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労働(高原氏のコメントから)

 ちょっとごたごたして二度書いた文章が二度とも消えてしまったので、三度目に同じ記事を書く。勢いを失ってしまったので、ちゃんとした文章になるか自信がない。
 まず断っておくが、当ブログの政治カテゴリー中の「エジプト・シリア・イラン」の項目には、すでにタイトルには関係なく、高原、植田両氏のさまざまなテーマのコメントが無数にぶら下がっており、あたかも両氏の投稿欄の趣きを呈している。コメント欄なので読者の目に触れにくく、本文に移すことも考えたが、ブログの体裁上いろいろ考えて、当分現状のままでいくことにした。興味ある方はコメント欄をチェックしていただきたい。
 そのうち最新の「不破哲三氏の自由論批判」と題された高原氏の記事2件について若干の感想を述べる。
 内容は、赤旗本年当月22日付の座談会「古典教室第2巻を語る」中の不破発言への批判である。
 このなかで高原氏は、不破氏が自由の国をアフターファイブのものとしてしまうことで、労働を束縛としてしか捉えられなくしているとして批判している。ぼくは不破氏の発言を読んでいないので、その文脈上の当否は判断できない。だから不破氏の件は置いておくとして、高原氏が、労働のなかにこそ自由の国を見なければならないとしている点に共感する。
 SF的将来、労働のない世界が実現するかどうかは別にして、いまわれわれの生きている社会においては労働が人生のほとんどすべてである。それが束縛でしかないと言われてしまったら、ぼくらの人生ほど虚しいものはないということになってしまう。人生とは労働なのだ。その喜び、苦しみ、迷い、悩み、そのすべての豊饒さにおいてこそ、人生は生きる価値があり、語られる価値がある。ここにこそ、人間の自由がなければならないのであって、アフターファイブはまた別の問題だ。
 ぼくが自分の小説で労働を描こうとしているのもそれゆえだし、「民主文学」に一般誌にないものを感じるのも、それが労働を描いているからだ。アフターファイブだけを論じ、それだけを小説の題材とすることが駄目だとは言わないが、そこには決定的に人生における本質的な何かが欠けているように思える。
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596:コメント143改版  高原利生 by 高原利生 on 2016/04/12 at 22:19:39 (コメント編集)

コメント143を、改版させてもらっています。その内容は次のとおりです。
1.コメント143のマルクスの引用に、重要なものが抜けていたので追加しました。
2.石崎徹さんブログ『「価値」付け足し 』(2016.02.14)へのコメント586の四版の中で、マルクス、サルトル、パースについて、大事なことに気づき、コメント586の四版を変えました。

詳しくは、石崎徹さんブログ2016.02.14の『「価値」付け足し 』へのコメント586をご覧ください。

コメント143の内容に関わるので、こちらにも追加しました。その部分は次のとおりです。
「マルクスが提起した対象との新しい関係も、サルトルの全体化の方法も、パースの連続性の実現方法、仮説設定の方法も、提起されただけで実現していない。
全体化、粒度と網羅を述べ続けているのであるが、今(2016年4月12日)、初期マルクスの根源的な対象(他人とその他の対象)との対等な新しい関係、パースの連続性、サルトルの全体化の三つが、欠けている全体、網羅を作る要素ではないかと気付く。
高原の理解では、サルトルの全体化は、一時が万時、一事が万事ということだ。今の一時が万時につながらなければならない、かつ、今の一事が万事につながらなければならない。これは、それ自体が主観的にも客観的にもそうであることを述べていて、パースの連続性を含むかもしれない。
パースの連続性は、今の個人の行動の、まっすぐ歩くか右に曲がるか、夕食に何を食べるか等の判断と、今の経済をどうするか等の判断は、同じ原理に拠っているというものだ。
この三つは相互に関係している。マルクスが本質で、パースとサルトルはその実現方法の満たすべき属性を語っている。実現方法は語られていない。
これも、今(2016年4月12日)、気付くのは、三人とも、産業革命後の人で、対象化の世界観の真っただ中にいたにもかかわらず、言っている内容は、一体化の重要性を語っているということである。」

なお、石崎さん以外の方の批判、コメントを、石崎さんのブログ使って展開するのはやめています。石崎さん、たいへん失礼しました。
また、ブログコメントの改版は、今後、なるべくやめます。石崎さん、たいへんご迷惑でした。改版の積み重ねで読みにくいのは、高原利生ホームページだけにしたいと思います。

184:少し整理 by 植田 与志雄 on 2014/01/06 at 18:21:49 (コメント編集)

私なりに少し整理させてください。

1.マルクスの労働観に関しての高原さんのコメント181での意見について。
ここから高原さん・・・・・
 「マルクスに準拠すれば、マルクスがモノに結実しない労働は生産的労働ではないとしたので、モノに結実しない知的活動は労働とは別物となる。」
 これが違います。マルクスは、労働の本源的規定を述べただけで、労働の定義をしたのではない、ということを高原は、178で言ったつもりです。資本論でのマルクスの「労働」は、全ての「賃労働」です。「賃労働」と言えばよかったのに、「賃労働」を説明するのは当時は大変だった、だから、労働の起源、本源、本質として生産的労働を説明しただけです。マルクス当時も、大学教授はいて、賃金は支払われていた。この大学教授の生産労働でない教育労働、研究労働にも、資本論の分析は完璧に当てはまります。
・・・・ここまで高原さん
*結局はマルクスが間違えていた(不十分さも含めて)のかマルクスは正しけれどマルクス解釈が間違えていたのか、どちらかを議論しているので、決着がつかない予感がします。

*不破さんのマルクス解釈に誤解/誤りがあるかないか
*植田のマルクス解釈に誤解/誤りがあるかないか
*高原さんのマルクス解釈に誤解/誤りがあるかないか

マルクスが正しいか否かは措いて労働に関するマルクスの主張を要約すれば。
【マルクスには生産的労働に関する2つの規定がある。
本源的規定(超歴史的)と資本主義的形態規定(歴史的)の2つ。

・生産的労働の本源的規定は労働過程の成果の立場から与えられる規定であって、すべての社会形態に等しく共通した超歴史的規定であり、物質的財貨を生産する労働だけを生産的労働とする規定である。
つまり、物質的財貨を産出しない労働は生産的労働ではないとする規定である。

・生産的労働の資本主義的形態規定は価値増殖過程の成果の立場から与えられる規定であって、資本制生産が行われている歴史的段階に限られた規定であり、剰余価値を生産する労働だけを生産的労働とする規定である。
つまり資本の自己増殖に役立つ労働でなければ生産労働とみなさないとする規定である。

資本制生産下では生産的労働とはマルクスのこの2つの規定を満たす労働だけを指す。】
これは植田のマルクス解釈と言われればそうかもしれませんが、マルクスのテキストからストレートに出てくる、テキストの要約と言える内容で、ここまでは殆どのマルクス派で共有されています。

冒頭に引用した高原さんのマルクス解釈とは少し違っています。
どちらが正しいかは決着しそうもないので、そこは措いて話を進めませんか。

2.マルクスを離れて労働そのものに関して整理すれば
*労働の中に知的要素があることは不破、植田、高原が等しく認めている。
*問題は知的要素の有無ではなく、物質的モノを生まない労働をどう見るかでしょう。
*物質的モノを生まない労働とは、知的労働(活動)か又は人間相手のサービス労働です。
*知的労働が物質的モノを生まないと言ってる訳ではないのです。
*物質的モノを生まない労働があったとすれば、それは<文学や芸術など知的活動だけを要素とする労働>か<介護や教師など人間を対象とする労働>であろうと言ってるのです。
*「不破氏は労働を知的活動が全くないという前提で使い」「知的活動を労働から全く別の時間の活動ととらえているので、、」これは高原さんの誤解、早とちりではないでしょうか。
*不破氏が労働の中に知的要素があることを理解できなかったり、否定するとは思えません。文学や芸術など物質的モノを生み出さない知的活動を重視したい、さらに言えばこの知的活動のほうにこそ人間の能力の開花があると言っています。
*この知的活動を生産的労働とは一線を画すように捉えているところが私から見れば不破さんのイマイチなところです。しかし、モノを生まない知的活動を生産労働に含めたとすると、別の問題が浮上すると思います。
*生産的労働は生命維持のための必要な、強いられた労働と捉える労働観が含まれているので、ここはここで議論を要すると思います。つまり必要=手段であって、本来の人間にとってどれほどの価値があるかは簡単には結論できないコトが含まれているとも思います。
手足も脳も知性も機能的には人間を作ってきたし、生命を維持させてきたのが生産的労働ではあるけれど、果たして人間存在にとって至高の活動であろうか。
*ここからは不破さんやマルクスから離れた議論になると思います

181:マルクスの労働 その2  高原利生 by 高原利生 on 2014/01/01 at 16:52:27 (コメント編集)

マルクスの労働 その2
180:年を越えて、、、 by 植田 与志雄 on 2014/01/01について、および178:マルクスの労働  高原利生 2013/12/31 の追加
(次を最後に追加。20140102
 利益第一主義をもたらしたのは、直接には労働です。したがって解決も主として労働で行われるはずです。
労働の誤解は、人間の誤解です。これが、自然があり、人間があり、自然と人間の関係がある、その全体の変革が同時に必要という根本を見えなくする。客観と主観の統一というのは、この根本の簡易表現です。若きマルクスやサルトルが分かっていたものです。)

 新年おめででとうございます。植田さんの言っていることが分かったと思っていたのは違うようです。誤解だけは解いておきたいと思います。なぜ誤解されるのか分からないため、逐次反論していきます。しつこくてすみません。 以下「」内は植田さんの発言、地の文は高原。
 「不破さんの主張は労働軽視ではない。」
 実際にはある知的要素を無視するため、実質的に労働軽視になっています。

 「マルクスに準拠すれば、マルクスがモノに結実しない労働は生産的労働ではないとしたので、モノに結実しない知的活動は労働とは別物となる。」
 これが違います。マルクスは、労働の本源的規定を述べただけで、労働の定義をしたのではない、ということを高原は、178で言ったつもりです。資本論でのマルクスの「労働」は、全ての「賃労働」です。「賃労働」と言えばよかったのに、「賃労働」を説明するのは当時は大変だった、だから、労働の起源、本源、本質として生産的労働を説明しただけです。マルクス当時も、大学教授はいて、賃金は支払われていた。この大学教授の生産労働でない教育労働、研究労働にも、資本論の分析は完璧に当てはまります。

 したがって、
 「これはマルクスの呪縛。不破さんはこの呪縛から脱しようと格闘中。マルクスの定義では労働ではないとされているが、モノに結実しない知的活動も人間活動において重要であること、これが今まで軽視されてきていたことを不破さんは告発している。」
というのは違います。不破氏は、マルクスが本源だけ述べたのを、モノに結実しない知的活動が除外された、と自分で誤解しておいて、マルクスが除外した、と述べているだけのように見えます。

 「これは高原さんの主張と殆ど同じで、労働という言葉を使うか知的活動という言葉を使うかだけの違いで言いたい内容は変わらないと思います。」
 不破氏は、労働を、知的活動が全くないという前提で使い、知的活動を労働から全く別の時間の活動、ととらえているので、これは違います。一つのものの言葉の使い方ではありません。

