FC2ブログ

プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
無名人
新潟の同姓同名はまったくの他人
以上

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

資本論 2

「資本論」を読みはじめてはいるが、雑事や他の関心事で忙殺されて、はかどらない。やっと、貨幣のあたりをうろついている。 
 第1章は二つの翻訳を読み比べた。こうするとかなり理解が進む。語学を習得しなかったせいで翻訳で読まねばならないのはハンディである。
 欧文は主語の直後に述語が来るので、そこで言わんとすることがまず示される。そしてその後にその具体的内容が、コンマに区切られつつ、ひとつのセンテンスとして延々と続いていく。訳者はこれをそのまま単文の日本語にしてしまう。主語のあとにさんざん説明がついて述語が最後に来るので、読みにくいことこの上ない。ぼくが翻訳するなら、欧文脈どおり、まず主語と述語とを書いてしまうだろう。説明はその後に書けばよいのだ。
 それはそれとして、いま読んでいるあたりもそうだが、特に冒頭はなんでこんな当たり前のことをくだくだしく書かねばならないのか、と思ってしまうような記述が続いていく。たぶん昔読んだときには走り読みしてしまったのだ。それはすでにマルクスに関する知識を得ていて、それを当然のこととしていたからだ。
 ところがマルクスが批判している著者たちからの引用を注意深く読むと、逆に引用部分とマルクスとの違いが分からなくなる。どこを批判されているのかが分からない。かなり考えてやっと違いに気付く。表現上は微妙な違いに過ぎない。だがそこにはことがらに対する決定的な理解の違いがあって、その違いを克服せねば以後の論理展開ができないのだ。そして彼がくだくだしく書いているのは、この違いを明らかにするためなのである。
 マルクス自身書いている。「あたりまえのことしか書いていないと思う人は教養の足りない人だ」と。そして、「ものごとは最初が難しい。ここを抜けてしまえば、たいして難しいことは書いていない」と。
 一方で、「最初のところはヘーゲルに敬意を示して、ヘーゲル流に書いた」とも言っている。
 ぼくはヘーゲルは一冊も読んでいないが、あいまいな知識の限りでも、ヘーゲルらしきものの影を資本論に認めることはできそうだ。
 資本論における根本概念ともいうべき「価値」という概念にそれを感じてしまうのだ。
「価値」とは、「価格」という現象の背後にある本質であろう。
 プラトンは「ソクラテスの弁明」と「国家」しか読まなかった。「弁明」を読んだのはごく若い時分だが、強い印象が残っている。「国家」の方は少し後になって読んで、じつは具体的な内容の記憶はもうほとんどない。それでもプラトン思想のあらましはつかんだような気になっている。我々の眼に見えるのは現象であって、それは本質の現れである。このイデアと呼ばれる本質こそが実在である。
 美しいものは、美というイデアの現れである。美の本質があるから我々はそれを美しいと感じることができる。
 いまでは、それが間違いであるのを我々は知っている。美というものはどこにもない。あるのは対象とそれに直面する人間の感性だけであり、美とは対象と人間との関係に過ぎない。
 そのことを、マルクスたちと、サルトルとが明らかにした。サルトルはそれをフッサールから導き出した。「存在とは存在現象である」そして「すべては現象であり、現象の背後に本質というものはない」「人も物も、まず存在する」
 マルクスたちはもっと簡単に、「一切の先入見を排してありのままに現実をとらえる決意」と呼んだ。だがその言葉がヘーゲル学徒としての彼らから発せられた以上、それは西洋哲学史の理解の上に立った決意なのである。
 そして商品の分析は、やはりひとつの哲学だ。そこにはプラトンに連なる観念論哲学の歴史がヘーゲルを通して現れているように思う。
 マルクスはもちろん、「価値」を本質であるとも実在であるとも言っていない。この「価値」を構成するものが労働時間であること、それが商品交換に際してその交換比率を決定するものとなることを明らかにすることによって、ひとつの概念を再び現実の人間行動に戻している。
「価値」は実在していない。それは人間の行動を説明するための概念なのだ。それは「価格」という現象になってもう一度現実世界に現れるが、「価格」と「価値」とは同じではない。
 この抽象的概念としての「価値」概念を使うことなしに商品交換を説明することはおそらく不可能だろう。商品交換をそのあるがままの姿において把握するためには、「価値」という架空の概念を用いて、マルクスがくだくだしく説明したそのすべての説明が必要なのだ。
 今回書いておきたかったことは以上だが、もうひとつ感じたことがある。それはマルクスのとてつもないユーモア好きと皮肉好き、それに引用好きだ。思わず吹き出さずにおれないユーモアと、辛辣そのものの皮肉、そして聖書その他の文学作品からの豊富な引用。
 ぼくは彼に小説を書かせたかった。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す