FC2ブログ

プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
無名人
新潟の同姓同名はまったくの他人
以上

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

サービス、剰余価値

 労働市場が正常に機能している社会では、同一のサービスに対しては同一の賃金または料金が払われ、かつ同一の賃金が受け取られねばならない。
 ここに3種類のサービス提供者がいるとしよう。
A  享受者に直接雇われてサービスする者(女中、自家用車のおかかえ運転手など)
B  自営業者(散髪屋など)
C  享受者とは別個の雇用者に雇われて享受者のためにサービスする者(散髪店勤務の散髪職人、女中紹介業者に雇われている女中など――この場合、仮に享受者は業者に料金を払い、女中は業者から賃金を受け取ると仮定する。あまりありそうにない事業形態だが、仮の話である)
 提供者AおよびBの場合、享受者が払った賃金もしくは料金は、そのまま提供者が受け取るが、Cの場合、享受者は料金をその雇用主に払い、雇用主はそこからピンハネして提供者に賃金を払う。
 享受者のはらう金が同一の場合、提供者の受け取る額が違ってくる。逆に提供者の受け取る額が同一の場合、享受者の払う額が違ってくる。
 享受者が払うのは、提供者の労働時間に対してであり、提供者が受け取るのは、社会的平均生活費である。このそれぞれは同一社会では一定でなければならない。なのになぜ違ってくるのか。
 まず享受者が同じサービスに対してちがう金額を払うはずがないから、これを同額として考えよう。その場合、提供者Cの受け取った額(ピンハネされた額)が、平均生活費なのである。AおよびBが受け取った金は、明らかにそれにプラスされている。
 ではなぜ労働移動が起こらないのか。それはAの場合、自分で雇用者を探さねばならないなどの経費が掛かる。
 Bの場合は、開店資金を償却せねばならない。
 それに対してCは生活費だけで事足りる。
 ABに払う金は生活費+経費と考えることができる。

 さて、マルクス理論にそって考えてみる。ただし筆者はマルクスに詳しくないので、植田氏の引用されたマルクス文が基本となる。
 最初に明らかにしておきたい。コメント193の植田文の結論部分は引用したマルクス文と矛盾している。
 植田文「マルクスが物質的生産とサービスとを性格の異なるものとして区別していたことを示している」
 マルクス文「学校教師が生産的労働者であるのは、彼がただ子供の頭に労働を加えるだけでなく企業家を富ませるための労働に自分をこき使う場合である」
 区別されているのは、物質生産とサービスではなく、労働者が企業家に雇われて企業家に利潤を提供しているか、それとも企業家とは関係なく自立して営業しているかの違いである。
 歌手も教師も、その報酬をサービス享受者から直接受け取るなら、そこには企業家は介在していない。
 しかし、企業家に雇われて享受者にサービスを提供し、そのサービスの報酬が企業家に払われ、歌手と教師が企業家から賃金を受け取るなら、その差額は企業家の手によって資本に転化するので、生産的労働である。
 この限りで、マルクスは物質生産とサービスとの間に線を引いていない。
 マルクスは資本の形成過程について述べようとしているので、何が資本となるかだけに注意を払っている。資本とならないものは剰余価値ではなく、剰余価値を生まない労働は交換価値を生んでいない。そこで払われる金は使用価値に対するものである、とする。
 企業家に雇われ、消費者にサービスを提供し、その報酬がいったん企業家の手に入るなら、このサービスは物質同様商品とみなすことができ、交換価値を生んでいると考えることができる。この交換価値=商品価値と賃金との差額が企業家の利潤となり、資本に転化する。
 しかしここにはマルクスが論じていない問題がある。(ほかの個所で論じているのかもしれないが)。

 最初の例に戻ろう。(そのほうがABCで話せるのでわかりやすいだろう)
 享受者=消費者が支払う金は同じサービスに対しては同額だから、ABに払う金は、Cの雇用主に対して払う金と同額である。
(今後わかりやすくするためにサービスの買い手=享受者=消費者をXとし、Cの雇用主をCWとしよう)。
 CWのピンハネ分が、すべて彼の生活費と経費とに消えてしまうなら、それは資本を形成しない。逆にABの受け取った額から生活費を除いた額を経費に充当してなお余るなら、それは資本となることも可能である。
 客が自営の歌手や教師に対して商品価値を払わず使用価値を払うというのはおかしい。そもそも使用価値は交換価値ではないのだから、金銭では計測できない。金銭もまた交換対象なのだ。
 XはABに対してもCWに対しても同じ金を払う。同じサービスなのだから当然である。CWに対して商品価値であるなら、ABに対しても商品価値である。即ち交換価値であり、労働時間である。
 ぼくは従来剰余価値を、単純に労働時間―生活費と考えてきた。この剰余価値の入手者は必ずしも資本家とは限らないと考えてきた。しかし、マルクスにあってはちがう。彼にとっては、企業家の手にはいるものだけが剰余価値である。資本の形成過程を明らかにするのがマルクスの目的だから、そのほかのケースは考える必要がなかったのだろう。

 もう一点。
 マルクスは単独で消費者になにものかを提供する存在を、サービスに限ってしか論じていない。しかし物質生産を単独で行い、単独で消費者に提供する者も存在する。百姓や漁師はその典型であろう。雇用されることなく直接に自らの労働商品を提供するものはサービス労働者に限らない。物質生産労働者も同じことなのである。この点においてマルクスはたしかに物質生産とサービスとを区別しているという植田説は当てはまる。