 「知的活動を労働と別扱いしてきていたのはマルクス派の半分で、もう半分はモノに結実しない活動も生産労働と捉えることを主張していた。この論争のルーツはマルクスの生産労働に対する本源的規定にあった。その本源的規定も高原さんがご指摘のように、「彼の論理展開に必要だったのは、価値(交換価値,商品価値)を生む抽象的人間的労働だけだった」から来ている。つまりマルクスが彼の商品分析がやりやすくなるために無理やり生産的労働の範囲を狭めた結果ではなかったか。」
 この論争は知りませんのでコメントできません。でも見る限り、僕の立場は後者です。最後のマルクスが、「商品分析がやりやすくなるために無理やり生産的労働の範囲を狭めた」というのは、先に言ったように明白に誤解です。マルクスは知的要素があろうがなかろうが関係なく賃労働の全体を、実際に分析できている。ものの生産を説明の例に使っているだけです。

 植田さんの「マルクスに準拠すれば、マルクスがモノに結実しない労働は生産的労働ではないとしたので、モノに結実しない知的活動は労働とは別物となる。」
というところが、前に述べた理由で違います。繰り返しになりますが、マルクスは、資本論で扱った賃労働を、「モノに結実する生産的労働」と定義したわけではありません。

 この労働観が、『古典教室』第2巻を語る 『空想から科学へ』――科学的社会主義の入門書」という赤旗の座談会(2013年11月22日)http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-22/2013112208_01_0.html
での、不破氏は次のような間違いをもたらします。、

 「マルクスが描いた未来社会像の中心は、「人間の発達」が保障される社会です。社会が変革されて、社会が必要とする生産労働をみんなで分担するようになったら、一人ひとりの労働時間が短縮されて、自由に使える生活時間が大きくなる。マルクスは、この自由な時間を「自由の国」と呼びました。
 未来社会では、人間の力を自由に発達させる条件が、社会のすべての人に保障される。これは、人類社会が歴史上かつてない発展の能力を持つということです。そこで科学技術が発展し、それが経済に生かされて労働の生産性が高まれば、その成果をうけて労働時間がさらに短縮され、「自由の国」はさらに領域を広げる。未来社会では、こういう循環が働きだします。
 資本主義社会では、利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、「自由の国」での「人間の能力の発達」が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう。
 従来の社会主義論というのは、たいていが生産物の分配どまりで、経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心のことが出てこないというところに大きな弱点がありました。」

 179:民主集中制 by 高原利生 on 2014/01/01http://maganetoru.blog.fc2.com/?no=257
で次のように言いました。
 これには、「若きマルクスが求めた客観と主観の統一という理念が全くない。これを実現するための労働観がなく、利益第一主義を超える価値が必要であるという理解がない。

 利益第一主義をもたらしたのは、直接には労働です。したがって解決も主として労働で行われるはずです。
 労働の誤解は、人間の誤解です。これが、自然があり、人間があり、自然と人間の関係がある、その全体の変革が同時に必要という根本を見えなくする。客観と主観の統一というのは、この根本の簡易表現です。若きマルクスやサルトルが分かっていたものです。

180:年を越えて、、、 by 植田 与志雄 on 2014/01/01 at 06:05:42 (コメント編集)

新年おめででとうございます。
不破さんの主張は労働軽視ではない。マルクスに準拠すれば、マルクスがモノに結実しない労働は生産的労働ではないとしたので、モノに結実しない知的活動は労働とは別物となる。これはマルクスの呪縛。不破さんはこの呪縛から脱しようと格闘中。マルクスの定義では労働ではないとされているが、モノに結実しない知的活動も人間活動において重要であること、これが今まで軽視されてきていたことを不破さんは告発している。これは高原さんの主張と殆ど同じで、労働という言葉を使うか知的活動という言葉を使うかだけの違いで言いたい内容は変わらないと思います。知的活動を労働と別扱いしてきていたのはマルクス派の半分で、もう半分はモノに結実しない活動も生産労働と捉えることを主張していた。この論争のルーツはマルクスの生産労働に対する本源的規定にあった。その本源的規定も高原さんがご指摘のように、「彼の論理展開に必要だったのは、価値(交換価値,商品価値)を生む抽象的人間的労働だけだった」から来ている。つまりマルクスが彼の商品分析がやりやすくなるために無理やり生産的労働の範囲を狭めた結果ではなかったか。そう私は思います。

178:マルクスの労働  高原利生 by 高原利生 on 2013/12/31 at 23:32:39 (コメント編集)

マルクスの労働  高原利生
「161:高原さんの労働と生産労働について by 植田 与志雄 on 2013/12/22」
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment161
の一部に対するコメント

 植田さんが、コメント161 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment161で、
 高原が「労働と生産について」「「マルクスは正しかった、マルクス学者がマルクスを誤って解釈していた」と言ってます。」と言われるのは、それに近い方向で話をしましたが、少し違います。しかし、言い直すのはなかなか面倒です。
 個別のマルクスの言っていることについては、一つ一つ判断する必要があると思います。
 
 マルクスの当時も、医療労働や彼がなろうとしてなれなかった大学教授などの労働もあった。しかし、マルクスが資本論で述べた生産(的)労働は、彼が従来の経済学という科学を批判し、価値の理論を展開していくうえで、必要最小限の労働を言っておかねばならなかったものです。資本論題一編第一章(国民文庫第一巻第一分冊p.87で、労働の二面(具体的有用的労働、抽象的人間的労働という属性)が、価値の二面(使用価値, 価値(交換価値,商品価値))を生成するということを述べますが、彼の論理展開に必要だったのは、価値(交換価値,商品価値)を生む抽象的人間的労働だけだった。この抽象的人間的労働を実現する最小限が次の「一」の中の生産(的)労働だと思います。
 植田さん引用の「労働過程はまず第一にどんな特定の社会形態にもかかわりなく考察されなければならない。」と彼自身言うように、時間と社会形態に応じて変化する労働の構造を網羅するものではなかったと僕は理解します。彼はそれを承知の上で、「どんな特定の社会形態にもかかわりな」い労働の本源、根源は、生産(的)労働だと述べました。

一. 高原のコメント155  http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment155
を少し変えます。a. 食料の生産労働、b. 生産労働、c. 労働、と次第に一般化していく。その中の、b. 生産労働を、根源的労働、本源的労働と呼んで良い。a. 食の生産労働を、根源的労働、本源的労働と呼んでさえも良い。
 これは、労働の根源、本源、起源、本質、言葉を変えると、労働の目的、意味、機能からくる言い方です。問題があるとしたら、労働の目的、意味、機能として、人の生の維持しか入っておらず、自由とか愛とかの他の価値が入っていないことですが、対象化の方向での自由と一体化の方向での愛とかの前提は、人が生きていくことです。自由や思いやりを実現する労働の前提として、狭い意味の生産労働が根源にあり、さらにそれは食を確保する労働がその根源にあります。また、この先に、個々人の自由と愛で欠けるものは何か?それを補完できるものがあるか?という課題はあります。

二. 歴史的に発展、展開していく労働の実現手段、構造については、これと別の話です。この労働の実現手段、構造は、
1. 労働の機能として、
11. 人と自然を受身に媒介するもの(衣服、住居など)を作る労働から、
12. 人の認識機能、思考(論理判断、数値計算)、自然に働きかける機能(調理、空調など)の一部を代替する機械が生まれ、その機械を作る労働が生まれる。この中から、
121. 人間の計算と論理判断を代替してこれを連鎖的に行う機能と、122. 認識や外部に対する操作を代替してこれを連鎖的に行う機能、の片方または両方を持った機械が生まれ、この機械を運用する労働、作る労働が生まれる。これがコンピュータのプログラムというソフトウェアによって実行される。プログラムを作る労働が生まれ普及する。
13. ものを作る機械、機械を作る機械が生まれ、それらを作る労働が生じる。
14. 作ったものの運用をする労働、の比重が大きくなる。広い意味では、運用もソフトウェアと呼ばれる。
それぞれの複雑化、高度化が進む。
2. 制度も複雑、高度になり、31. 制度を作る労働、32. 制度を運用する労働、それぞれの複雑化、高度化が進む。
3. 人に対する教育労働、医療労働が高度になっていく。
1、2、3はお互いに入り組んで複雑化、高度化が進む。
ただし、文字通りの生産労働と分けて労働ということも今後もあると思います。

 植田さんの「不破さんらマルクス派が労働を軽視しているのではなく、労働の中からモノに結実しない労働を除外していたからで、そこを加味すれば高原さんと不破さんの主張に大差はないです。」という意味が、よく分かりましたが、労働の中からモノに結実しない労働を除外することは致命的な労働軽視だと思います。早く直さないと致命傷になる一つです。

171:高原さんの労働議論のつづき by 植田 与志雄 on 2013/12/26 at 16:33:14 (コメント編集)

労働のつづきです。
ここから高原さん意見
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、先に、置いておくことにした問題は、残っています。これは今までの問題とは別の問題です。
*労働は、自分―労働―自然、として自分と自然を媒介する「運動」であったが、

1. 自分―「運動」―制度、として自分と制度を媒介する「運動」は労働か?例えば、政治行動は労働か?

2. 始めての物々交換(物々交換は制度です)を作る「運動」は労働か?マルクスは、始めての物々交換(物々交換は制度です)を作る「運動」を、矛盾とも運動とも扱わなかった。

3. 自分―「運動」―自分、の「運動」は労働か?ゲームをすることは労働ではないように見える。でもゲーム機を作るのは労働か?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここまで高原さんの意見
以下が植田
労働は、自分―労働―自然、として自分と自然を媒介する「運動」⇒マルクスの生産的労働の本源的規定
高原さんはこの「マルクスの規定する労働」以外の人間の活動について、言い換えれば自然との物質代謝以外の人間活動が労働に当たるかを考えようとするのですよね。

まず、運動という言い方ですが、これは人間活動以外も含む広い概念なので私には話が広がりすぎです。
活動と言ったほうがピッタリ来ますが、高原さんはあえて人間活動以外も含んだ運動として捉えようとするのかなとも思えますので、ちょっと迷いますが、、。
私は運動を人間活動として捉えることにして考えます。

1. 自分―「運動」―制度、として自分と制度を媒介する「運動」は労働か?例えば、政治行動は労働か?
⇒これは制度の設計になると思います。それは当然、理念-設計-制作-修正などのサイクルを含むとも思います。これは物質的なモノづくり、モノの生産と似てはいませんか。生産する対象が非物質であることが違うけれど。この全過程をすべて生産とするのは抵抗があります。例えばある法律を作る場合、作る作業はソフトウエア制作と全く同じ非物質財の生産だけれど、メンテ以降は生産と呼ぶのには抵抗があります。政治運動もしかりで区分けは判然としません。ここでは生産かそうでないかの区分けは意味がないようにも思います。けれどある過程は明らかに非物質財の生産過程であるし、そこでの活動は生産労働であると思います。

