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朝 2

 軽四で寮へ帰ってくると、水曜日であることに気づいて作業着を洗濯した。一週間に二度、水曜と土曜に洗うことにしていたのだ。そのあいだに部屋で新聞を読んだ。新聞を読みはじめると面白くてきりがないが、その日は前の日曜日に買ってきた新しい推理小説の中の一冊を読みはじめる予定にしていたので、新聞の方は早めに切り上げようと思い、できるだけとばして読んだ。ときどき立っていって、洗濯機の水を替えたりした。それが終るとちょうど新聞にもきりがついたので、降りていって、食堂で晩飯を食べた。めし時なのに、広い食堂はがらんとして二、三人がそこここで食べているばかりで、テレビががんがん鳴っていた。五階建ての立派な寮も、いまでは住人がいないのだ。別所はそれを杉野から聞いて知ったのだが、大勢が転勤したり、辞めていったし、結婚した者は向いの社宅に移り、最近の定期採用は地元の人間ばかりだし、それも半年もたずにほとんど辞めてしまうのだ。中途採用はここ何年もとっていなかった。別所がはいれたのは、たまたま猛烈に忙しくて、人手が足りないように思えた短い期間に運好くめぐりあわせたからだ。
 めしを終えると別所はまた部屋に戻り、彼の部屋の唯一の財産である矢倉炬燵にもぐりこんで、新しい推理小説のページを開いた。これから眠らねばならない時刻まで、一日のいちばん愉しい時間がはじまろうとしていた。
 ところがまだ目次に眼を通している間に、寮監がスピーカーで別所を呼んだ。電話だった。別所は降りていき、受話器をとった。
 「わたしよ……わかる?」
 受話器のなかで、若々しく弾んだ声がいきなり呼びかけてきた。それを聞くと別所の心も弾んだ。これこそこの一年以上も聞くことを心待ちにしていた声だ。そうだ、おれはこの声を聞きたかったのだ、と別所は思った。考えないようにしてきていたが、忘れてしまったわけじゃない。この声、この甘さ、このやさしさ、これをなんで忘れてしまうことができよう。よし子だ。だが、どこからかけているのだろう。
 「どうしたの? 考えてるの? まちがったりしたら、ことだもんね。薄情だなあ、相変わらず……」
 「忘れるもんか、一度でわかったよ」
 「そう……わたし、ここの駅の喫茶店にいるのよ……来る?」
 心もち、声が素気なく変化したように思った。すると別所の内部で過去のすべてが甦り、潮のようにおしよせるのを感じた。これだ、これにきりきり舞いをさせられたのだ。いまこの上なくやさしいかと思うと、次の瞬間には手の平を返すように冷淡になってしまう気紛れ女。この女がまたおれを悩ましに追いかけてきたのだ。
 「わたしはどっちだっていいのよ。すぐまた汽車に乗るつもりなんだから。あんたの顔見たってたいして面白くもないしね」
 「そこで待ってろよ」別所は大急ぎでいった。「なんて名前の店だ? どこにあるんだい? 三十分以内に行くからな」
 車を駐車場に入れてから店を探し入っていくと、すぐ眼につくところに、よしこは一人で座って、こちらを見ていた。眼が合うと、よし子はそのまま見続けた。別所が真向いに深く腰かけてからも、膝を組み、しゃんと上体を起した姿勢で、よし子は別所を見続けた。別所も眼をそらさなかった。また彼女のおなじみのゲームがはじまったのだ。眼をそらしたりしたら彼女は腹を立て、それきり口も利かないだろう。かれらはまだ二人とも一言もしゃべっていなかった。ウェイトレスが近よってくるのが見えた。よし子はふとまぶたをおろした。長いまつげが彼女の眼を隠したが、あれはつけまつげだ。彼女の本当のまつげなんていくらもないんだ。
 「コーヒー」と別所はウェイトレスに向っていった。
 「わたしにももういっぱい」とよし子がいった。
 ウェイトレスが去ると、彼女はまた別所を見た。それからいった。
 「なんてことないのね。あんたって全然人を感動させない顔をしているのね。一年以上会わなかったてのに、まるで昨日の今日みたいな顔して入ってくるんだ。がっかりだな」
 「どういう顔をしたらよかったんだ? ぼくは残念ながらこんな顔だ。これは生まれつきだ。どうしようもあるもんか」
