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幽霊

 祖母が死んだ。私が田舎へ帰ったときには、祖母はすでに墓の中だった。その日から、幽霊は毎日出た。昼のあいだじゅう出た。居間の縁近くの、古い井戸に水を汲みにきて、重そうな桶をかかえて、勝手の方へと運んでいった。いくらも経たずに戻ってきたとき、桶は片手にぶらさがっていた。縁のすぐ前で背中を丸めて、幽霊はゆっくりとつるべをたぐった。小さなつるべが上がってくると、こぼさないように慎重な動作で桶に移した。それからつるべを放り投げた。かっきり三度水を移すと、腰を落として両手に桶を持ちあげた。そうして片方の足をこころもちひきずりながら、蝉の鳴き声につつまれて、小さな庭を横ぎっていった。やがて、また来た。絶えまなく、一日中幽霊は水を汲んだ。私が帰った日から、毎日だった。
 幽霊は私たちに無関心だった。両親も、しかたないと思っているのか、放っておいた。そこで、私もそうした。庭にも縁にも、夏の明るすぎる日差しが満ちていた。幽霊は祖母の生前と同じ地味な着物を着て、半白の長髪を首のところで丸く束ねていた。上品な下ぶくれの顔で、よく肥り、背中もしゃんとしていた。それはひとつも幽霊らしくなかった。外見には欠けたところも、見えにくいところもなかった。恨めしそうな様子にも見えない。淡々として、一言も口をきかず、私たちを見もせず、水を汲み、運ぶことに専心していた。幽霊は夜が来ると消えていった。そうでなかったら、うっかり祖母とまちがえるところだったろう。
 私は、祖母がこんなに早く幽霊になって出てくるのも、もっともだ、と思われる理由があったような気がしたので、幽霊を非難しようとは思わなかった。両親に対しても、私たちの眼の前を、いま往ったり来たりしているものの存在については一言もいわないようにして、祖母の生前のことや、私の異郷での生活のこと、私が去ってからの土地の話だけを話題にするようにした。両親も、私のそういう態度は正しいことだと認めているようだった。私はこんなところを人に見られたら少しまずいんじゃないか、とも思った。多少うす気味悪くもあった。その上、何か自分は悪いことをしたのじゃないか、という気持が始終湧いてきた。しかし、そんなことは今さらどうにもならない。死んでしまったもののことを考えるのは無意味なのだ。死者について考えても、死者の役には立たない。そこで、私はそういうことを考えないことにした。
 居間には形ばかり仏壇をこしらえ、遺影を飾り、線香をたてていたが、弔問はなかった。それはもう終わってしまったのだ。そこで両親が始終線香をつけ替えてやっていた。幽霊はおかまいなしに歩きまわり、水を汲んだ。両親は替わる替わる出てきては、線香に火をつけ、幽霊に尻を向けてお辞儀をした。それは奇妙なことにも思えたが、考えてみると、正しいことなのかもしれなかった。私はそこに寝転がり、ゴッホの画集をめくったり、双葉山の伝記を読んだりした。暑さと蝉の声とが睡気を誘った。
 私はふと、幽霊が片方の足をひきずっていたことを思い出した。祖母は死ぬ前に足を病んだのだろうか。祖母がどんな歩き方をしたのだったか、私は思い出せなかった。祖母はいつのころからか両親の家に住むようになったのだが、それがいつごろのことかさえ、私にはわからなかった。私がこの家で祖母と一緒に暮らしたことがあったのかどうか、それも思い出せない。幽霊はいまつるべを使っていた。幽霊がひきずっていたのはどちらの足だっただろうかと、私は考えた。やはり思い出せなかった。私は幽霊が歩き出すのを待った。そのうち眠ってしまった……