2. 始めての物々交換(物々交換は制度です)を作る「運動」は労働か?マルクスは、始めての物々交換(物々交換は制度です)を作る「運動」を、矛盾とも運動とも扱わなかった。
⇒物々交換に関しては高原さんの独創的探求がありますが私はよくわかりません。マルクス経済学から2足歩行、脳の巨大化、物々交換、などの人類発祥の歴史の研究に踏み込んでいる研究者の話を最近聞きましたが、彼は一つの集団が一体となって食料を求めて移動する状態から、集団内部が二手(狩猟と採集に)に分かれて食料を獲得することになって採集GPの採集居住基地をベースに定住化が進み、狩猟での獲得物と採集での獲得物の交換が集団内においてなされるようになっていったのではないかと説明していました。つまり共同体間での交換以前に共同体内で物々交換がなされていたと見るのです。これは制度というより「交換性向」と捉えているようでした。この交換を通して理性が発達した、これは労働による知能の発達とは少し違った見方ですが。このあたりは高原さんが詳しく論じているところですよね。
前置きが長くなりましたが、高原さんはマルクスが言及していない大昔の物々交換制度についてこれを作ったのは労働なのかと問われているのですね。率直にいってそれが制度と呼べるかどうか私には殆ど分かりません。
交換性向と呼ぶのはそれが殆ど人間の本能、性質と捉えているからで、そう考えると初期の物々交換は制度ではなかったかもしれません、この程度しか私には言えません。

3. 自分―「運動」―自分、の「運動」は労働か?ゲームをすることは労働ではないように見える。でもゲーム機を作るのは労働か?
⇒これは人間の脳内活動と他者へのマッサージや介護などのいわゆるサービス労働がこれに当たると思います。どちらも【自然が相手ではないこと+物質財の生産でないこと】で、マルクスの本源的規定から完全に分けられるけれど確かに「労働」と言って違和感はないです。スポーツなど肉体的運動、自己の身体を鍛えたり、楽しんだり、これはどう見ても労働とは言いにくい。ゲームもしかり。厳密に考えたわけではなくフィーリングですが自分の外に働きかけるかまたは自分の外に生産物(情報など非物質も含めて)を産出しない活動は労働とは呼ばないのではないでしょうか。
ちょっとここで理解しにくいのが、高原さんの「ゲーム機を作るのは労働か?」という疑問です。私は疑問もなく労働と思いますが、なぜ?なのでしょうか。

まだまだですが、、。

161:高原さんの労働と生産労働について by 植田 与志雄 on 2013/12/22 at 11:44:25 (コメント編集)

労働と生産についてですが、高原さんは、「マルクスは正しかった、マルクス学者がマルクスを誤って解釈していた」と言ってます。
私はマルクスが残したテクストを見る限り生産的労働の本質として与えた本源的規定が今から見れば不十分というか誤っていたことがはっきりしてきたと思うのです。
もちろんそれはマルクスの時代制約によるものでマルクスの価値を低めるものではありませんがマルクスを限界づけるものであることも確かだと思うのです。
マルクス解釈としてマルクスのテクストを超えて「マルクスはそこまで考えていたんだよ」的な主張がなされることが多いですが、高原さんの主張はそのような印象を受けます。

マルクスは生産労働の本源的規定として明確に
*人間の自然との物質的代謝
*人間は自然素材を生活に役立つ形に変化させる
*そのために腕、脚、手、脳を働かせる
*生産物は、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材である。
*労働は素材的要素を、対象と手段を消費し、食い尽くす、消費過程である。
*労働は生産物をつくるために生産物を消費する。
*一方の側にある人間とその労働、他方にある自然とその素材、それだけで十分だった。
と言っています、少なくとも資本論では。

これは明らかに自然からの衣食住(有形財としてのモノ)の獲得を想定しているし、当時の唯物論の水準がベースにあると思います。
またこの規定を元にして、個々の商品に転化される労働時間の計算などによって労働価値説に一般的に展開し、マルクス経済学の体系を作り上げたと思います。

一方マルクス以後の物質観、自然観の発達を見ると、当時のマルクスの本源的規定にはモノへの偏りがあったと言えるのではないかと思えます。

*ウイーナーの「自然は物質・エネルギーと情報という2元的要素によって構成されている、物質・エネルギーが存在すればその存在パターン<時間空間的質的量的配置>である情報が必ず存在し、情報が存在すればそのパターンを担う物質・エネルギーが必ず存在する」

*吉田民人の「全自然の根源的な構成要素である物質およびエネルギーに付 加して非記号情報および記号情報なる構成要素を導入する。人類の概念史という観点からすれば、 物質およびエネルギーがアリストテレス哲学の<質料>範疇の科学化であるのに対して、非記号情報およ び記号情報はアリストテレス哲学の<形相>範疇の科学化である。<質料と形相>範疇の科学化が<物質と 情報>範疇の科学哲学的・科学論的確立として完結するのである。非記号情報は物質=エネルギーと同じく全自然を貫徹する構成要素であり、物質=エネルギー の時間的・空間的、定性的・定量的な差異/パタンと定義される。非記号情報すなわち差異/パタン は物質の属性や特性や特徴や特質や特色や性格や性質等々として、旧科学論の<物質>範疇に、それと気づ かれず、またそれと指摘されることなく、包摂されていた基礎範疇である。すなわち、物質のあるところ、 かならずそれに負荷される差異/パタンがあり、差異/パタンのあるところ、かならずそれを負荷される物 質がある。両者は一体である。アリストテレス的に表現すれば、旧科学論の物質範疇は<質料としての物質 とその形相としての差異/パタン(非記号情報)との不可分の統一体>すなわちアリストテレス哲学のシュ ノロン(質料=形相結合体)と理解されていたことになる」

*アリストテレスやプラトンは2300年前にすでに本源的要素として質料と形相を考えていたけれど、マルクスの時代には形相を独立した生産対象として考えることはできなかった、それには20Cのコンピュータの発達を待たねばならなかった。

マルクスの本源的規定は自然素材に対する働きかけだけを生産的労働としているのです。
自然の中に人間もあるので、自然素材の中に情報もあるのだと解釈することも可能かもしれませんが、それでは情報商品の価値量の算出や市場での振る舞いといった具体的な説明で困難を来します。マルクスの頭には人間の外に実在しうる価値を担う存在としての非物質財(情報)はなかったと思います。それは当然で、芸術や科学もスポンサー貴族によって支えられていて、今日で言えばソフトウエア商品として存在などしていなかったので。そこで生産されたモノのみを分析対象として(モノ以外の使用価値は人間労働によって産み出されていても分析対象から外していた)労働価値説を組み立てた。モノには情報も含まれていたけれど、情報だけを独立した生産対象とすることはなかった。

本源的規定を見直しして情報の生産に関わる労働も生産労働と扱うべきというのが私の主張です。
あるいはここに関してはマルクスに準拠することを止めればそれでもいいのですが、、。
高原さんはモノとサービスの差が大きくなってきているから別に論じるべきかもと言っていますから、それでもいいと思います。

不破さんはじめ多くのマルクス学派はマルクスの本源的規定をそのまま受け止めて、
本源的規定⇒モノの生産以外の知的活動を生産的労働と見なせない⇒情報の生産も生産労働とすれば済んだのに、本源的規定が邪魔をしていた⇒モノの生産以外の知的活動を生産労働と見なせない、つまり労働と見なせないで来ていて、迷いがあった⇒労働以外の知的活動も重視すべき、との言い方になっていた⇒高原さんが指摘する「不破さんらは労働の知的要素を軽視、無視している」の批判に会っている。
となっている。

不破さんらマルクス派が労働を軽視しているのではなく、労働の中からモノに結実しない労働を除外していたからで、そこを加味すれば高原さんと不破さんの主張に大差はないです。

長くなったので高原さんの労働1,2,3は次から考えたいと思います。




155:労働と生産労働 by 高原利生 on 2013/12/16 at 17:40:49 (コメント編集)

労働と生産労働 高原利生
153:高原さんの御質問 by 植田 与志雄 on 2013/12/15について
 ありがとうございました。
 挙げられた二か所はいずれも資本論第一巻ですね。第一巻だけは持っているのです。国民文庫の4分冊で。資本論第一巻は読んでいるはずなのに、第1章「商品」と第13章 「機械と大工業」以外はあまり注意していなかった。
 
 マルクスは、第一部第三篇第5章「労働過程」で、
 「労働過程はまず第一にどんな特定の社会形態にもかかわりなく考察されなければならない」と書いています。
 その後、労働は、
 自分―労働―自然、として自分と自然を媒介する「運動」であること。
 自然を変化させることが目的であり「その生産物はある使用価値」であること。
 自分と自然の双方が変化する双方向行為であること。
 「腕や脚、頭や手を動かす」として、肉体と精神を使う二面があること。
 「労働そのものは生産的労働」であること。
 「消費過程」でもあること。
を述べています。

 「どんな特定の社会形態にもかかわりなく考察されなければならない」労働の本質としてはこれで正しいのではないでしょうか。これだけでも随分、意味のあることが言われていると思いました。「労働そのものは生産的労働」であることが、本質としては正しいと思います。

 植田さんとの意見の違いの問題は、自然というものについての生産的労働でない労働、つまり、自然というものが生産物でない場合のいわゆる「非生産労働」の場合をどう扱うかですね。ここで、生産的労働を生産労働と言うことにします。
 生産労働に肉体と精神を使う二面があるので、精神の面が独立する精神労働、例えば、自然というものに働きかける機械の設計は、当然、生産労働です。この問題が発展する問題は置いておくことにします。

 「物質的財を生み出さない労働は一般的にサービス労働とされ不生産労働とされてきた」?「これがマルクス経済学の中での「サービスは価値を生むか否か」の論争となっている。」のですか?サービスは現に使用価値を生んでいて、賃金が払われている。ものが製品、生産物であれ、サービスが製品、生産物であれ、マルクスが資本論で書いた物語は、同じように適用されます。疎外や、労働者の「全体を見通す能力を増す」二面をマルクスが述べたことも同じように適用される筈です。
 「生産的労働という概念があるということは不生産的労働もあるということになる。
 生産的労働の本源的規定が上記のマルクス定義で与えられているとすれば、上記以外が不生産的労働となることになる。ここから物質的財を生み出さない労働は一般的にサービス労働とされ不生産労働とされてきた。サービスとは役立ちはするが不生産労働ということである。」
というのは、両者の差は、現在大きくなっており、別に論じる必要が大きくなってきているだけだと思います。

 マルクスは150年前の人なのに、労働は本質的に生産労働だと見抜いていた、生産労働は、特に食についての生産が基本だと、経済学哲学手稿で述べています。食が、人の生命を維持する唯一のものだから。唯一ではないですね。空気も食べる場所も必要ですね。
 経済学哲学手稿のAMAZON書評で述べたことですが、彼は、「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術,等々は生産の特殊な諸様式にすぎないのであって,生産の一般的法則のもとに従う。」(経済学哲学手稿,国民文庫、p.147)と述べています。制度、科学,芸術は、生産の特殊な諸様式で生産から派生したものだというのです。彼は、生産の一般的法則を課題にしただけで答えを言わなかった。これは、制度、科学,芸術を軽視するものではありません。もしそうなら、これらの関係を把握することが、制度、科学,芸術の理解につながる。彼を解釈する人が、彼が課題にしたことに無関心であることは不思議です。
 それが、ドイツイデオロギーでしつこく、マルクス、エンゲルスが述べた、「唯物論」を歴史に適用する出発点だった。

 不破氏や多くの「マルクス主義者」が、労働の知的要素を軽視、無視して論じる。このことと、表現上、マルクスも労働を生産労働と扱っている。これらにより、植田さんは、知的な非生産労働が別にあると考えたのでしょうか。始めて分かりました。(この推理が正しければですが)
 食のための始めの生産労働、一般化された文字通りの生産労働、労働、と次第に一般化されてきたけど、本質的には、労働は生産労働、というマルクスは違っていない、というのが僕の結論です。ただし、文字通りの生産労働と分けて労働ということも今後もあると思います。今までもありました。
 