 考えながら書いているので、話があちこちするのをお許しいただきたい。ぼくの頭のなかだけではまとめきれないのだ。
 女中の例を出したのは不適切であった。女中を恒常的に雇って賃金を払う企業というのは成立しない。紹介して紹介料をピンハネするのが関の山だろう。また女中の雇用主(=この場合、サービスの受け手)はそのサービスの商品価値は払わない。社会的平均賃金(=生活費)だけを支払う。そもそもここには商品価値はないというのがマルクスだが、ぼくはあると思う。何故なら労働時間があるからだ。これがサービスを生産している。生産されたサービスは消費者であるサービス享受者に売られる。誰が売るのか。女中の雇用主である。この雇用主は即ちサービスの享受者であり、購入者である。買い手が売り手なのである。したがって金銭は動かない。しかし、そこには剰余価値が生じている。この剰余価値は買い手である売り手が手にするのだ。その額は女中の労働時間から女中の賃金を引いた額である。
 だから女中を雇うのだ。利益が無ければ雇わない。女中の労働時間が女中の賃金よりも長いから、そこに雇用主の利益があるのである。この利益自体はたしかに資本には転化しない。だからマルクスにとっては剰余価値ではない。

 しかし、サービスの代金を使用価値としたのでは、マルクスは自分の理論を裏切っている。労働者が雇用主自身にサービスするケースにおいては、このサービスの売り手も買い手も雇用主なのであって、労働者自身が売るわけではない。このサービスという商品は、あらかじめ賃金(社会的平均生活費)によって雇用主に買われているのである。
 マルクスがあげた歌手の場合はまた違ってくる。唄は芸術品であるから、労働時間では測れない。これは骨董品と同じく経済学の例外なのだ。その値段は市場が決める。あるいは買い手の好みが決める。ここには経済原則は働かない。

 剰余価値という言葉の定義がマルクスとぼくとでは異なる。マルクスのやり方では分析できないものが出てくる。(もっとも、もっと先を読んでいけばちゃんと分析しているのかもしれない)。
 ぼくは以前からこの考え方で剰余価値(ぼく流の剰余価値)のさまざまな局面を考え、特にサービスの問題について、企業家が介在しないとしたら、その剰余価値は誰が受け取っているのかと考えてきた。女中の場合は雇用主である。彼は雇用主であるとともに消費者なのだ。公務員の場合は、市民である。市民もまた、公務員の雇用主であるとともにそのサービスの消費者なのだ。
 このようにしてサービスはどのような形態でであろうと売られれば商品である。商品である以上交換価値があり、剰余価値がある。ただしこのぼく流の剰余価値は必ずしも資本を形成しない。

 しかし、一方、企業の手にする剰余価値だけが資本を形成するわけでもなければ、企業の手にする剰余価値が必ず資本を形成するわけでもない。
 賃金は社会的平均生活費として決まってくる社会的平均賃金であるから、現実には上下の開きがある。一般被雇用者であっても余裕があれば資本を形成できる。資産家であっても、その金を奢侈やそのほかに使ってしまえば資本にならない。
 この点は、植田さんのマルクス引用部分で、「資本家がその使用価値のために、自分の消費のために、買うサービスもまた……資本の要因にはならない」と言っているのがそれにあたる。ただ、それはサービスに限らない。物を買ってもやはりその金は資本のために使われるのではない。剰余価値を自分の欲望のために使えば資本にならない。
 ただ、ここにはやはりマルクス流の線引きがある。物を買えばまわりまわってほかの企業家によって資本に転化する。サービスはただ消費され、その金はサービス提供者の手に落ちるだけだから資本にならないと考えている節がある。しかし、サービスもまた商品であるというぼくの考えによれば、これもまたまわりまわって誰かの手で資本に転化することもありうるわけである。

 しかし、ここで述べたことは、あれこれのケースがあり得るということであって、我々の社会に資本なるものが存在するためには、その社会に剰余価値がなければならないという基本はマルクスの言うとおり動かせない。つまり労働者が労働することによって、自ら消費する以上のものを生みだすこと、これが無ければどのような形態であろうとも我々の社会は資本を持つことができない。
 だからマルクスの発見は偉大な仕事であるが、細かいところを見ていくとそれだけでは理解できない物事が出てくる。(まだ全部読んでみなければ断定できないが)。

 ちなみにもう一つ注釈を付け加える。やはり植田さんによるマルクス引用。
「資本主義的生産の直接の目的および本来の生産物は剰余価値なのだから」
 ここで、直接でも本来でもないといっているのは、労働者に賃金として支払われる部分である。生産物のうちその部分は必要経費であって、資本主義生産がおこなわれる場合の直接の目的でも、本来の生産物でもありえない。

 消費されてしまうものは資本を形成しないという観点から見れば、消費されてしまうものまで剰余価値と呼ぶのはおかしいというマルクスの考えが正しいのかもしれない。
 しかしそれでは交換価値のそもそもの考え方からずれてしまうのだ。独立した生産者はその商品を交換価値で売る。しかしそれが平均的生活費を上回っていれば、やはりそこには剰余価値がある。そして雇用された労働者が、雇用主の消費するものを生産すれば、そこにもやはり労働時間と賃金との差が生じる。これは雇用主によって消費されてしまうが、労働者にとってはやはり剰余労働である。
 そして企業活動において剰余価値とみなされるものであっても、企業主がそれを個人の消費に使えば、やはり資本とはならない。
 資本を生みだすものを見出すためには、マルクスの考えによらなければならない。だが、マルクスの本来の理論から言えば、ここには飛躍があり、そしてそれがほかのいろいろなものを考察していく場合の阻害要因となっている。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す