、単に=で結ぶか、あるいは( )に入れるのが通常だろう。

 もうひとつは「諸」という文字だ。これも頻繁に出る。ヨーロッパ語は単数か複数かということを常にはっきりさせねばならないことになっている。それによって冠詞も変われば、動詞も変わるからだ。ただそれは英語で言えば語尾にsをひとつ付けるだけである。邪魔にならない。日本語には複数形というものはないので、語頭に「諸」を付ける。しかもこれはもともとの日本語ではない。中国から輸入した言葉である。この「諸」が目障りで煩わしいのだ。翻訳の正しさのためには必要なのだろうが、読むさいには「諸」には目をつぶって読むほうがずっと楽である。

 以上は翻訳に関してだが、価値についてもう少し。
 ヘーゲル流にいえば、価値というイデアは価格という現象の本質であり実在であるということになる。だがマルクスにとってはそうではない。美が対象と人間の感性との関係であるように、価値は、一方では市場における交換関係として、他方では生産現場における労働力の支出として、この両方向の関係を現すものとして現れる。
 価値は抽象概念である。それはドイツ観念論の系譜をひいている。しかも価値という概念を使わずに生産―交換関係の全体像を描き出すことはおそらく無理だ。それは言うならば問題を解くための補助線のようなものではないだろうか。
 この部分は生半可な考えで書いているので、批判を求む。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す