 さて、先に、置いておくことにした問題は、残っています。これは今までの問題とは別の問題です。
 労働は、自分―労働―自然、として自分と自然を媒介する「運動」であったが、
1. 自分―「運動」―制度、として自分と制度を媒介する「運動」は労働か?例えば、政治行動は労働か?
2. 始めての物々交換(物々交換は制度です)を作る「運動」は労働か?マルクスは、始めての物々交換(物々交換は制度です)を作る「運動」を、矛盾とも運動とも扱わなかった。
3. 自分―「運動」―自分、の「運動」は労働か?ゲームをすることは労働ではないように見える。でもゲーム機を作るのは労働か?
まだ問題は網羅されていません。コメント152で書いた分析が進みません。

153:高原さんの御質問 by 植田 与志雄 on 2013/12/15 at 23:09:33 (コメント編集)

高原さんの御質問
<聞きそびれていたので今訊きます。「モノに結実する労働だけを本源的労働とする労働観でこれはマルクス自身が提起している労働の定義です。」というのどこで言っていることですか?出典と正確な引用を教えて下さい>
について。
間違えていました、本源的労働ではなく「生産労働の本源的規定」でした。

生産的労働について人間と自然とのあいだの過程として抽象的に考察されている。
私が読んだのは資本論です。
第一部第三篇第5章「労働過程」から

【労働過程はまず第一にどんな特定の社会形態にもかかわりなく考察されなければならない。労働はまず第一に人間と自然との間の一過程である。。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御する。人間は自然素材に対して彼自身一つの自然力として相対する。彼は自然素材を、彼自身の生活のために利用されうる形態で獲得するために、彼の肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭や手を動かす。人間はその運動によって自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然(天性)を変化させる。、、、、労働者は自然的なものの形態変化を引き起こすだけではない。彼は自然的なもののうちに、同時に彼の目的を実現するのである。、、、その生産物はある使用価値であり、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材である。、、、この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現れ、労働そのものは生産的労働として現れる。、、、、、、労働はその素材的諸要素を、その対象と手段とを消費し、それらを食い尽くすのであり、したがってそれは消費過程である。、、、、、労働は生産物をつくるために生産物を消費する。、、、、一方の側にある人間とその労働、他方の側にある自然とその素材、それだけで十分だった。】

第1部5編14章「絶対的および相対的剰余価値」の中で上記労働過程を指して本源的規定としている。

【、、、前に述べた生産的労働の本源的規定は、物質的生産の性質そのものから導き出されたものである。】

以下は植田
生産的労働の本源的規定とは、労働過程の成果の立場から与えられる規定であって、「物質的財貨(使用価値)を生産する労働」を生産的労働とする規定で、すべての社会形態に等しく共通した一般的規定で、人間と自然とのあいだの質料変換の一般的条件である合目的的な人間労働を意味している。(金子ハルオ著「サービス論研究」1998で詳しく論じられている・・・植田は同意しているわけではないですが)
生産的労働という概念があるということは不生産的労働もあるということになる。
生産的労働の本源的規定が上記のマルクス定義で与えられているとすれば、上記以外が不生産的労働となることになる。ここから物質的財を生み出さない労働は一般的にサービス労働とされ不生産労働とされてきた。サービスとは役立ちはするが不生産労働ということである。これがマルクス経済学の中での「サービスは価値を生むか否か」の論争となっている。私がマルクスの生産、労働に関して「モノに結実する労働だけを本源的労働としている」というのは上記のことを言っています。

152:2013.11末から今までのコメントの整理 by 高原利生 on 2013/12/14 at 18:08:11 (コメント編集)

2013.11末から今までのコメントの整理をします。 高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment

 植田さんとの議論の内容に関するものだったので、不破哲三氏の古典教室座談会二回目2013.11,22の
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-22/2013112208_01_0.html
での労働と「自由の国」についての批判を次の三つで書きました。不破氏の今回の発言に対して三回に分けて批判を書いたことになります。

 高原のコメント139(「エジプト、シリア、イラン」政治 - 2013年10月06日 (日)のコメント旧131を転載)、
 高原のコメント140(同、旧132を転載)
 高原のコメント133
 石崎氏の「労働(高原氏のコメントから)メッセージ 」- 2013年11月28日 (木)は、このコメント139(131)、140(132)についてのメッセージでした。

 植田さんのコメント134は、これら高原のコメントに対するコメントで、三つの労働観をまとめています。
 植田さんのコメント141(「エジプト、シリア、イラン」政治 - 2013年10月06日 (日)のコメント旧137を転載)のこれら高原のコメントに対するコメントです。

 高原のコメント144(旧142)
 高原のコメント143
 高原のコメント145
の三つは、この植田さんのコメント141に対するコメントです。考えた結果を書くと長くなってしまう。考える経過を書けばいいのでしょうか。どうもブログの作法が分かっておらず御迷惑をかけています。

 植田さんのコメント141の中に、
 植田氏「、もっともっと現代資本主義の肯定面、進んでいる面を研究しなくてはならないのですが、そうはなっていない。「利益第一主義」と否定面だけしか抽出できていない、、」
という発言があります。植田さんと僕とは、現代資本主義のダメな面と、肯定面、進んでいる面という同じ現象を見ています。
 不破氏と僕は、1. 従来の、資本主義の矛盾、問題は、生産の社会的属性と取得の私的属性の矛盾、生産力と生産関係の矛盾、2. 資本主義の矛盾の推進力である「利益第一主義」、の二つがあるという点で共通します。物事の運動は、全て矛盾と見るのが、僕です。(従来の「マルクス主義者」も言葉だけそう言うが、そうなっていなかったと思っています。)矛盾を考える際に、矛盾そのものと、矛盾という運動を動かす推進力の両方を考えないといけないということを、今回の不破氏のぎこちない発言から知りました。

 植田さんが、「利益第一主義」の否定面だけしか見ないと、「現代資本主義のダメな面と、肯定面、進んでいる面」の両面あることをうまく説明できないと思います。
 コメント133で述べたように、
 「利潤第一主義」は、競合製品(これは、ものとサーヴィスの両方あります)に勝つため「良い」製品を「安く」作る努力を駆り立てる仕組みを含みます。この仕組みには、「良い」製品を「安く」作ることが良いことだと、研究者、設計者を含む労働者を思い込ませる仕組みと、買う大衆に当製品を買うことが「良い」と思い込ませる仕組みも含みます。そして、この「良い」ことのなかに実際に良いもの、ことが含まれている。
 つまり、「利益第一主義」に両面があるのです。これは、全ての労働に両面があることを意味しています。飛躍すると、労働が全てということです。
 しかし、不破氏は、おそらく自分が生産労働をしたことがないこともあって、それに共産党中央の勤務者も、おそらく殆ど似たり寄ったりなので、労働のプラス面を実感できない。マルクスの言っていることの解釈を政策にするのはやめてもらわないと困ります。綱領、26回大会決議案、今回の座談会、と進むに従って、この労働軽視が次第にはっきりして来るのがピンチですね。

 労働の内容が進みません。労働の粒度と網羅がうまくできません。
a. 生活(1. 生産労働、2. 生産労働以外の労働、3. 消費、4. これ以外の労働でない科学活動?芸術活動?5. 家族生活、町内会の世話役等の社会生活、6. じっと空を見るとか、海を見る、山を見る、人が働いているのを見る、これ以外の生活?)、その理想と現在。
b. 賃労働と賃労働でない労働の意味?その理想と現在。
c. 農業、狩猟、漁業の直接ものに対する活動が、今のように次第に間接的になり、情報化、ソフト化と分業が進む分析と意味?その理想と現在。(植田さんの自由3、高原のコメント145の問題点?)

150:「149:言い訳的反省 by 植田 与志雄 on 2013/12/12」について by 高原利生 on 2013/12/12 at 14:53:16 (コメント編集)

「149:言い訳的反省 by 植田 与志雄 on 2013/12/12」について
 ありがとうございました。
 「断定的な言い方は、グサッと本質をえぐるつもりで私自身もよく使うのですが、聞く方は議論の先を閉ざされた感じがします。」という言い方は失礼しました。気を付けます。ただ、植田さんの発言に対してそういう言い方をしたことはなく、今回も不破氏の発言内容に対するものです、と弁解。
 「不破さんは今までの自分も含めた常識的部分は認めた上でここに留まらず、この先に変化しようとしていると私には見えるのです。」という部分があることは僕も気づきました。ただし、それは、労働についてでなく、生産力と生産手段の矛盾が全部を解決するのでなく、利潤第一主義に代わる推進力が必要だという点です。

 僕も「この変化を買いたいのです」「挑戦を買いたい」。しかし「たとえ不十分や誤りがあってものです」というのは、まあどちらでもいいのかもしれません。間違いがあればもちろん指摘しなければいけませんが、兆戦は評価します。

 「私が高原さんと少し違うのは、労働に関して高原さんはマルクスは正しかったがマルクス学派の学者や党が間違えていたというところです。」という点について少し。
 マルクスは、彼の言っていることは、もちろん全てを読んでいるわけではありませんが、ほとんど間違ったことを言っていないと思います。僕が批判した彼の弁証法、矛盾についても、彼の言っている正しい「1」に対して、アルトシュラーがそのまま「95」に拡張した。僕が残りの「5」を付け加えて、全ての行動を含むように拡張しただけです。数少ないミスは「分業は悪」という意味のこと言ったこと位ですが、これも気持ちは分かる、ちょっと言い過ぎた間違いですね。

 僕の、出来の悪いホームページの「本の読み方、特にマルクス、エンゲルスを解釈する読み方」で言ったことですが、マルクスを読み、解釈する読み方そのものが良くない、是非改めるべきだと強調したいです。不破氏が最たるものですが。
 何しろ江戸時代の人なのです。それにもかかわらず、労働についても、大工業下の資本主義で、疎外は最高潮に達する一方で、労働者の全体を見通す能力が増すと言っている。後者は精神労働を含みます。精神労働については、足らなかったのは確かで、芝田進午がそれを指摘し何冊か書きました。何十年かまえです。要するに、150年間のマルクスを読む態度、姿勢が間違っていないかということです。

 聞きそびれていたので今訊きます。「モノに結実する労働だけを本源的労働とする労働観でこれはマルクス自身が提起している労働の定義です。」というのどこで言っていることですか?出典と正確な引用を教えて下さい。それと、この「モノに結実する労働だけを本源的労働とする」というのは、これはこれで違っていないように思います。これが発展し間接的になっていって、精神労働、知的労働が生じるわけだから。

 労働について間違えると、人間をとらえるのを間違えてしまい、(反原発とともに)致命傷になる気がします。今回の不破氏、共産党の決議案には危機感を感じました。
 なるべく具体的に議論したいです。しかしもう労働から10年以上離れているので、実感はなくなりました。他の関係することにも触れると思います。よろしく。

149:言い訳的反省 by 植田 与志雄 on 2013/12/12 at 13:00:13 (コメント編集)

不破さんの評価ではなく、不破さんのあの赤旗鼎談記事での発言についてだけNOと言っている、と高原さんは言っていました。
これに対して私がいつまでも、不破さんはそれほど大きく間違えてはいません、とこの記事以外での不破さんの発言を含めて高原さんに反発して肯定的な評価を与えているので話がかみ合わなかった、ことに気づきました。ゴメンナサイ。
不破さんに対する評価が目的ではないので、これを措いて労働について意見交換しましょう。