 「わたし、想像してたんだ」よし子はいいながら窓のほうに視線をそらせた。しゃべりはじめると、彼女は決して一点を見ていることもなく、じっとしてもいられないのだ。始終腕を組んだり、ほどいたり、頬杖ついたり、両肩に垂らした髪をかきあげたり、ひっぱったり、背もたれに沈みこんだり、身を乗り出したり、脚を組んでほどいてまた組んで、そのあいだ、視線を喫茶店中にさまよわせながらでなければ、何ひとつしゃべることもできないのだ。
 「わたし、想像してたんだ」と彼女はいった。「どんなだろう。最初の瞬間て、どんな気持ちがするもんだろう。やはり何もなくてすんじまうのかな。でもひょっとしたら、以前にはあんなに毎日顔つきあわせていたんだし、いまは一年以上も会っていないんだから、少しは感動するかもしれない。もしかして、一生心に残る風景になったらいいな。そう思ってたんだ、わたしはね。でもあんたったらまるで不器用で芝居っ気が少しもないんだから、ぶちこわしよ」
 「ぼくは以前何度もいったように芝居が大嫌いなんだ」
 「知ってますよ」と彼女はいまはコップに眼をやり、左手で髪を少しひっぱりながら呟いた。「ご丁寧に教えてもらう必要はないわ。わたしはただこんなふうなことをいってみたくていっているだけなんだから」
 「じゃ、ぼくは昔のようにやはり黙っていたらいいのかい?」
 「黙ろうとしゃべろうとどっちみちあんたはぶちこわしなのよ」
 よし子はだんだん髪を滅茶苦茶にひっぱりはじめた。早くも彼女はいらいらしてきているのだ。結局こういうことだ。どういうふうにやってみても、最後はいつも必ずこうなるのだ。
 「じゃ、ぼくは消えるべきなんだ」
 「消えかたもぶちこわしよ」といいながらよし子は別所を見た。「あんたわかる? わたしはこの一年間毎日あんたのことを考えていた」
 彼女の眼が大きく見開かれ、それからすぐに半ば閉じ、再びさまよいはじめた。別所はひどく感動していた。この気紛れが一年間毎日おれのことを考えていた。それが本当だとしたら……そんなことはありえない。それはいつもの嘘だ。この女は嘘つきで本当のことなどいまだかつてしゃべったためしがない。でも嘘としても……嘘に決まっているが……それでも感動的な嘘じゃないか。あんたのことを一年間毎日考えていた、そんな嘘をこの女にしゃべらせることができたんだとしたら、おれの人生もまんざら捨てたものじゃなかったのかもしれない、などと考えてみてもよいのだ。だがよし子は手当り次第の男にそんな嘘をついてまわる女じゃないのか。まさかそれほどでもあるまいが、そうだとしても、この女を知ったことはおれの人生の中ではまともな収穫の方なのにちがいあるまい。
 よし子はまた窓を見ていた。窓にはかれら二人の顔と店の中とが写っていたが、店内の照明が暗いので、外も見えた。人々が足早に横切っていく向うに、駅の灯りがずいぶんさびしげな風情で浮かんでいた。唐突に別所は思い出した。この女はまたあの駅から汽車に乗って去っていかねばならないのだ。だが彼女はどこからどこへ行こうとしているのだろう。こんな遅くに汽車に乗って、今夜はどこに泊ろうというのか。おれたちはいつまでここにこうしていられるのだろう。こうした肝心なことはいつだっておれたちの会話には出てこないのだ。おれは勝手に感動したりしているが、所詮すべてはゲームじゃないか。この女も決して本当には生きていないのだ。
 「それであんたはどうなの?」とよし子がきいた。「あんたも少しはわたしのことを考えた?」
 「毎日というわけじゃない」と別所はいった。
 「そうでしょうね。昔からあんたは薄情だった。眼の前にいない人のことなんか決して頭に浮ばない人なんだ。眼の前にいてさえ、どうかすると忘れてしまうんだもの」
 「そんな言い方は正しくない。ぼくはおまえを愛していた……いまでも愛しているんだ」
 別所はできるだけさりげなくそっといおうとしたが、いくらか気恥ずかしく感じ、唇がふるえた。これは本当だろうか、と別所は考えた。よし子は半ば閉じた眼で別所を見つめていた。いま彼女はじっとしていた。おまえの味わいたいものを味わうがよい、と別所は思った。それが慰めになるなら、それは貴重なものにちがいない。だが結局のところ、おれたちに何ができるというんだ。幸福であろうとなかろうと、どんなちがいがあるんだ。幸福なんてものはいくらでも拾える。今夜おれは推理小説を一冊読みあげる予定だったが、その幸福がほかの幸福に劣るなんて誰にもいえやしない。前田のじいさんはああして善良で、だが一癖ありそうな小ぶりな筋肉質の体と度の強い眼鏡とで五十になるまで働き続けてきたが、そしてその人生はこの先死ぬまで何の変化もこうむりそうにないが、それでもその幸福がたいしたものではないなんて誰にもいえやしない。そして結局のところ、おれたちの幸福も不幸も過ぎ去ってしまう。おれたちはこの世でたいしたことは何ひとつできはしないのだ。