 まもなく叔父が来た日、幽霊はまだ水を汲んでいた。祖母は私の母方だったし、叔父は父の弟なので、叔父と祖母とは血のつながりがなかった。成功していて忙しい叔父は、だから葬儀にはまにあわずに、数日して来たのだ。叔父は縁に近く、庭を背にして坐った。両親は私と叔父とのあいだにいて、私は庭にまむかって、仏壇のすぐ横に坐っていた。叔父は、私が両親と話したようなこと、祖母の生前や、異郷での叔父の仕事ぶりや、共通の知人について、両親と語りあった。叔父の背後で、幽霊は空の桶をぶらさげて現れ、井戸に向かって丸い背をこちらに向けて、長いこと、つるべをたぐり、やがて、重い桶を両手にかかえると、片足をひきずりながら、庭を横ぎっていった。少し経って、また来た。昨日までとまったく同じだった。
 そのあいだじゅう、叔父と両親とは、とりとめのない会話を続けた。ものうい夏の昼さがりの時刻が過ぎていった。両親は幽霊の方を見ないようにして、叔父の関心を会話につなぎとめようと努めていたが、なんとなくぎこちなかった。叔父はひとり落ち着いた、地位と知性のある人らしい雰囲気で、兄夫婦と語らっていた。その声はしっとりと、心地よかった。私は両親が気の毒でもあったが、同時に彼らの小心さを多少軽蔑した。私はほとんど口をきかずに、両膝を立てて左腕をそれへまわし、右手で煙草を喫いながら、そこにいない人間でもあるかのように、全体の風景を何気なく見やっていた。
 夏。昼さがり。蝉の声。明るい日差しに満ちた、庭。叔父と両親の語りあう姿。その背後で、黙々と自らの義務に余念のない幽霊。風景はひとつに融けあって調和しており、ものうかった……
 そのとき、私はついこのあいだ幽霊がどの足をひきずるか見ようとして眠ってしまったことを思い出した。そこで幽霊が現れたとき、注意して足元を見た。幽霊は右足をひきずっていた……
 突然、叔父は何かに気づいた。私の眼の前で叔父の眼つきがだんだん奇妙に変わっていくのがはっきりわかった。ためらいながら、叔父は首をまわして、そして幽霊を見た。両親がはっとして唾を呑みこむのを私は見た。だが、叔父は語ることをやめなかった。言葉はやや脈絡を欠いてはいたが、両親は最初からそんなことに頓着していない。いまや全くおろおろして間の抜けた相槌を連発するばかりだ。でも結局、叔父はだまされなかった。もう一度、用心深く首をまわして、まだ幽霊がそこにいて、水を桶に移すのにこぼさないよう気づかっているのを見届けると、きょとんとした眼つきで両親を見た。両親はというと、はじかれたように笑顔になり、しきりとうなずいてみせた。そこで叔父は気をとりなおし、話を続けた。両親はますます愛想がよく、幽霊も一段とはりきって精出しているようだった。
 ふと私は奇妙なことに気づいた。いま水を汲み終えてひきあげていく幽霊は左足をひきずっているのだ。それは何か秩序を乱すふるまいだった。同時に、そんなことはたいしたちがいじゃない、という気もした……
 もう何度目にか、幽霊が叔父と背中あわせにゆっくりとつるべをたぐりはじめたとき、ふたたび叔父の眼つきがゆがんできた。叔父は、緩慢な動作で上体を縁の方にねじまげると、今度は、手を伸ばして幽霊の背中に触ろうとした。とっさに母が、それは幽霊なんです、と言い訳した。叔父は伸ばしかけた手をそのまま、父と母とを替わる替わる見、ついでにちょっと私を見た。それから手を引っこめてふりかえると、幽霊は足をひきずりながら桶を運んでいくところだった。幽霊がいってしまうと、叔父はこちらに向きなおし、唐突な感じで、さっきしゃべってしまった話題をむしかえした。叔父は冷静な様子でしゃべってはいたが、その眼はいまでは両親の眼に似ているようにも見えた。
 幽霊がまた桶をぶらさげて、蝉の声と、明るすぎる日差しに満ちた庭に出てきた。幽霊は相変わらずつるべをたぐり、叔父と両親とは語り続けた。私はひょっとして祖母は死ななかったのではなかろうかと、ふいに思った。
                       (1985年)
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