その前になぜ私が高原さんに反発したかについてちょっとだけ書きます。高原さんの「不破説は、、、、労働の位置が、信じられないほど根本的に間違えている」や「一般論で時間短縮を言うのは正しいのです。、、正しかったが一面だけなのです。一面が正しいことを全部だというのは100%間違いなのです」などの言い方に反発を感じて半ば感情的に「それはないんじゃない」と言い返していたのです。根本的に間違え、100%間違えなどの断定的な言い方は、グサッと本質をえぐるつもりで私自身もよく使うのですが、聞く方は議論の先を閉ざされた感じがします。

高原さんは不破説が、偏っている、重要な半面を無視している、と指摘し批判していると思います。
不破さん擁護になってしまいますがこう思うのです。
不破さんが無視していると思われる部分は伝統的マルクス主義派のなかではいわば常識的な労働観、「労働こそが人間を作り歴史を発展させてきた、労働の中身がどうこうや喜びがあろうがなかろうが」と思います。
不破さんは今までの自分も含めた常識的部分は認めた上でここに留まらず、この先に変化しようとしていると私には見えるのです。赤旗記事の鼎談では変化したところだけに言及しているので、変化以前の内容は否定はしていないけれど、そこは無視しているように見えていると思うのです。変化面は自分(不破さん)が今まで無視していた面ですから、そこの強調が鼎談での発言になっていると思います。私はこの変化を買いたいのです。たとえ不十分や誤りがあっても挑戦を買いたいのです。これが不破さん擁護の気持ちになっているのです。学者としてならともかく、前衛党の実質的理論責任者、指導者としてはマズことは高原さんの指摘通りですが。

ここからは不破さんから離れます。
「生産労働と社会の知的分野の活動を対比して考えるのが、不破氏、共産党系学者の大間違いです」
これはその通りですね。でも今ではこれ一色ではないとは思いますが、、、。
コメント147
「不破さんの労働観はまだ生産労働を汗水流して働くいわゆる3K的に捉えている。ここはマルクスの史的唯物論をベースにした生産観、労働観・・・生産とは自然と人間との物質代謝でこれに係る労働が本源的労働、生産的労働でこれ以外は有用であっても不生産的労働と捉える・・・から来ていて、不破さんまだこれに縛られている。生産労働と知的活動を分けて論じているのもこれを示している」
もこのことを言っています。
私が高原さんと少し違うのは、労働に関して高原さんはマルクスは正しかったがマルクス学派の学者や党が間違えていたというところです。
私はそうは思っていません。率直にいってマルクスの言う本源的労働(生産的労働)と不生産的労働の概念は多くの人を戸惑わせてきていたマルクスの考え不足だったと思います。モノに結実する労働だけを本源的労働とする労働観でこれはマルクス自身が提起している労働の定義です。労働が人間に対して果たしてきた役割、大きな把握ではマルクスは正しかったでしょうが、具体的な労働に関しては、生産的労働と不生産的労働に区別して、前者が汗水ながす労働、後者が今で言えば知的文化的活動に当たり、後者を価値を形成する労働とは捉えていなかった。この影響が今日まで及んで、まだスッキりした決着がついていないサービス労働論争に至っています。

でもマルクスに準拠した議論でなくても
現代の労働について具体的に意見交流するのがいいですね、
石崎さんの「具体的な場」も含めて。

148:「147:高原さんの不破批判について by 植田与志雄 on 2013/12/09」について 高原利生 by 高原利生 on 2013/12/11 at 07:06:39 (コメント編集)

「147:高原さんの不破批判について by 植田与志雄 on 2013/12/09」について 高原利生
(句読点他修正、抜け字再生、最後の文削除しました。失礼しました、20時。一段落削除しました、20時20分)
 植田さん、ありがとうございました。多分、僕のは、標準的なブログの対話のマナーと大きく外れているのでしょう。今までを読み返して、僕のは一方的で、ほとんど対話になっていませんね。それにもかからわず、対応して頂いている植田さん、石崎さんに改めて感謝します。

 僕は、今扱っている、第二回古典講座の座談会で言われている不破氏の発言内容を批判しているだけです。不破氏の他のものをそれほど読んでいない、特にこの数十年、全然読んでないので、指摘をされるとありがたいです。一般的な不破批判ではありません。
 ただし、不破氏は、マルクス、エンゲルス解釈家としては世界の超一流ですが、政党を率いるべき理論家としては一流ではない、とどこかに書いたかもしれません。それに、マルクスの解釈によって、共産党綱領を、こう変えたととれる発言もありました。(それのどこが悪いかと言われば、答えに窮するのですが)このマルクス、エンゲルスへの態度は違う。この二点は、今回の座談会の内容を超える一般論での意見です。
 植田さんの言われるように「とりあえずは議論を労働に集中」しましょう。

 植田さんの「ある種の労働は少ない方がいいでしょうし、ある種の労働は労働というより楽しくもあり誇らしくもあり少ない方がいいとは言えないでしょう。つまり労働の中身によると思います。」
と、「コメント134「労働は必要だが」です。簡単に言えば労働は人間を完成させてゆく、労働それ自体に喜びを内在させている、これが高原さんの労働観の底にあると感じます。これは労働一般に不動の王座を与えるもので、私はここに疑問があります。」
について。
 「労働は人間を完成させてゆく、労働それ自体に喜びを内在させている、これが高原さんの労働観の底にある」というのは違います。僕の意見では、労働の中身がどうであれ、喜びがあろうがなかろうが、長かろうが短かろうが、労働が人間を作り歴史を発展させてきた。これは石崎さんと同じだと思います。
 そしてこれはマルクスも同じです。マルクスの読み方が違うだけです。彼は、資本論で、(正確な表現ではないですが)労働の大工業化が、労働の疎外(疎外という表現を資本論ではおそらく使っていませんが)を極限まで大きくし、その一方で同時に労働者の全体の能力を発展させるという二面を書いています。
 だから植田さんの「社会が必要とする生産労働、人類をつくってきた労働一般、これらの客観的重要性は認めるけれど、生きている人間個々人から主観的に見た労働はどうなのだろうか?
*不破さんはここに疑問を持って労働時間短縮を言っていると思います。」
というのは、両面の重要性を見るのは正しい、片方しか見ていない解は違っている、と僕は言っているのです。
 つまり、片方しか見ないで、労働時間短縮だけを言うのは、明らかに間違いなのです。マルクスは、客観的面と主観的な面(これは粒度です)の両面から見た答えを150年前に出している。一般論で労働時間短縮を言うのは正しいのです。そして労働時間短縮を規定する法を守ることも大事なのです。そして、労働時間短縮を含む労働条件改善の努力が社会を発展させてきたというのは事実で、努力は正しかった。正しかったが一面だけなのです。一面が正しいことを全部だというのは100%間違いなのです。
 だから、不破氏が、
「「社会主義の目標は人間の全面的発達が社会の大目標になること」とした上で「社会の分配を正して貧困が無くなることも重要だが、それと同時に重要なことは、すべての人間が生産労働と同時に、社会の知的分野の活動にも参加し、自分の持っている人間的能力を自由に発達させる機会と条件に恵まれるようになることです」。(2004新・日本共産党綱領を読む/不破哲三)」
というのは(初めて目にしましたが)大きく違っているのです。これが今回の不破氏の座談会の不破氏の間違いの根源にあったと気づきます。
 「「社会主義の目標は人間の全面的発達が社会の大目標になること」というのは、目標としては、半分です。マルクス自身もそうですが、主観と客観それぞれの理想があり、それの統一が理想ということなのでしょうが、簡潔にいうのは難しいですね。
「社会の分配を正して貧困が無くなることも重要だが、それと同時に重要なことは、すべての人間が生産労働と同時に、社会の知的分野の活動にも参加し、自分の持っている人間的能力を自由に発達させる機会と条件に恵まれるようになることです」というのは全くおかしい。生産労働と社会の知的分野の活動を対比して考えるのが、不破氏、共産党系学者の大間違いです。生産労働に社会の知的分野の活動の根源がある。マルクスはそう言っていたと思います。

 「分配の公正といった物質的課題をこれ自体を最終目標とせずに人間の発達の条件の一部に含めて、人間の能力の発達を精神的自由にまで広げて捉えている、これは今までの伝統的マルクスから一歩出るもので、不破さんの中心テーマとなっていると思われる。」
は、そう思いません。
 だから植田さんが「今までの労働観を乗り越えていこうとする姿勢で不破さんと一致点があるように感じている」
と言われるのは全く分かりません。

 労働には、生産労働でない労働もあり、その内容を整理する必要があります。不破氏のやっていた鉄鋼労連書記局での仕事も労働、今の党での仕事も労働ですが、生産労働ではありませんね。
 植田さんの「労働は客観的にはモノの物質的面(質料)と非物質的面(形相)の両面をつくる活動と思っています。モノに結実しない労働と見られていた活動も実は形相をつくる活動で立派な労働で、不破さんが労働から切り離して捉えていた知的活動の多くはこれだった」ということはあっていることと違っていることの両方がある。これへの反論は、労働の内容を整理しないとできない。これは今までずっと後回しにしてきました。コメント145などで少し整理しかかりました。

147:高原さんの不破批判について by 植田与志雄 on 2013/12/09 at 09:19:02 (コメント編集)

高原さんの主張は所有から見た資本主義の推進力の所在の問題、不破さんの労働観に対する批判、など多面的で、どれも奥深くて長い議論を要すると思います。
不破さんに対する高原さんの批判は労働をどう見るかからはじまっているようなので、とりあえずは議論を労働に集中しませんか。
労働に関しては、私はこうです。
*不破さんがそれほど大きく間違っているとは思えません。
*これの裏返しですが、高原さんの労働観にも賛成できないところがあります。

高原さんの不破批判は
「社会が必要とする生産労働を皆で分担して労働時間は少なくなり生活時間が増える、この自由な時間をマルクスは自由の国と呼んだ、という不破説は人間の発達における労働の決定的役割を無視するもの、労働軽視というより無視、ここには全面的に反対。自由の国における労働の位置が、信じられないほど根本的に間違えている」ですよね。
自由の国かどうかは措いて、労働時間が少ない方がいいのか多い方がいいのかではどうでしょうか。ある種の労働は少ない方がいいでしょうし、ある種の労働は労働というより楽しくもあり誇らしくもあり少ない方がいいとは言えないでしょう。つまり労働の中身によると思います。

私の労働観は具体的にはコメント134「労働は必要だが」です。
簡単に言えば労働は人間を完成させてゆく、労働それ自体に喜びを内在させている、これが高原さんの労働観の底にあると感じます。これは労働一般に不動の王座を与えるもので、私はここに疑問があります。
労働は多面的で、客観的な役割とは別に労働主体としての人間の個から見た意味も十分に検討されねばならないだろう、そしてそこはサヨクの間では今までは少し軽視されてきていたのではないか。自分も含めて。