 「話して」とよし子がぽつりといった。彼女はもう一度視線をさまよわせはじめていた。「あんたは一年間何をしてきたの。そして何を考えたり、感じたりしているの?」
 「たいしたことは何もない。それでもぼくはまあどうにか幸福にやってきたさ」と別所はいった。
 それから彼は語りはじめた。一年間の職と街との遍歴。多少興味をいだいた人物。コンビナートと製鉄所というものが、どんなに想像を絶したところで、自分の眼で見たことのない人には決して正しい印象を思い描くことなどできないだろうほどに、それらは化け物のように巨大で、ずばぬけていて、そこは半ば日本の外の独立国のようなもので、製鉄所の構内には立派な中央分離帯をもった片側三車線の広々としたまっすぐ海の彼方へと延びるメーンストリートのほかに、無数の縦横の完全舗装の道路があり、よつかど毎に信号機があり、何千台もの車が走っているが、これがすべて道路交通法上の道路ではないこと、つまりそこは私有地なので、道路ではないのだ。したがって交通違反を取締るのは警察ではなく会社の保安課で、保安は絶対の権力者なのだ。まったくの迷信にすぎないが警察は構内に立ち入れないと信じている者があるくらい、いわばそこは一種の治外法権をもった植民地なのだ。そういうことを別所は語った。夜中燃え続けるフレァースタッグがコンビナートの夜空をどんな色で染めるか、耐え難く鼻をつく臭気、そして一晩中唸り続ける轟音のこと、これらがコンビナートに隣接した人口十万の、この二十年間にこしらえあげられた労働者の街の風景なのだ。茶色っぽい空をしたその街にはおよそ飲み屋以外のものは何もない。とても十万の人口を擁するとは信じがたいほど殺風景な街なのだった。
 よし子はかなり興味をひかれた様子で、熱心に別所の言葉に聞きいった。別所が語り終えると長いつけまつげを心もちあげて別所を見ながらいった。
 「あんたはなかなか話が上手ね。見直したわ。コンビナートを一度見てみてもよいという気にならされたわ」
 「無駄なことさ。見たっておまえはじきにそれを忘れてしまう。おまえだけじゃない。みんなじきに忘れてしまうんだ。そこに住んでいる者さえが、半年も経てばそんな風景のことなど忘れてしまうんだ。このぼくがよい例だ。すでに馴れはじめている。おまえはちょうどよい時に来たんだ。いま少し遅ければ、ぼくはきっとこんな話をしなかっただろう。さあ今度はおまえのことを話してくれ」
 「あんたと較べれば、わたしは進歩しているよ」と彼女はいった。
 よし子は、別所のような「ぼんぼん育ち」(これは以前彼女の使った言葉だ)とちがって、幼い時からつらいめにあってきた(これも彼女の表現だが)ので、短大へ入るころには、ちゃんとした生活の設計を立てていた。彼女は二年間でデザインの基礎をみっちり身につけ、卒業してからは条件のいい会社を探して転々としたが、別所とちがってその都度彼女は経験と経歴とを積み重ねたのだ。別所と暮らしていた一年足らずの間も、よし子の方が収入がよかった。
 「いまじゃ、もっといいわ」と彼女はいった。「今度の会社では最初からわたしの方が条件を示して移ったの。少しは重要視されているんだ」
 「そりゃ、よかったね」と別所がいった。
 「わかってるんだ」とよし子はまたいきなり髪をひっぱった。「あんたはこんなことには全然興味がない。あんたにはお金なんかいらないんだから。でも、自由の量はお金の量で決まるのよ。わかる?」
 「ぼくもそう思うよ」と別所がいった。「でも別の自由もある。この方がぼくには貴重に思える。ほかの生き方をしようとは思わないよ」
 「わたしの自由なんてお金で手に入るんだから簡単なものだ、ていいたいのね。そんな自由はどこにでもざらに転がっている。でもあんたの自由だけは他人に真似のできない自由だとあんたは思いこみたいのよ。お利口さんだこと。あんたが五十になればどんなふうに落ちぶれるか、見届けてやりたい気がするな。わたしが自分の地位を手に入れるために、どれほど根気のいる仕事をしているか、あんたなんかに想像もつかないよ。せいぜい、のらりくらりと推理小説でも読んでいるのがあんたにお似合いよ。いつまでたってもさえない労働者で、人にあごでこき使われてね」
