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榊利夫「マルクス主義と実存主義」(1966年青木書店)

 この本を読んでみようと思ったのは、ひとつには古本屋さんの文章の中で出合ったからだ。もうひとつはちょうど高原さんへの文章で人文書院版の同名本(1963年)を話題にしたばかりだったからでもある。
 人文書院版はサルトルとフランスのマルクス主義者との公開討論のテープを起こしたものという体裁だが、どちらかというとサルトルの主張である。古本屋さんの文章で榊利夫に出合ったとき、そういえばそんな本を買って、読んでなかったなと気づいた。そこで、このさい公平を期すために読んでみようと思い、本棚から引っ張り出してほこりを払った。もともと40年前にこの2冊を買ったときもそういうつもりだったのだ。
 読んでないとばかり思っていた。ところが101ページまで読み進んだとき線引きに出合った。どうやらここまでは読んだらしい。これがまた、人間形成における労働の役割を強調した部分で、いたるところ線を引きまくっている。ちょうど植田、高原両氏の議論となっているテーマである。何か因縁を感じた。
 榊利夫はこのときまだ30代だ。その若さにもちょっと驚いた。10年前に74才で亡くなっている。

 まず全体的な感想。
 マルクス、エンゲルス、レーニンの言葉の引用が膨大に出てくるが、そのいずれにも記憶があり、ぼくの考えのもとになっている。やはりマルクスたちからは大きな影響を受けてきたのだとあらためて思った。
 とりわけ、マルクスたちが、そして榊利夫も人間における労働の役割を繰り返し強調するところは強く同感した。
 また冒頭でキルケゴールの生涯と著作の紹介をやっているが、ここは面白かった。
 ところが本の半ばあたりから、昔馴染んでいた単語のひとつひとつがぼくに違和感を覚えさせるのである。たとえば「社会発展の客観的法則……の認識」(104ページ)。こういう言葉が繰り返し出てきて、どうもひっかかる。
 断っておくが、そのこと自体を否定するわけではない。何かと関わろうとするなら、対象を客観的に認識しようと努めねばならない。当然のことだ。だが認識する主体は主観である。主体によって食い違って当たり前である。どれがより客観的であるか、それを判定する権利を持った個人も組織もありえない。論争せねばならないのは認識の具体的な中身であろう。
 榊利夫が客観的な認識というとき、ある個人なり組織なりがそれを判定する権利を持っているかのような響きがある。あまりにしつこく繰返されるので、そういう雰囲気を感じてしまう。
 サルトルの言葉からの引用も多いが、こちらの方は必ずしもぼくの記憶にない言葉がかなりある。ぼくはサルトルの小説と戯曲とはあらかた読んだ。「嘔吐」を除いてはどれもかなり通俗的で、芸術性には乏しい。でも読みやすく面白いし(「嘔吐」は読みにくい)、それなりに得るものはある。だが哲学は、「存在と無」の「緒論」を読んだだけである。あとは「実存主義とは何か」くらいか。これはサルトル自身による大衆向けの解説書である。
 そんな状態の60代が、博覧強記の30代に論争を挑むのは気がひけるが、それでも気になることは言わねばならない。榊利夫の引用で読むサルトルには、たしかに無理な言葉が多い。だが前後の文脈がわからないので、必ずしも真意を読みとれない。それに、引用された限りでも榊利夫の誤読ではないかと思われる個所もかなりある。榊は榊流にサルトルを読んでいる。
 それにしても気になるのは、論争(直接の論争ではないがやはり論争であろう)が抽象的で、具体的な中身に入っていかないことである。これはもちろんサルトルに問題がある。サルトルは認識の入口で論争しようとしている。彼の問題意識はそこにあるのだ。
 思うに、マルクスたちが哲学の分野で為しとげたことは、哲学に最終的に引導を渡したことであった。物事は思弁では認識できない、対象の科学的認識が必要なのだということを明らかにし、その時点で(20代の半ばか)哲学の死を宣言して科学にハンドルを切ったのだ。そして、社会、経済、政治、歴史の各分野で、それぞれ画期的な功績を挙げた。
 それはそれぞれの具体的研究というよりも、それぞれの基本的な原理を明らかにするものであったので、社会哲学、経済哲学、政治哲学、歴史哲学というように呼んだ方がふさわしいかもしれないが、いずれにせよ、そこにあったのは従来の哲学的方法であるよりも、科学的方法であった。もっとも、多少ヘーゲル観念論の影響を残しているような気もするが。ともかくも彼らはすばらしい成果を上げた。それはその限りでは乗り越えがたき峰である。これが江戸時代の話なのだ。
 だが、もちろん客観の科学的認識には終わりがない。それはどこまで行っても不十分だし、それに客観自体がどんどん変化していく。日々新たな科学的認識を必要とする。そして常に認識主体は主観なのであるから、食い違う認識のどれがより客観的であるかは誰にもわからない。それは論争する以外にないのである。科学的認識の中身の具体的論争である。
 サルトルがマルクス主義者に疑問を持つのは、その入口の部分なのだ。マルクス主義者には認識の主観性がよく理解できていないように思われる、ということ。
