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資本論

 資本論冒頭に面白い記事を見つけました。
(アダム・スミスは労働力の支出を)「ただ安息、自由および幸福の犠牲とのみ解していて、正常な生活活動とも解していない」いったんこう批判したすぐ後で、「もちろん、彼は近代賃金労働者を眼前に浮かべている」と弁護しています。これはエンゲルスによる注です。(岩波文庫1969年版第1分冊88ページ)
 またこの労働の二面性をうまく表現する言葉が英語にはあるとして、workが使用価値、laborが交換価値に対応すると言っています。いま辞書を引いてみると、英語で仕事を意味する言葉はこれだけではありません。このほかに、job,toil,taskなどがあって、それぞれ微妙に意味が異なります。
 これはここでのテーマとは無関係ですが、今回興味を引かれました。同じ興味で、69ページ、(17世紀のイギリスで)「worthを使用価値、valueを交換価値に」用いているとしたうえで、これは「直接的の事物をゲルマン系語で、反省的事物をローマン系語で言い表わすことを愛する言語の精神にもとづく」と皮肉っています。これはマルクス自身の注のようです。
 ここに特に興味を引かれるのは、日本語ではその傾向がもっと顕著だからです。たとえばmarketは文字であらわせば市場ですが、身近な市場をイチバと発音し、卸売市場や金融市場は、シジョウです。matterは日常会話では「もの」ですが、学術用語では「物質」になります。
 これは少年時代からのぼくのテーマなのです。やまと言葉と中国語とが結婚して成立した現代日本語は複雑で特殊な問題を多く抱えています。それは文学表現上でもたいへん気になるところなのですが、哲学理解上はそれがしばしば不必要な難解さを生んでいるだろうと思います。
 以上は単にぼく自身のテーマにかかわっての寄り道です。
 じつは「資本論」を読み直し始めています。と言っても、30年前に読んだのはほとんど冒頭の部分だけで、いまその数頁をめくってみたに過ぎないのですが。
 ここ一、二年どうも文学に心が動いていないことにようやく気付きました。文学衝動が生まれません。むしろマルクスを読みはじめてみると、この方がよほど面白い。この年になってしまうと、もうやりたいことをやるしかないという気がします。
 ぼくの手元にあるのは、どういうわけか、岩波文庫版と大月文庫版がそれぞれ第1分冊のみ、それに1983年初版の新日本出版社新書版が、第2分冊と第3分冊、1も持っていたはずなのですが見当りません。岩波文庫版も途中まで読んだ痕跡が残っていますが、30年前、新日本版で少なくとも「剰余価値」のところまでは読んだ記憶があります。
 当時の記憶で、この新日本版が気に入らなかったのは、「実在」を「実存」と翻訳していて、それが一個所二個所ではないのです。この翻訳者は実存主義者をからかおうとしてわざと馬鹿な翻訳をやっているとしか思えませんでした。
 それはそれとしてとうぶん手許にある本から読みはじめます。14分冊もあるのでどこまで興味が続くか分かりませんが。
 以上は現況報告で、これもテーマとは無関係です。
「労働」に関して、ぼくが「植田説」を誤解していたことはわかりました。同時に、誤解させる要素が「植田説」自身に内包されているという「高原説」ももっともだと感じるのです。
 ぼくの乏しい読書による理解だと、マルクスは商品分析から始めましたので、商品を自然に対して労働によって改造したものととらえ、この商品生産労働から剰余価値を導き出し、その余の労働を、この剰余価値を利用したものととらえていたというイメージがあります。この点、植田さんの説と通じるものがあります。ただ何度も言うように冒頭の部分しか読んでいないので、資本論のぼくのまだ読んでいない部分で、その余の労働に関してマルクスがどう言っているのかは知りません。
「高原説」では、それはたまたま分析の都合上そうなっただけで、分析の結果はすべての労働に及ぶのだということのようです。
 ぼくが資本論を読んでみようと思ったのはこの疑問を解決するためです。
 ぼくのなかにもそう言えばたしかにそういう疑問があったような気がします。
 ただぼくは高原説と同じで、剰余価値はすべての労働に適用できると考えていました。
 サービス労働(たとえば散髪屋――自営の場合には剰余価値はありませんが、散髪店に雇用されている散髪職人)、あるいは究極のサービス業ともいえる公務員(市役所職員など)は、すべて剰余価値、剰余労働の考え方で理解できると考えてきました。
 ただ、いま自営業者の剰余価値を否定しましたが、この業者が自己の生活費以上を稼いでそれを何らかの投資として使用したとすれば、それは資本の本源的蓄積と呼ばれるものに入るのではないか。
 剰余価値と一言でいってもぼくの場合その理解がどこまでマルクス的なのかそうでないのか、よく分からないところがあります。
 こういったところを確認する意味で読んでみようと思います。
 それと、注が意外と面白いなと再発見しています。それに、マルクスの皮肉好きはある意味文学的でもありますしね。
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