 「人の生き方をとやかくいう気はないさ。でもぼくはぼくの道をたどっている。それについては人にとやかくいってほしくないんだ」
 よし子は黙った。彼女の眼はいまはほとんど閉じていた。別所も黙りこみ、彼女を観察した。よし子は一年前と少しも変っていない。薄い唇と強情そうなとがったあご、あごの右側にあるほくろ、コートの下の裸の体は、いまでも一年前のように細いだろう。細くてしなやかで敏捷で感じやすく、ときおりはあんなにも思いがけず豊かに、やわらかく、やさしく感じられることだろう。それは終った。一年前に終ったことなのだ。そしてこれらの言い争いも、みんなあの一緒に暮した一年間に何度も繰返したことにすぎない。それは本当はたいした意味もないことがらで、よし子も別所もそれを知っており、本当に語りたいことはその次にあるんだってこと、よし子にとっても別所にとっても、こういったことがらはまだほんの入口にすぎず、全然軽いくだらない意味しか持ってはおらず、本当に大事なこと、本当にしゃべりたいこと、本当にそれによって生きていきたいことがらは、いつもこれらの言い争いによってだいなしにされてしまうことのむこう側にあるということを、別所は知っていたし、よし子も知っているに違いないと彼は思っていた。
 でもそれをどうやって語りはじめることができるだろう。それは確かに別所をつつんでいるし、別所がそれにくるまり、それを呼吸して生きているこの空気のようなもので、それははっきりと感じとることのできるものなのだが、言葉にしようとすると、いつもするりと言葉のかたわらから滑り落ちてしまい、しゃべればしゃべるほど、いつでも本当にしゃべりたいこととは違う言葉が、あまりにも多くの、あまりにも空虚な言葉が、二人の間を飛びかうだけなのだった。
 「もう行かなくちゃ」とよし子がいった。
 もう? やっとこれから話をはじめようというのに?
 「うん。それで、どこに行くの? おまえはいまどこに住んでいるんだい?」
 よし子のまつげがあがって別所を見た。
 「わたしはいまでもあそこにいるのよ。わかった? あのくだらない思い出につつまれて、あんたの残していった推理小説と一緒にあそこにいるのよ」
 ああ、駅のそばのあの安アパートの二階、あのごちゃごちゃと建て込んだ、ろくでもない、とびきりなつかしい、うらがなしい、おれたちの一年間の住まい。
 「そう。……それに、ぼくがここにいるってことを誰に聞いたんだい?」
 「誰だって知ってるわ」と彼女はまつげをおろした。「わたしを除いては誰だって……」
 二人は立ちあがった。外は真冬のように冷えきり、風がびゅうびゅう吹いていた。肩を並べて信号を渡りながら、よし子がいった。
 「わたし出張でこっちに来たのよ。でなきゃ、誰がこんなみすぼらしい駅で降りたりするもんか」
 風がきついので、彼女は怒鳴るようにしてしゃべっていた。帰したくない、と別所は突然思った。いまからでもまにあう。なぜ一晩彼女を抱いてはいけないのか。昔のように。いっそ、このまま彼女とともに汽車に乗ってしまって、また二人の生活をはじめてはならない理由がどこにある?
 「仕事はすんだの? いま、帰りかい?」
 「ええ、そうよ。また眼のまわるくらい忙しい日々が待ってるんだ。わたしには夢があるわ。そしてこの生活がわたしの生きがいよ」
 「おまえは立派だよ」
 「ありがとう……あんたもね」
 「たくさんだ」
 「嘘じゃなくてよ」とよし子は怒鳴った。「あんたは……少なくともありきたりじゃない……」
 駅にはまだ意外なほどの人々が群れていた。最終の新幹線に乗り換えるのに、おそらくぎりぎりの時刻だろう。よし子はショルダーバッグから切符をとりだした。
 「じゃあね」
 「行かないでくれ」と別所はいった。自分で自分の言葉の意味がよくわからなかった。「行かないでくれ。ぼくはおまえを失いたくない」
 よし子は立ちどまり、いっぱいに見開いた眼で別所を見つめた。その眼はいままでに見たこともないほど大きく見えた。だがすぐに彼女は視線を落し、口の中で何か囁いた。別所には聞きとれなかった。「え?」と呟いて彼は一歩出ようとした。するとよし子は視線をそらし、素早く改札を抜けていった。まだ彼女の横顔が見えていたが、よし子は別所の方を向こうとしなかった。いつもの無関心な表情で、彼女はゆっくりと別所の視野から消えていった。
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