私は不破発言をこう見ています。
*社会が必要とする生産労働、人類をつくってきた労働一般、これらの客観的重要性は認めるけれど、生きている人間個々人から主観的に見た労働はどうなのだろうか?
*不破さんはここに疑問を持って労働時間短縮を言っていると思います。
*不破さんは別なところでこんなことも言っています「社会主義の目標は人間の全面的発達が社会の大目標になること」とした上で「社会の分配を正して貧困が無くなることも重要だが、それと同時に重要なことは、すべての人間が生産労働と同時に、社会の知的分野の活動にも参加し、自分の持っている人間的能力を自由に発達させる機会と条件に恵まれるようになることです」。(2004新・日本共産党綱領を読む/不破哲三)
*つまり分配の公正といった物質的課題をこれ自体を最終目標とせずに人間の発達の条件の一部に含めて、人間の能力の発達を精神的自由にまで広げて捉えている、これは今までの伝統的マルクスから一歩出るもので、不破さんの中心テーマとなっていると思われる。
*しかしまだ不破さんの頭の中ではこのことは十分に煮詰まってはいない。これが最近の対談にも顔を出していて、あちこちから批判を受けている
*不破さんの労働観はまだ生産労働を汗水流して働くいわゆる3K的に捉えている。ここはマルクスの史的唯物論をベースにした生産観、労働観・・・生産とは自然と人間との物質代謝でこれに係る労働が本源的労働、生産的労働でこれ以外は有用であっても不生産的労働と捉える・・・から来ていて、不破さんまだこれに縛られている。生産労働と知的活動を分けて論じているのもこれを示している。
*私は労働は客観的にはモノの物質的面(質料)と非物質的面(形相)の両面をつくる活動と思っています。モノに結実しない労働と見られていた活動も実は形相をつくる活動で立派な労働で、不破さんが労働から切り離して捉えていた知的活動の多くはこれだった。コメント96「非物質的財の生産について」で少し述べました。客観的に見た労働に関しても不破さんとは違いがありますが、この違いはそのうち解決すると思っていますので問題視していません。むしろ今までの労働観を乗り越えていこうとする姿勢で不破さんと一致点があるように感じているのです。

以上

145:社会、経済という制度と情報化 高原利生 by 高原利生 on 2013/12/08 at 09:26:21 (コメント編集)

社会、経済という制度と情報化 高原利生
「141、旧137:高原さんの意見を読んで by 植田与志雄 on 2013/12/02 」について その3です。
(142が消えてくれません)
 以下、「、、、」内が植田さん,不破氏の引用、<、、、>が植田さんの高原引用です。
 『古典教室』第2巻を語る 『空想から科学へ』――科学的社会主義の入門書」という赤旗の座談会(2013年11月22日)http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-22/2013112208_01_0.html
についての議論の続きです。

1. 経済と社会

 植田さんの「<経済発展を求めるのをやめ、社会発展というもっと大きな目標を求める方向に切り替える>
そう思います。(中略)社会は経済より広い、経済を社会の一構成要素として社会の中に正しい位置づけで取り込む、これが社会主義の目標」「経済の無政府性をやめて人間の意思の制御下に、計画経済という言い方はこれを性急に表現してしまっていたのではないでしょうか。」
について。
 まず念の為に言っておくと、コメント140、旧132のここの部分で僕が言ったのは、
『古典教室』第2巻を語る 『空想から科学へ』――科学的社会主義の入門書」という赤旗の座談会(2013年11月22日)http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-22/2013112208_01_0.html
での不破哲三氏の発言:
「資本主義社会では、利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、「自由の国」での「人間の能力の発達」が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう。」
の意味があいまいなので、その推測でした。僕の意見を言ったのではありません。

 植田さんの意見について述べます。
 第一に、社会とか経済とかは何か?という問題と、第二に、それを変える際の、計画経済=?生産手段の社会的管理?の問題点、の二つがあると思います。
 ここで、はっきりしていない第一の整理をします。第二は前のコメントで述べました。
 「社会は経済より広い。」社会は、人と人のつながりの全部ですね。何によってつながっているかというと、共同観念です。つまり複数の人が同一観念を共有する。複数の人が、目的、手段、方法、それらの基礎となる概念を共有することによって、これらがなかった時に比べて、画期的に効率の良い、世界への働きかけができるようになります。
 この効率化は、二段階あります。第一段階は、共同観念を作り上げる段階です。一人一人が、目的、手段、方法、基礎概念を作り上げるのに比べて、圧倒的に少数の少しの力で済むことになります。第二段階は、共同観念を利用する段階です。この段階で、複数の人間が同時に、同じ目的、手段、方法、基礎概念を利用して、世界への働きかけの強力化、効率化が得られます。僕は、この共同観念、共同観念を作る過程、共同観念を利用する過程の全体を制度と呼ぶことにしています。

 この共同観念は、各人が常に見直しを行わないといけない、という大きな課題がありますが、ここでは置いておきます。制度と同じ粒度で技術があり、制度と技術が、人と外の世界を間接化、媒介化する全てです。これもここでは置いておきます。(上の「制度」の説明で、「共同観念」を、道具から始まる「技術手段」に代えると「技術」になります)

 制度の最も大きなものが社会で、経済はその一部です。制度の網羅的分類はまだできていません。

2. 経済発展と情報化

 植田さんの「<「発展」は、今後、必ずしも量的な「発展」ではないかもしれない>
ここが今後の研究課題と思います、、、。私はこれの一つが生産の先端部分での物質財から非物質財への移行ではないかと提起しているつもり。 」
について。
 植田さんは、「非物質財への移行」という情報化が、コストゼロでの、サーヴィスを含む製品取得を目指すことを前に述べられました。

 まず少し整理をします。
 先に、制度とは、共同観念、共同観念を作る過程、共同観念を利用する過程の全体、と言いました。
 共同観念は情報です。この共同観念を作り利用することによって、ある情報革命が起こったと考えます。言語の発明、普及が、第一次制度革命=第一次情報革命です。200万年前くらいのことでしょうか。
 これに続いて、意図的に共同観念を作ったのは、前のコメント(142)144で述べた6000年ほど前の平和的な物々交換で、これが第二次制度革命=第二次情報革命を起こします。この物々交換の発明と普及は、それ以前の強奪による闘いでの死者の減少、容易に異種の食料が得られることによる栄養状態の改善、集団の拡大を得ます。物々交換に成功した集団は繁栄を得、成功しなかった集団は没落して行きます。これは、まさに革命的変化を人類にもたらします。しかし、この制度革命、情報革命は、製品を得るコストを、直接、軽減したわけではない。できなかった物々交換をできるようにしただけで得る製品の量が増えたのです。
 物々交換が開始された後の経済制度の大筋は、資本論のとおりです。分業の進展による技能の習得と機械化によって製品を作るコスト、得るコストの軽減が進んでいきます。

 一方、第二次制度革命=第二次情報革命の後の情報革命は、紙と印刷技術による第三次情報革命、電話電信による第四次情報革命、論理数学とコンピュータとプログラムの第五次情報革命、今のコンピュータの分散化、パーソナル化とインタネットによる第六次情報革命に続いていきます。

 情報革命というと技術の革命と思いがちですが、第一次と第二次の情報革命は純粋に制度の革命でした。言語も制度です。第一次制度革命=第一次情報革命、第二次制度革命=第二次情報革命でした。
 第一次、第二次情報革命より前に、道具の発明による第一次「もの」革命があったと考えます。これは純粋の技術革命でした。最近の「もの」革命と第四次以降の情報革命は、資本主義が推進しました。

 これらによって、
1. 知覚、指示の、ネットワークによる場所拡大と時間短縮、その機械化による計測、操作行動、2. 記憶の、機械化による獲得知識の蓄積、再生、3. 思考の、コンピュータによる機械化、
a. 計測、操作、記憶、思考、操作行動のロボットによる機械化、b. 機械に対する操作の制度化
が進んでいきます。

 以上から問題が分かってきます。第一は、これら自動化、機械化による時間、空間の克服、コスト低減の極限は何か?
 問題の第二は、これらと所有との関係はどうなるのか? 問題の第三は、社会主義と資本主義で違うところがあるか?利益第一主義で得られる機械化と人間の能力拡大と対象のための機械化の差、両者の機能の差、構造の差は何か? 答えは僕にはまだありません。技術者の課題でしょう。
 植田さん、すみません。三回を通じて、一方的な独断ばかりになってしまいました。

144:発展の推進力に関する「自由の国」の中の労働と「所有」の止揚について その1 高原利生 by 高原利生 on 2013/12/08 at 08:41:54 (コメント編集)

発展の推進力に関する「自由の国」の中の労働と「所有」の止揚について その1 高原利生
「141、旧137:高原さんの意見を読んで by 植田与志雄 on 2013/12/02 」について その1です。

 石崎さん、勝手にコメント転載をし、植田さんにも、そうしてもらいました。すみません。
 植田さん、転載ありがとうございました。お手数おかけしました。なかなかまとまらず時間がかかりました。長くなったので、三回に分けます。
 以下、「、、、」内が植田さん,不破氏、高原の引用、<、、、>が植田さんの高原引用です。
『古典教室』第2巻を語る 『空想から科学へ』――科学的社会主義の入門書」という赤旗の座談会(2013年11月22日)http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-22/2013112208_01_0.html
についての議論の続きです。

 左翼、マルクス主義の低迷を根本的に脱するために必要なことは、
 第一に、右翼や「良識派」にない、本来のマルクス主義の目的、理念とそれを実現する道を具体的に示すこと(かつ行動は現実的に行うこと)。
 第二に、マルクス主義の本来持っている、現実に向かう態度、自分と対象を変える方法を自らの生き方とすること。この二つに尽きます。
 今の左翼は、全くこの正反対ばかりやっているので、低迷は当然で「合理的」です。問題は極めてはっきりしている。この二つを実現できれば、左翼、マルクス主義は回復する。できなければ、このまま衰退します。

 第一の例を一つ。今2013年12月6日、国会で、特定秘密保護法案が採決されました。特定秘密保護法は、国を強化する態度から生じています。これの内容は、国を強化する態度からは、当然の内容です。「何が秘密かは秘密」なのも、個人の自由を縛るのも、この立場からは当然です。
 だから「何が秘密かは秘密」なのはおかしいので反対、個人の自由を縛るから反対、という「大衆」の声はいいのですが、共産党の態度は、国を強化するのは時代錯誤(というのはいい表現でないかもしれません)であり反対、したがって「何が秘密かは秘密」は反対、個人の自由を縛るのも反対、でないといけない。
 ところが、「竹島、尖閣は調べてみると、歴史的にも法的にも日本固有の領土だとわかった。侵略戦争で犠牲者を出した我が党が言うのだから間違いない」と政府に言いに行く2012年のHP動画で公開されている委員長の態度は、マルクス主義の理念に大きく反するのです。右翼の土俵で対案を出しているだけなので。
 こう言ってしまった以上、この党は、「何が秘密かは秘密」なのはおかしいので反対、個人の自由を縛るから反対、としか論理上言えない。
 この例の国も所有に関係します。所有と労働が今回の主テーマです。

1. 「生産手段の社会的管理だけではダメ」というのは進歩、しかし不十分

 不破氏は、「資本主義社会では、利潤第一主義が経済発展の最大の推進力です」 と言っています。「利潤第一主義、この定式化が現代資本主義の根元の認識として正しい」、ここまでの推進力については共産党は正しいと思います。
 次は、これとやや別の問題です。利潤第一主義と経済の無政府性の二つを、不破氏は(「の」を変更20131222)資本主義の矛盾(及びこれをもたらす推進力=「価値」)ととらえます。生産手段の社会的管理は、経済の無政府性に対する対策です。利潤第一主義という推進力に対する根本的対策は、実はないと言うか、なかったのです。これをもたらす種々の現象をただす改良的対策(労働時間短縮とか)しか、ない、なかった。
 
