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物々交換、そしてエンゲルス(高原さんへ)

「物々交換」読みました。恋が物々交換を生みだしたという推論はとても楽しいですね。
 言わんとするところは以下のようなことでしょうか。
 内部の矛盾がその量的積算の結果自律的に質的転化を遂げる、のではなく、そこには外部から偶発的な何らかの力が働いて、それが内部矛盾を質的に転化させる。
 略奪の内部矛盾、すなわち必要物資の入手とそれに伴う人命損傷という矛盾を意識したとしても、それが当り前の世界では、解決しようとする意志が生まれてこない。交換が存在しない世界には交換の観念もまた無いので、無から有が生じようもなく、略奪が永遠に続く。質的に転化しない。交換の観念は外から偶発的に与えられる。この点がマルクス理論には欠けている。と、いうことでしょうか。
 ぼくはマルクスに詳しくないので、その当否はわかりませんが、面白い観点で、ひょっとすると史的唯物論を補う内容なのかとも思います。
 思い当たることはあります、ぼくの高校時代、朝日新聞に本多勝一の「ニューギニア高地人」が連載されました。当時の高地人の主食は芋で、芋しか食べない。豚も一部飼育されてはいるが、たまに食べる量しかない。本多はこの直前にエスキモーも取材していますが、この高地人の芋文化に比べれば、エスキモーの生肉文化の方がよほど馴染みやすかった。毎日芋を食うのは苦痛だった。何故、芋の生産量を増やしてこれを豚に食わせ、豚を量産して食事を改善しないのか。本多はこれを不思議に思いました。
 ひとつの文化が当たり前になってしまうと、改善の意志は働かない、ということでしょうか。
 この観点は、現代世界を考える上でも多くのヒントとなり得るものだと思います。

 恋のプレゼントについて考えてみます。一般に、動物のオスはメスの気を引くためにさまざまなことを試みます。哺乳動物はオスどうしが戦って、自分のほうがメスの子孫を残すのに有利な遺伝子を、メスに与えられることを証明しようとします。鳥類の場合は、ファッションや、美声や、ダンスの上手さや、いかに住み心地の良い住宅建設の能力があるかを競います。その中に、食べ物をメスにプレゼントする鳥もいるようです。
 動物たちを見ていると、オスは自分の子孫を残せさえすれば相手は誰でもよいと大雑把に考えているのに対して、メスの方は、自分の子が丈夫で賢い子となるために、慎重に相手を選んでいます。選択権は一方的にメスにあり、自分が選ばれるためにオスが一生懸命になる様子は、見ていて同じオスとして涙ぐましい思いがし、ちょっと口惜しい。妻の方はこういうとき得意そうに笑っています。でも人間の場合は、他の動物とちょっと違いますね。人間はオスの方もメスを選ぶから、メスの方も選ばれる努力をします。
 それはそれとして、ここではプレゼントは性交の代償です。物々交換ではなく、物と行為との交換です。高原さんの説では、プレゼントが双方向からなされる場合を想定し、これを人類最初の物々交換とされているようです。ここにはまだ少し納得し得ない部分があります。
 プレゼントそのものについて考えてみると、性交の代償としてのプレゼントの前に、親が子に与えるプレゼントがあります。子の養育です。これは交換なし、代償なしのまったくの無償の行為です。もっとも人間の場合は、子の養育は自分自身の老後の生活保障であって、まさしく交換行為なのですが、他の動物はそうではありません。育った子は親元を離れてしまい、老後の保障にはなりません。(現代の人間社会はそうなってきていますが)。この無償の行為が何故成立するのか。親は子に対してなぜ利他的でありうるのか。竹内久美子によると、それは遺伝子が利己的であるためで、(利己的というのは単なる比喩的表現ですが)子を養育する機能を個体に持たせた遺伝子だけが必然的に生き残る、その結果、すべての個体が子を養育することになる、というまさに理路整然とした解釈です。ぼくもこれが正しいと思います。
 プレゼントは、人間発生の前に厳然として存在した。この無償のプレゼントが有償のプレゼントに、(恋において)質的転化を遂げ、さらに双方向プレゼントへと発展し、物々交換になる。と、まあ、そんな構図を描けないでもありませんが、いま少し説得力に欠けるような気もします。

 物々交換のあとの展開は非常に難しいので飛ばし読みをしました。最後に近く、エンゲルスの三つの法則について述べておられますね。これについてはいろんな思い出があります。ぼくが最初に与えられたマルクス主義文献は、スターリンの「弁証法的唯物論」と毛沢東の「矛盾論実践論」でした。もちろんそれ以前に「共産党宣言」「共産主義の原理」「空想から科学へ」は読んでいましたが、最近「古本屋通信」を読んで古本屋さんもやはりそうだったと知り、ちょっとおかしくなりました。
 スターリンと毛沢東とは大変わかりやすい。当時の共産党が無学な民衆を組織する課題に直面していた以上、分かりやすい文献を与えるのは必要なことだっただろうと思います。当時共産党関連の入門書の類いは、みなこの二冊に準拠していたようなイメージがあります。
 しかし、「ドイツイデオロギー」などを読む中で、はたしてこれはマルクスの思想なのかという疑問が生じてこざるを得なかった。マルクスは人間における感性の能動性を非常に重視し、また「人間は教育の産物である」という俗流唯物論に対して、「だが、教育者が教育されねばならないではないか」と痛烈な皮肉を飛ばしています。「フォイエルバッハ論」だったか「反デューリング論」だったか、いまや記憶が混乱していますが、エンゲルスの三つの法則も、それはエンゲルスの法則というものではなく、唯物論者たちが馬鹿にするヘーゲルの理論にもこういう有効性があるんだよと例示したものにすぎないように思えました。
 いつだったか、高原さんは、サルトルとフランスのマルクス主義者たちとの討論を話題にされましたね。この本(「マルクス主義と実存主義」人文書院1963年)に出合ったのはそういう疑問を持ち始めていたときです。
 このなかでサルトルが三つの法則を批判したのに対して、マルクス主義者が、「法則はもちろん三つだけではない」と反論しました。そのときサルトルは、「法則が十であろうと百であろうと同じことだ。それはすべて人間の立てた法則であって、自然は人間の法則には従わない」とやりかえしました。また、マルクス主義者が、弁証法は自然の法則から生まれたと言ったのに対して、「そうではない。それは人間の思考方法から生まれたのだ」と批判しました。もちろん弁証法はギリシャの弁論術です。この討論は圧倒的にサルトルの勝ちでした。
 でも、三つの法則が、物事を理解するうえで一定の役割を果たしたのは事実でしょう。ある程度までそれは真理だったのです。とりわけ無知な民衆にはまずわかりやすいものを与えねばなりませんから。でもいま、民衆は無知ではありません。彼らのまわりには情報があふれ、なまなかの理論は鋭く跳ね返されます。それに耐えるだけのものを左翼の側が構築していかねばならない。高原さんや植田さんの試みておられることはおそらくそういうことなのだろうと思います。
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