 サルトルは「存在と無」の「緒論」で、コギトから出発する。ぼくもデカルトは「方法序説」と「省察」を読んだ。主観がどのように否定しようとしても、論理上どうしても否定できないものは、主観そのものの存在である、という認識は正しい。そこからサルトルはフッサールの現象学に入り、意識とは「なにものか」についての意識であり、「なにものか」から独立した意識そのものというものは存在しないことを証明する。すなわち神の否定であり、唯物論の証明である。
「存在と無・緒論」の結論は「私は存在する。世界は存在する」である。
 哲学が為しうることはおそらくこれが限界なのだ。ここから先は科学が仕事をする。そしてマルクスたちは偉大な科学的仕事をやってのけた。それは彼らが認識の出発点を過たなかったからなのだ。ところがマルクス主義者たちはそうではない。彼らにはデカルトがわかっていない。サルトルがしつこく批判するのはその部分であり、ぼくにも同意できる思いはある。ただその部分でマルクス主義者と議論すれば水掛け論であろう。ほんとうは認識の具体的な中身について議論すべきなのだ。
 サルトルの自然弁証法批判に対して榊は多くを費やして批判しているが、これにしても、サルトルが言っているのは自然とそれを認識する主体との関係の問題なのだ。自然科学者が弁証法のおかげで研究がうまくいったと述べた(不破哲三も同じことを書いていたが)としても、それは認識方法の問題である。自然について人間の知っていることはまだほんのわずかであり、法則と言ってみたところで、それは現在解明された段階でのものにすぎない。榊が自然に対する人間の勝利などと書くのを見ると、まあ、50年前だからねえ、それにしても……と思わざるをえない。
 榊利夫が書いたのは50年も前の話であり、いまの時点であれこれ言うのは後知恵の趣きがある。しかし50年経って、世界は若き榊利夫が当時思っていた「社会の客観的法則の認識」とはかなり違っていたことは指摘せざるを得ない。客観的認識が必要であるということは正しいのだ。だが、具体的な認識が正しかったかどうかを問われれば、あんなに自信たっぷりに論争相手を批判することは出来なかっただろうと思われる。
 そしてこういう論争姿勢は、決して過去のものではない。人々が共産党やマルクス主義者に違和感を持つのはその点なのだ。
 榊論文の中でひとつ理解に苦しむのは、すでにスターリンを裏切ったソ連の社会主義を修正主義であるとして批判しながら、その同じ口からソ連を含む社会主義絶対擁護の言葉が出てくることだ。この社会主義と修正主義との関連が腑に落ちない。榊利夫には修正主義に関する本もあるようだから、それを読んでもいいのだが、この若かった人が豊富な知識を持ちながら考え方が膠着しているのを見せつけられると、読んでもがっかりするだけだろうという感じがする。本の後半部分には修正主義批判が相当出てくるが、その中身には触れていないのである。
 ポーランドのマルクス主義者が、従来のマルクス主義に欠けていたものとして人間性論議を取り上げると、榊はそれに噛みついているが、榊が擁護する(?)ほかならぬ社会主義国の内部からそういう声が出てくるということはその国の社会主義にそういう問題があるということだろう。そういう現実の問題として考えようとする姿勢が彼にはない。結局理論だけなのである。
 50年前に書かれたものとはいえ、ハンガリーにおける民衆蜂起へのフルシチョフによる弾圧を擁護している。フルシチョフは修正主義者として否定されたのではなかったのか。
 社会主義国の労働者が自らの要求を掲げて権力とたたかうことはあってはならないとも言っている。ここまで来ると、具体的問題での認識は支離滅裂と思える。マルクスを語っているときはまことに明解で、マルクス入門書としては適当だと思うが、どうやら理論の内部にとどまる人物のようである。
 最後に、文学の分野で、決定的にぼくをがっかりさせた。先にブログ上で「罪と罰」に触れたが、榊が「罪と罰」について書いているのはサルトルへの反論として取り上げているだけで、自分自身の「罪と罰」論を書いているわけではないからこれは良しとしよう。 
 結末にカフカを論じて、これは明白に彼自身の意見として、まったくつまらないと書いている。もちろん小説の好き嫌いは個人の自由である。だがカフカの芸術性を理解できないことにはやはりがっかりさせられるし、その文脈で、ブルジョワ文化は拒否する、人民の文化を擁護するなどと言っているのを読めば、これは50年前の話としても相当いかれているという感じをぬぐえない。

 さて実存主義である。
 ぼくは政治の世界に実存主義を持ちこもうとは思わないが、ぼくの関心事である文学の世界は別である。人間は社会的歴史的存在であるということは理解するが、それで済むならむしろ文学などいらない。たぶん榊利夫は文学を必要としない人間なのだろう。
 社会的歴史的存在としての人間は、だが各人各様である。そこには類型化を許されない問題が多様に存在している。政治が解決できる問題もあれば、できない問題もある。そして政治が解決できるとしても遠いSF世界に約束された解決ではいまの人間の人生には役立たない。人間には不条理な問題がいくらでもある。文学がこれをとりあげないとしたら、何がとりあげるのか。
 そしてこの世界では、実存主義は豊富なヒントを与えてくれる。
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