 植田さんの「経済の無政府性をやめて人間の意思の制御下に、計画経済という言い方はこれを性急に表現してしまっていたのではないでしょうか」という中の「計画経済という言い方」は、今、共産党の中にないと思います。生産手段の社会的管理の中に、計画性は含むでしょうが。経済のことは知らないので推測です。
 
 とにかく、計画的管理を含む「生産手段の社会的管理」は、経済の無政府性に対する対策だけ、ということが大事です。これは、今回の不破氏の大きな反省なのです。今回の座談会で、不破氏は、生産手段の社会的管理だけでは、社会主義の未来は実現できず「人間の能力の発達」が社会発展の最大の推進力になってゆくことを強調しました。彼は、新しい推進力の必要なことは、提起したのです。これを言うこと自体は、進歩なのです。
 
 不破さんの意見のまとめ:利潤第一主義と経済の無政府性の二つが問題。経済の無政府性に対して、生産手段の社会的管理が解、利潤第一主義に対して、「人間の能力の発達」をもたらす「自由の国」が解。
 僕の意見と不破氏、共産党批判のまとめ:利潤第一主義と経済の無政府性の二つが問題(これは同じ)。経済の無政府性に対して、生産手段の社会的管理が必要だが、150年経っても内容がないことが問題、利潤第一主義に対して、人間と対象に対する、所有に代わる新しい態度とこれに基づく労働が解。これは、後でもう一度述べます。
 以上、植田さんの論理を捻じ曲げたかもしれません。植田さんの論理を展開していっても、うまく論理展開できるのではないか、と思いつつ、植田さん、僕、不破氏の三人の間で、この点については、僕と不破氏の共通項をベースにしたほうが単に楽なのでそうしました。植田さん、すみません。

2. 発展の推進力に関する「自由の国」の中の労働

 続きます。
 不破氏:「マルクスが描いた未来社会像の中心は、「人間の発達」が保障される社会です。社会が変革されて、社会が必要とする生産労働をみんなで分担するようになったら、一人ひとりの労働時間が短縮されて、自由に使える生活時間が大きくなる。マルクスは、この自由な時間を「自由の国」と呼びました。」
というところは、全くおかしい。僕が言っているのは、この「自由の国」と「自由の国」における労働の位置が、信じられないほど根本的に間違っていることです。

 利潤第一主義による資本主義の高度の発達は、労働者の全面的能力を伸ばす面がある。マルクスが資本論で書いているとおりです。不破さんのこの座談会と共産党9中総「第26回大会決議案」(2013.11)の大間違いは、これを無視し、労働時間が少なくなることにより「自由の国」が生まれるとすることです。何でこんな初歩的ミスをするのか理解できません。これが、共産党の「ブラック企業」の行き過ぎた追求につながっている。古本屋通信さんの批判は当然なのです。もちろん、違法な労働はよくないのも当然です。
 僕は、不破氏が推進力を提起したのは良いが、推進力である「人間の能力の発達」が労働軽視(というより無視)であることに全面的に反対です。不破氏の、生産に寄与するだけの「労働」に反対です。
 不破氏:「未来社会では、人間の力を自由に発達させる条件が、社会のすべての人に保障される。これは、人類社会が歴史上かつてない発展の能力を持つということです。そこで科学技術が発展し、それが経済に生かされて労働の生産性が高まれば、その成果をうけて労働時間がさらに短縮され、「自由の国」はさらに領域を広げる。未来社会では、こういう循環が働きだします。」
というところは、人間の力の自由な発達 → 科学技術が発展 → 経済に生かされる → 労働の生産性が高まる→ 労働時間短縮 → 「自由の国」→ (元に戻る)
という循環が違う。一部にこういう循環がないわけではないでしょう。

 最大の問題は、労働が生産に寄与するものとしか、とらえないことで、これは致命的です。これでは資本主義と同じです。座談会だから多少いい加減でいい、正しい点があればいいのだということにはならない。何度も校正をやり、手をいれているはずなので。

 「現実的な、創造的で自由な労働が、共産主義のアルファでありオメガとなる。」とは、ダヴィドフ「疎外と自由」ロシア語原著、原著名「労働と自由」1962、ドイツ語訳からの日本語訳1967. p.194 の言葉です。彼について、石崎さんが、「ダヴィドフ「自由と疎外」」 2013年11月07日 (木)で触れてくれました。コメント123、2013/11/13、コメント126、2013/11/17でも少し書きました。

3. 発展の推進力に関する所有の止揚

 必要な「所有」の見直しがされていない。マルクスが「私的所有の止揚」として描いたことが求める理想像なのです。それで、所有に関して話を続けます。
 ポスト資本主義が何年も前から話題になり、持続可能社会が課題になり、客観的に明らかに地球規模の資本主義否定が求められている。この事態に、社会主義を求めるはずの陣営は、社会主義を実現する手段が分からず資本主義の改良に明け暮れている。社会主義を実現する手段の根本は、経済を駆動していくための、利益追求に代わる推進力をみつけることと、誰がどうこの推進エンジンを動かしていくかという方法です。基本的に、これは、生産手段の社会的所有とやらで片付く単純な問題ではないのです。ましてや、新左翼の言う「私有財産の廃止」という言葉だけ左翼の法的問題でもない。

(以下、所有とは何か、どう変えたらいいかについて書いている前半部分の一部です)
 ヘーゲルは、「精神哲学」(岩波文庫、下、船山信一訳、p.193- 195)で(他の本でも触れているのでしょうが)、所有を、法の下位概念として、難解ですけど、非の打ちどころのない完璧さで一ページ半に渡って説明しています。マルクスの所有概念は、おそらくこのヘーゲルの法の下位概念の「所有」だった。専有使用権も専有処分権も法的概念ですね。
 しかし、法が成立するずっと以前から「所有」はあった。それを説明します。
 独断ばかりですが、数百万年の人類の歴史は、道具、集団的労働、言葉の誕生、及び対象の意識とともに始まった。このお互いが他の残りの項と相互作用しながら徐々に確立していったと思います。
 対象への意識の一つが所有意識です。最初の所有意識は、おそらく狩猟で得た獲物や育てた作物である対象は、自分(達)のものだという意識です。それを盗みに来る他集団との戦いがその意識を生じさせた。所有意識は、相手の保管場所から、無断で何かを持ってこようとすると、相手が抵抗し、下手をすると死者が出る闘いになる、そういう長い時間の中で、徐々に生まれてきたと思います。生命は、殆どの時間を、周りの対象と自分の区別だけを意識して生きてきた。
 有性生殖が始まった後は、雌雄の意識が生じますが、これを別にすると、ここではじめて、周りの対象が、自分(達)のものと、他人(達)のもの、そうでないものに別れた。ある対象が、自分(達)のものであるという意識が所有意識です。
 つまり、盗みに来る他集団との戦いが所有という概念を生じさせ、所有という概念が、周りの対象、他人(達)、自分(達)の区別を意識させた。これが、所有の意味の一つです。

 所有意識を持っているものだけを「大事にする」ことの歴史上の意味がもう一つの意味です。今の人間の能力では全てのものを等しく大事にすることはできないので。所有意識が、全ての周りの対象のうち、特定のものを特に大事にする良い関係を作った。こうして少なくとも、しばらく前までは、所有意識は、周りの対象を大事にするために、有効だった。婚姻関係を核とする、家族だけを特に大事にするという意識も、子供や老人の世話を効率的に行う点で有効だったと同様です。
 平和的な物々交換、その前提となる所有という概念は、人類のほとんどの時間をかけ、戦いと血によって得られた。

 物々交換の普及より前に所有概念は成立していた。僕の独断的推定では、物々交換開始は、今から、6000年前ころです。(詳しくは、中川徹先生のTRIZホームページhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/ に入れていただいた「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」をご覧ください。) 独断的推定ですが、物々交換開始の6000年前から2000年かけて物々交換が普及して商品が成立し、それから1000年かけて貨幣が産まれる。つまり、最初の貨幣は3000年前ころできた。発見されている最古の貨幣は紀元前700年頃のものらしいです。
 とにかく、6000年前の物々交換の開始時には、所有概念が成立していた。所有概念は、人類誕生以来、数百万年の歴史をかけて作られたということになります。
 これに対し、古い法として、最古とされるウル・ナンム法典は紀元前2000年ちょっと前で、有名なハンムラビ法典はその後です。つまり、法という制度のできる前から所有という制度はあった。法制度の4000年より桁違いに長い歴史です。
 これら法典の目次を見ると、法の中身は、相手に危害を加えることを防止すること、婚姻に関すること、所有に関することの三つだった。この三つを、人と人の間で取り決めておくべきと判断した人がいたということに感動します。

 所有は、本質的に私的所有です。所有が、個人の、であろうが、集団の、であろうが関係なく。社会的所有も、その社会の私的所有です。
 マルクスが、変えようとしたのは、この私的所有という、持っているものしか大事にしない狭い対象との関係でした。しかし、マルクスの「所有」概念は、ヘーゲルの法概念にとらわれていた、そして、マルクスがその後実際に検討したのは、法的所有を前提とする、利益のみの追及による矛盾と、生産関係と生産力の矛盾の解でした。 この解は、所有の枠から逃れられなかった。だからこれは、26歳の時に求めた解ではないのです。
 これを解いて得られる解には、二つ問題があります。一つは、この矛盾が所有という古い概念に基づいていることです。二つ目は、これにより、解が、生産手段の社会化だとしても(これだけでは不十分ですが)、その中身が明らかでない、新しい経済を駆動する力が何か分からず、だれがそれをどう運用するのかが明らかにされていない。生産手段の社会化というのは言葉だけで、中身は何もない。おそらく、この中身は、全面的に発達した個人の集団による、所有に代わる新しい概念による下からの管理と、わずかの上からの全体管理に置き換わるでしょう。
 所有に代わる新しい概念とは、26歳のマルクスが述べた概念です。次の「その2」で引用を示します。

143:発展の推進力に関する「自由の国」の中の労働と「所有」の止揚について その2 高原利生 by 高原利生 on 2013/12/06 at 23:06:57 (コメント編集)

143:発展の推進力に関する「自由の国」の中の労働と「所有」の止揚について その2 高原利生 by 高原利生 on 2013/12/06
発展の推進力に関する、「自由の国」の中の労働と「所有」の止揚について その2 高原利生
「141、旧137:高原さんの意見を読んで by 植田与志雄 on 2013/12/02 」について その2です。
(すみません。不手際で、142が間違い、144が正しいその1です)

2016年4月12日引用を追加し、内容を追加します。

 その2は、所有に代わる新しい概念に関し、26歳のマルクスが述べた文の引用です。
「私的所有の積極的止揚は,人間的生活を我がものとする獲得として,いっさいの疎外の積極的止揚であり,したがって人間が宗教,家族,国家,等々から彼の人間的な,すなわち社会的なあり方へ帰ることである」,(「経済学・哲学手稿」,国民文庫, 藤野渉訳,p.147)
これは、所有と帰属の同時解決を示唆しています。

