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交換について

 交換の端緒について考えていると頭が痛くなるが、いまの時点で言えることは多くない。
 交換はその前提として分業を必要とするが、分業は必ずしも交換を必要とはしない。
 家族内分業はそもそもからあった。これは人間が育児に長期間をとられるからだろう。妊娠、出産、授乳の能力が女性にしかないので、その延長で育児が主として女の仕事となり、その間、男は食糧調達に出かける。これは分業だが、交換ではない。
 鳥は、授乳の必要がない。だが、卵を温め続けねばならないので、オス、メスが交代で抱卵とエサ取りとを行う。自分のエサはそれぞれ自分で取り、そして孵化ののちはそれぞれが雛に与える。ここにはまだ分業はないが、限られた時間のなかでは分業しているともいえる。
 哺乳動物はみな授乳せねばならないのだが、ほとんどの場合、メスは授乳、育児のかたわら、エサも自分で取りに行くようで、オスは非協力的であるようだ。
 人間の子供は成長に時間がかかる。授乳にさえ何年かかかる。それゆえ男女の分業が生まれたと考えられる。その上1人が成長しきらないうちに次が生まれる。上の子たちはそれぞれの年齢でできる範囲で、父母を手伝っただろう。これも分業であるが交換ではない。
 共同体は、協力して獲物を狩る。その役割分担はあるだろうが、獲物は分けあう。公平、不公平は別としてともかく分けあう。これもまだ交換ではない。あるいは狩りに行くグループと採集に行くグループというものがあったかもしれない。(これは植田さんが引用された説だ)。ここには交換の端緒のようなものがあるかもしれないが、まだ未成熟で、獲物の分けあいの延長のようなものだ。
 マルクスが指摘しているのは、交換のためには、独立した個人(または共同体)の人格を必要とし、私的所有権をお互いに認めることが必要だということである。(大月文庫版161ページ)。
 共同体のなかにはまだ独立した人格としての個人はいない。したがって各個の私的所有権もない。
 交換は共同体間、もしくは共同体とその共同体に属さない個人との間で始まっただろうといわれる。
 そして最初の貨幣は遊牧民から始まったとされている。それは遊牧民には他の共同体との出会いが多く、最も交換の機会が多かったからである。(163ページ)。これは示唆的である。交換が始まったのも彼らからかも知れない。遊牧民と農耕民との間には交換の必要性が高い。しかし交換の発生としてはそれは時代が遅すぎる。
 高原説によると、交換は略奪の代替行為である。だがよく見ると略奪は交換と併存しており、それは今日もなおそうである。もちろん高原氏の言われているのは、略奪から直接的に交換は生まれない、交換は別のところ(たとえば恋)から生まれて略奪に替わるものとなった、だから、交換それ自身の発生の経緯を解かねばならないということである。
 つまり交換は略奪に替わるものとして考え出されたのではなく、この二つは区別して考えねばならない。
 ひとつの観念は無からは生まれない。それは現実の反映である。なにがしか交換的な行為が、幾世代、幾千年にもわたって積み重ねられていくなかで、次第にひとつの儀式化された形となり、それにつれて観念を形作っていったのであろう。その交換的な行為の端緒を、各種の分業とその成果の分配のなかに認めることもできるのではないか。
 いずれにせよ、思弁のなかに解答を求めることは諦めたほうがよさそうである。それは現実の観察のなかに発見されねばならない。ひとつには原始社会の観察であるが、残念ながらすでに観察しうる原始社会はない。しかし、かつて存在した原始社会の観察記録は残っているだろう。それに民族の伝承記録がある。幼児の発育段階はそのの形成過程をなぞるが、これも残念なことに人間の幼児は教育されるので、その観察に得られるものは限定的であるだろう。
 あとは動物の観察である。ここにボノボという動物がいる。かつてはピグミーチンパンジーと呼ばれた。(おそらくピグミーという言葉が差別的であるので改称されたと思われる)。それが人間に最も近い種であるのは昔から知られていた。チンパンジーの一種と思われていたが、じつは別の種であることが判明した。チンパンジーとボノボの遺伝子の違いは、ボノボと人間とのそれよりも大きいといわれる。その生態はチンパンジーと対照的である。
 チンパンジーは攻撃的だ。他の群れに敵意を持ち、殺し合う。新たに群れに来たメスが子を産むとしばしば(特に子がオスの場合)殺してしまう。子を殺されたメスは妊娠可能になるので(子が生きていれば育つまでの期間妊娠しない)、群れのオスと交わり、群れの子を産む。
 一方ボノボは友好的である。他の群れと争うことはない。メスは誰とでもいつでもセックスする。(動物は普通子を産む目的以外にはセックスしない。これをするのはボノボと人間だけである)。生まれてきた子は誰の子か分からないので、すべてのオスがこれをかわいがり養育する。平和そのものであり、キリスト教徒が頭を抱え込むようなフリーセックスの天国である。最近日本でも飼うことになったので、朝日新聞が大きな記事を載せた。
 この動物がチンパンジーよりも遺伝的に我々に近いとすれば、人間のそもそもの生態について、我々は考えを改める必要があるのではないか。
 子供が教えられねば人のものを勝手にとってしまうのを見ると、たしかに略奪は人間の原初的性向だろうが、しかし、そもそも社会的動物として出発した人間には、人間関係を友好的に成立させるボノボ的知恵があったとも考えられる。
 交換は共同体間で始まり、そののち共同体内に反映されたというのがマルクスの書いていることで、交換としての交換はそうだろうが、その端緒は共同体内、あるいは家族内で生まれていったと考えることもできそうに思える。
 新しい観念はいつも生まれる。それはなにがしかそれ的な行為の積み重ねの中で生まれてくる。そして行為を生むのは実際的必要である。
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