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サービス労働についての訂正

 植田さんの今日のコメント読みました。ぼくが今頃になって疑問に思うようなことは、とっくに何十年も前から世界中で論議されていることなのですね。
 ところで、昨日の自論を少し(少しというか、結果的には大幅になのですが)修正します。
 マルクスからのサービスに関する引用の直前に次の引用があるのを見落としていました。
「資本家が自分の個人的消費のために買う商品は、生産的に消費されるのではなく、資本の諸要因にはならないのであるが……」
 つまりマルクスは商品とサービスとを区別していません。商品を買えばまわりまわってどこかで資本になる、というような(ぼくの書いた)馬鹿なことは言っていません。マルクスがこの個所で言っているのは、それが商品であろうがサービスであろうが、資本家の個人的消費であれば資本ではないというごく当たり前のことです。
 サービスについて特に強調しているのは、商品を買うときは誰も雇うわけではないが、サービスを買うときにはサービス従事者を雇うという形態があるからです。
 かつてお金持ちは女中、コック、馭者、庭師、執事、秘書、子守、家庭教師、小間使い、等々、大勢の人数を個人的に雇っていました。つまりぼくがきのう書いた、雇っているがそのサービスを商品として他人に売るのではなく、雇った本人が消費する、つまり自分から自分が買うケースです。買い手も売り手も自分ですから金銭は動きません。ぼくの考えではこのサービスの労働時間(交換価値=商品価値)と賃金との間には差があるので、それが剰余価値であり、それは雇用主が受け取っているわけですが、マルクスの考えでは、それを商品として認めず、そこに交換がなされているとは認めず、したがって剰余価値として認めない、それは資本とならずにただ消費されているだけではないか、というわけです。
 そこらへんにマルクスとぼくとの違いが残りますが、商品とサービスという問題に絞れば、マルクスは全体としてこの両者を全く区別していないということがいえると思います。
 マルクスがあえてサービスについて語る必要を感じたのは、サービス従事者を、自らそのサービスを消費するためだけに雇用するという形態があるから、この雇用と、自ら以外に売る場合の雇用とを区別せねばならないと思ったからです。当時の雇用事情を考えれば、この形態での雇用は大きな比重を占めていたと思われます。
 だからこそ、歌手と教師の例が出てくるのです。この歌手と教師とを雇用主が自らの消費のために雇う場合と、他の消費者に彼らのサービスを売る場合との違いについて述べています。後者は売るものがサービスであってもそれは商品であり、剰余価値を生むものであることをマルクスは確認しています。
 つまりマルクスはモノとサービスとの間に違いを立てていません。雇用形態を問題にしているだけです。
 そのことは「資本論」冒頭ですでにはっきりと確認されています。
「商品は、まず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満足させるものである。この欲望の性質は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない」
 そしてニコラス・バーボンから次の語句を注書きしています。
「願望は欲望を含む。願望は精神の食欲であり、肉体にとって空腹が自然的であるように、自然的である」
 要するにマルクスの目的は資本の形成過程の解明です。この資本を形成するところの剰余価値がどこから出てくるかを明らかにすることが彼の著述の目的なのです。したがって直接に明瞭に資本とならないような労働形態は除去されます。サービスを除去しているのではなく、雇用者自身が同時に消費者であるようなそういう雇用形態を、資本を生みださずに消費されてしまうとして除去しているのです。
 だから昨日のぼくの論で、最初に女中の例を挙げたのはまったく不適切なことでした。この女中の生産物たるサービスは女中に属しているのではなく、雇用主が賃金を払って彼女を雇って働かせている以上、そのサービスの所有権はすでに雇用主に移っています。雇用主はそのサービスを自分自身から買うのです。女中から買うわけではありません。彼女の労働時間はすでに雇用主によって買われているので、そのサービスは雇用主のものなのです。したがって雇用主が彼女に支払うのは、サービスの商品価値(労働時間)ではなく、賃金(社会的平均生活費)です。
 なお、現在ではよほどのお金持ちでなければ女中を雇ったりしません。過去はそうではありませんでした。夏目漱石は自ら貧乏だ貧乏だと書きながら、その家には女中がいます。マルクスも貧困のために子供たちを死なせてしまうような生活のなかでも女中を置いていました。ぼくの父も(大正時代の話ですが)、サラリーマン家庭で育ちましたが、女中におぶわれて幼稚園に通っていました。
 過去にこの現象(なぜ一般家庭が女中を雇えなくなったか)について考察しました。そのときに女中労働の剰余価値について考えたことがあったので、そこで昨日の論で女中にこだわることになりました。だが、女中の雇用形態の位置づけがまだ不明確なままに書きはじめてしまった。昨日の論の最後の方で自分の論の欠陥に気付きました。
 そして、それとともに、植田さんが引用されたマルクス文の中でマルクスが何を言いたかったのかもほぼ明確になったように思います。
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コメント
199:続きです by 植田 与志雄 on 2014/01/18 at 08:08:24 (コメント編集)

議論のつづきです。
マルクスは、
*歴史的にもどんな時代にでも当てはまる、生産労働の基本、を本源的規定とした。
*その上で特定の時代、特に資本主義時代、での規定を、資本主義的形態規定としてこの本源的規定にかぶせた。
*だから生産的労働とは本源的規定×資本主義的形態規定となる。
・・・・・・・・・・・・・
これが生産的労働に関する資本論における論理構造と思う。
*本源的規定の解釈をめぐっての論争は、①資本論のテキスト通りに自然との物質的代謝による物質的財貨の獲得活動を生産的労働とする立場、つまりサービスは生産的労働ではないとする立場でこれが日本のマルクス経済学では「通説」になっていた。②本源的規定に関してテキストを広義に解釈して、物質的財貨の獲得にかかわるすべての活動を生産的活動と捉える立場、サービスも生産活動の一翼を担う、社会的分業の一部分であるから生産的労働に入る。しかしこの立場ではサービス労働によって生産された価値を担うものは何なのか、をめぐって議論が果てない。例えば教師が生徒を教えたら生徒の脳の変化が生産物なのか、などなど。今に至るまで。③マルクスは資本主義的形態規定の説明においては、本源的規定を忘れたかのように、単に剰余価値を生産するなら生産的労働、と何度も具体例をあげて説明している。しかし、剰余価値の算出段階では明らかに物質的財だけを前提にして理論を組み立てている。つまり労働の結果獲得される価値を担う労働対象Xは労働者の外に労働者から独立して存在するもの、生産段階で生産のために消費されればなくなるもの、であることを前提としている。サービスではこの価値を担うモノXが見いだせない。つまりサービスを生産労働とするとこれの具体的な分析ができない、あるいは労働価値説そのものの再検討にまで及ぶ。
*私は本源的規定をマルクスの不十分と認めて、本源的規定のなかに自然との物質的代謝以外の労働も組み込む、言い換えれば本源的規定の一部破棄、ニュートンからアインシュタインへ、のような進化をさせればいいのではないかと言いたいのです。ここで無理にマルクスは正しかったに拘るのがよくないと思います。
*するとサービスでは何が価値を担うものとして生産されているか、これは我々が具体的に分析すべき課題です。できれば労働価値説を生かしたままで。

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