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メールの件、そしてエガリテ、植田、高原各位へ

 1週間前からパソコンの電子メールが送受信不可能となった。何か間違った操作をしたのだろうが、パソコン初心者のぼくには直す方法がわからない。正月に娘が来て直してくれるまで待つしかない。
 もっともパソコンメールはほとんどが読みもしないコマーシャルばかりで、必要なメールはその陰に隠れて目立たない場所にたまに入る程度だが、もしこの間にメールされた方がいたらごめんなさい、読めていません。ご用があればこの欄のコメントに書いてください。私信は非公開で。

 ところで、エガリテブログに送ったコメントにエガリテ氏が長文の回答を書いてくださった。お礼を書きたいがエガリテブログの投稿欄はメール経由のように思われるので(よく分からないのだが)、届くかどうかわからない。で、ここに書きます。エガリテ氏の眼に触れるかどうかも分からないが。
 テーマは韓国問題で、エガリテ氏がマンデラの和解の精神を朴槿恵に要望したのに対して、それは加害者の側から言うべきことではないのではと書いたところ、解放同盟の例を挙げて、差別・被差別、加害・被害と分けて捉えると真の解決には結びつかないという指摘をされた。
 見解の不一致点は残るが、エガリテ氏が日韓関係の真の友好を求めておられることはよく分かったので、とりあえずこのテーマはこのままおいて、ぼくの方もよく考えてみたいと思います。
 エガリテ氏の丁寧な応答にお礼を申し上げたい。
 この項目は以上。

 植田氏がぼくの「労働」にコメントを書かれた。ぼくの見方とほとんど一致していると思うのだが、あの項目では多少文学的に表現してしまったので、誤解が生じたかもしれない。
 低賃金、長時間労働、危険・不健康な労働環境、あるいは抑圧的な人間関係、といった問題が労働問題にあること、それを解決していかねばならないという点では、ぼくも植田氏と同意見です。
 ただぼくが指摘したのは、どんな労働のなかにもなにがしか人間の心を和ませる要素がある、ということで、もちろんそれを理由に労働一般を全面的に肯定しようというのではありません。ただこの要素の人間的な性質に注目してほしかっただけです。
「すべてを忘れて労働だけの生活を送れればそれが一番理想的」と書いたのはひとつの夢想のようなもので、すでに文化を知ってしまった人間が、それだけで満足できるわけではない。労働もひとつの文化だと思うが、そのほかにも芸術、娯楽、観光、スポーツとやりたいことはいっぱいある。だからもちろん時短にも賛成です。文化を否定しているわけではありません。
 以上。

 高原氏は、誰も読んでくれないぼくの小説を読んでくださり、長文の批評を書いてくださった、その内容はぼくの意図を正確に読みとり、なおかつ、ぼくが意識していなかったことまで読みとってくださった。箇条書きしてくださった指摘は今後書き直すうえでたいへん的確なものでありました。この点で深く感謝しております。
 だが、政治問題では一致し得ない点があり、そのことにちょっと触れておきたい。
 原発問題ではどうしても一致できません。ただこの問題でのぼくの知識は限られており、ぼくが現在下している結論はいわば直観的なものに過ぎないので、これ以上議論しようとは思いません。
 要は、原発を維持するのと、廃止するのと、どちらが人類にとってリスクが大きいかということだろうと思います。ぼくはいまの人類社会の水準では、安全な原発は保証できないと考えます。今後後進国を中心に大量の原発が建設されようとしていることにも大きな不安を感じます。
 エネルギーは不足するかもしれません。だとすれば人類の生活、文化を変えていく必要があるでしょう。とりあえずはマイカーを減らす方向に転換すべきです。都市設計を根本的に改め、職・住・商のエリアと公共交通機関を適切に配置すれば、マイカーはほとんどいらなくなり、交通弱者にも配慮した都市環境ができるでしょう。エネルギーが無限にあると思うから、いびつな社会を作ってしまったのです。いまの先進国の暮らし方を後進国にまで広げようとしたら、確かに大変なエネルギーを必要とします。まず先進国から暮らし方を変えるべきでしょう。原発を廃止すれば人類はその方向に強制されます。

 日本共産党とマルクス主義に関する見解は、話が抽象的で非常にわかりにくい。
 例えば12月13日のコメントで、民主集中制について書いておられます。
 その冒頭の部分で、「正しい変更行動」「行動に関しては、取り敢えず今のままで良い」と書かれている「行動」とは何を指しているのかが分かりません。
 続く節は、「民主集中制において下部組織の一部の見解を全体に広げていくことは、理論的には可能だが実際上は不可能」「この制度自体は有効で、その運用を変えねばならない」と読みましたが、あってますか?
 さらに次の節、「生き方」「謙虚であり同時に批判的であること」が、「民主集中制を実際的に有効に運用するために必要」だが、「これは完全には機能しない」ので「何らかのルールが必要である」と読んでいいのでしょうか?
 ここには疑問点が二つあります。
①組織構造の有効性・無効性を論じる際に、「生き方」を出してしまっては、それは組織の有効性・無効性を論じるものとはならない。
 組織にはいろんな「生き方」のいろんな人間が集まります。どんな人間が来ても有効に作動する組織でなければならない。スターリンを排除できないような組織は、無効な組織です。
②「何らかのルールが必要である。これらに尽きる」と書かれていますが、重要なのはその「ルール」の中身です。民主集中制に欠けているルールとは何なのか、何を付け加えればこの組織は有効に作動するのか、あるいは根本的に組織思想を転換する必要があるのか、その点に触れなければ、決して「これに尽きる」ことはできないと思います。
 もちろん、頭の中で創り上げる青写真は役に立たないでしょう。実践家が実践の中で試行錯誤していくものだろうと思います。しかし、現在の組織の欠陥を指摘し、改善のための方向性を出すくらいはできる。その方向性のなかに「生き方」が出てきては駄目です。

 高原氏の文章を読んでいて一番気になるのが、この「生き方」が再々顔を出すことです。もちろん「生き方」は大事な問題ですが、理論問題の論考のなかに「生き方」が出てくることには違和感があります。「生き方」はさまざまで、理論はそのさまざまを前提として構築されねばならないと思うからです。

 もうひとつ気になるのは、高原氏の論の組み立てには、なにか決定的に有効な「解」がどこかにあって、この「解」に到達しさえすればすべてはよくなるといった趣きが感じられることです。これはぼくの読み間違いでしょうか? 実際には人間も、組織も、社会も不十分で欠陥だらけのものです。その不十分で欠陥だらけのものがさまざまに絡み合っているのが現実です。
 もちろん哲学的な考察は否定しません。すべての学問はそれ自らの自律性によって探求されていく必要があるでしょう。
 だがそこで探求されたものが現実に応用されていく過程はまた別のものであり、現実のこの社会、そこに働くさまざまな力、思惑、利害、感情、といった方面に関心を向けていくぼくの方向とはかなりすれ違いを感じざるを得ません。

 ぼくは共産党の個々の党員は尊敬しています。そこに世の中をよくしたいという情熱と、ボランティア的精神を感じるからです。でも多くの活動がからまわりしているように思え、はたして将来性があるのかという疑問も持ち、一方では悪政に抵抗してくれることへの期待も持っているので、ついいろんな苦言も弄したくなるのです。
 だが基本的にぼくの書くものが野次馬にすぎないことは自覚しています。ほんとうは人に影響を与えられる小説を書きたい。早くそこへ戻ろうと思いつつ、日々いろんな風潮や文章に接するとつい何か書かずにおれなくなる。
 最後は愚痴になりました。そろそろ文学に戻ります。
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