「私的所有の積極的止揚は,すなわち,人間的な本質と生活,対象的人間,人間的製作物を人間にとってかつ人間によって感性的に我がものとする獲得は,たんに直接的,一面的な享楽の意味,たんに占有の意味,持つという意味においてのみ解されてはならない。
 人間は彼の全面的本質を,ある全面的なしかたで,つまりある全体的な人間として,我がものとする。
 世界にたいする彼の人間的諸関係の各々,すなわち,見る,聞く,嗅ぐ,味わう,触感する,思考する,直感する,感覚する,意欲する,活動する,愛すること,要するに彼の個性のすべての器官は,直接にその形態において共同的器官として存在する諸器官と同様に,それの対象的ふるまいにおいて,すなわち対象にたいするふるまいにおいて,対象を我がものとする獲得である。」(「経済学・哲学手稿」,国民文庫, 藤野渉訳,p.151)

「私的所有はわれわれを非常に愚かで一面的なものにしてしまったので,ある対象がわれわれの対象であるのは,われわれがそれを持つときにはじめてそうなのである。つまりそれがわれわれにとって存在しているか,それともわれわれによって直接に占有され,食われ,飲まれ,われわれの身につけられ,われわれによって住まわれ等々,要するに使用されるときはじめてそうなのである。
 もっとも,私的所有は,占有のこれらすべての直接的実現そのものを,再びただ生活手段とのみ解するのであって,それらが手段として奉仕する生活とは,私的所有の生活,すなわち労働と資本家なのである。
 したがって,すべての肉体的および精神的な感覚のかわりに,これらのまったくの疎外,すなわち持つことの感覚が現れた。人間存在は,その内的な富をおのれのそとへ生みだすために,この絶対的な貧しさへ還元されねばならなかった」(「経済学・哲学手稿」,国民文庫, 藤野渉訳,pp.151-2)

「ある対象がわれわれの対象である」という意識が開く「すべての肉体的および精神的な感覚」(「経済学・哲学手稿」,国民文庫, 藤野渉訳,pp.151-2)

「私的所有の止揚は,すべての人間的な感覚と性質の完全な解放である。
しかしそれがこの解放であるのはまさしく,これらの感覚と性質が主観的にも客観的にも人間的になっているということによってである。目は,その対象が一つの社会的,人間的な対象,人間から起こる人間にとっての対象となっているように,人間的な目になっている。」(「経済学・哲学手稿」,国民文庫, 藤野渉訳,p.152)

「すでに生成した社会は人間を,彼の存在のこの富全体において生産する,すなわち,すべてのかつ深い感覚を持った豊かな人間を,その社会の恒常的現実として生産する」(「経済学・哲学手稿」,藤野渉訳,国民文庫, p.155)

「私が実践上,事物に対して人間的にふるまうことができるのは,ただ,事物が人間にたいして人間的にふるまうときだけだ」(「経済学・哲学手稿」国民文庫,藤野渉訳,p.153)

「対象的,自然的,感性的であるということと,自己の外部に対象,自然,感性を持つということ,あるいは第三者に対して自らが対象,自然,感性であるということは,同一のことである」(「経済学・哲学草稿」岩波文庫、城塚登、田中吉六訳,p.223)

「太陽は植物の対象(オブジェクト)であり,植物には不可欠の,植物の生命を保証する対象である.同様にまた植物は,太陽のもつ生命をよびさます力の発現,太陽の対象的な本質力の発現として,太陽の対象なのである」(「経済学・哲学草稿」岩波文庫、城塚登、田中吉六訳,p.223)
「それ自身が第三者にとって対象でない存在は,いかなる存在をも自分の対象として持たない.(中略) 非対象的な存在とは一つの非存在である」(「経済学・哲学草稿」岩波文庫、城塚登、田中吉六訳,p.223)

「われわれはたしかに外化された労働の概念を国民経済学から,私的所有の運動の結果として得た。しかしこの概念の分析に際して明らかになることは,たとえ私的所有が外化された労働の根拠として,原因として現れるにしても,それはむしろその帰結」「のちになるとこの関係は,相互作用に変わる」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.114)
 
 課題として出てくるのは、マルクスの引用で示した対象との関係を、労働において実現するにはどうしたらいいか、ということです。多分、この新しい対象との関係は、労働の推進力でもあり、労働そのものでもあり、労働の結果でもあるものです。あたかも、マルクスが、「経済学・哲学手稿」で述べた、私的所有による利益第一主義が、労働の推進力でもあり、労働そのものでもあり、労働の結果でもあったように。
 難しいけど、答えを見つけられないうちは、資本主義が勝っているのです。資本主義が行き詰まっていることは分かっている。だから、答えを見つけられないなら、「答えはまだ見つかっていないので、見つかるまでは、とりあえず資本主義の改良をします」と言ってそうしなければならない。

 マルクスが提起した対象との新しい関係も、サルトルの全体化の方法も、パースの連続性の実現方法、仮説設定の方法も、提起されただけで実現していない。
全体化、粒度と網羅を述べ続けているのであるが、今(2016年4月12日)、初期マルクスの根源的な対象との対等性、パースの連続性、サルトルの全体化の三つが、欠けている全体、網羅を作る要素ではないかと気付く。

 高原の理解では、サルトルの全体化は、一時が万時、一事が万事ということだ。今の一時が万時につながらなければならない、かつ、今の一事が万事につながらなければならない。これは、それ自体が主観的にも客観的にもそうであることを述べていて、パースの連続性を含むかもしれない。
 パースの連続性は、今の個人の行動の、まっすぐ歩くか右に曲がるか、夕食に何を食べるか等の判断と、今の経済をどうするか等の判断は、同じ原理に拠っているというものだ。

 初期マルクス、パースとサルトルは、相互に関係している。初期マルクスが本質で、パースとサルトルはその実現方法の満たすべき属性を語っている。実現方法は語られていない。

 これも、今(2016年4月12日)、気付くのは、三人とも、産業革命後の人で、対象化の世界観の真っただ中にいたにもかかわらず、言っている内容は、一体化の重要性を語っているということである。その後の、マルクスの不十分さを解釈するだけの「マルクス主義者」批判は、このホームページに繰り返し(おそらく10か所以上で、簡単に、あるところでは少し詳しく)書いている。

 マルクス、パースから150年、サルトルから50年経つ。この間、科学、技術は画期的な進歩を続けているが、哲学や思想は、本質的に進歩していない。

142:発展の推進力に関する、「自由の国」の中の労働と「所有」の止揚について その1 高原利生 by 高原利生 on 2013/12/06 at 22:57:30 (コメント編集)

発展の推進力に関する、「自由の国」の中の労働と「所有」の止揚について その1 高原利生
「141、旧137:高原さんの意見を読んで by 植田与志雄 on 2013/12/02 」について その1

 石崎さん、勝手にコメント転載をし、植田さんにも、そうしてもらいました。すみません。
 植田さん、転載ありがとうございました。お手数おかけしました。なかなかまとまらず時間がかかりました。長くなったので、三回に分けます。
 以下、「、、、」内が植田さん,不破氏、高原の引用、<、、、>が植田さんの高原引用です。
『古典教室』第2巻を語る 『空想から科学へ』――科学的社会主義の入門書」という赤旗の座談会(2013年11月22日)http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-22/2013112208_01_0.html
についての議論の続きです。

 左翼、マルクス主義の低迷を根本的に脱するために必要なことは、
 第一に、右翼や「良識派」にない、本来のマルクス主義の目的、理念とそれを実現する道を具体的に示すこと(かつ行動は現実的に行うこと)。
 第二に、マルクス主義の本来持っている、現実に向かう態度、自分と対象を変える方法を自らの生き方とすること。この二つに尽きます。
 今の左翼は、全くこの正反対ばかりやっているので、低迷は当然で「合理的」です。問題は極めてはっきりしている。この二つを実現できれば、左翼、マルクス主義は回復する。できなければ、このまま衰退します。

 第一の例を一つ。今2013年12月6日、国会で、特定秘密保護法案が採決されようとしています。特定秘密保護法は、国を強化する態度から生じています。これの内容は、国を強化する態度からは、当然の内容です。「何が秘密かは秘密」なのも、個人の自由を縛るのも、この立場からは当然です。
 だから「何が秘密かは秘密」なのはおかしいので反対、個人の自由を縛るから反対、という「大衆」の声はいいのですが、共産党の態度は、国を強化するのは時代錯誤(というのはいい表現でないかもしれません)であり反対、したがって「何が秘密かは秘密」は反対、個人の自由を縛るのも反対、でないといけない。
 ところが、「竹島、尖閣は調べてみると、歴史的にも法的にも日本固有の領土だとわかった。侵略戦争で犠牲者を出した我が党が言うのだから間違いない」と政府に言いに行く2012年のHP動画で公開されている委員長の態度は、マルクス主義の理念に大きく反するのです。右翼の土俵で対案を出しているだけなので。
 こう言ってしまった以上、この党は、「何が秘密かは秘密」なのはおかしいので反対、個人の自由を縛るから反対、としか論理上言えない。
 この、国も所有に関係します。所有と労働が今回の主テーマです。

1. 「生産手段の社会的管理だけではダメ」というのは進歩、しかし不十分

 不破氏は、「資本主義社会では、利潤第一主義が経済発展の最大の推進力です」 と言っています。「利潤第一主義、この定式化が現代資本主義の根元の認識として正しい」、ここまでの推進力については共産党は正しいと思います。
 次は、これとやや別の問題です。利潤第一主義と経済の無政府性の二つを、不破氏の資本主義の矛盾(及びこれをもたらす推進力=「価値」)ととらえます。生産手段の社会的管理は、経済の無政府性に対する対策です。利潤第一主義という推進力に対する根本的対策は、実はないと言うか、なかったのです。これをもたらす種々の現象をただす改良的対策(労働時間短縮とか)しか、ない、なかった。
 
 植田さんの「経済の無政府性をやめて人間の意思の制御下に、計画経済という言い方はこれを性急に表現してしまっていたのではないでしょうか」という中の「計画経済という言い方」は、今、共産党の中にないと思います。生産手段の社会的管理の中に、計画性は含むでしょうが。経済のことは知らないので推測です。
 
 とにかく、計画的管理を含む「生産手段の社会的管理」は、経済の無政府性に対する対策だけ、ということが大事です。これは、今回の不破氏の大きな反省なのです。今回の座談会で、不破氏は、生産手段の社会的管理だけでは、社会主義の未来は実現できず「人間の能力の発達」が社会発展の最大の推進力になってゆくことを強調しました。彼は、新しい推進力の必要なことは、提起したのです。これを言うこと自体は、進歩なのです。
 
 不破さんの意見のまとめ:利潤第一主義と経済の無政府性の二つが問題。経済の無政府性に対して、生産手段の社会的管理が解、利潤第一主義に対して、「人間の能力の発達」をもたらす「自由の国」が解。
 僕の意見と不破氏、共産党批判のまとめ:利潤第一主義と経済の無政府性の二つが問題(これは同じ)。経済の無政府性に対して、生産手段の社会的管理が必要だが、150年経っても内容がないことが問題、利潤第一主義に対して、人間と対象に対する、所有に代わる新しい態度とこれに基づく労働が解。これは、後でもう一度述べます。
 以上、植田さんの論理を捻じ曲げたかもしれません。植田さんの論理を展開していっても、うまく論理展開できるのではないか、と思いつつ、植田さん、僕、不破氏の三人の間で、この点については、僕と不破氏の共通項をベースにしたほうが単に楽なのでそうしました。植田さん、すみません。

2. 発展の推進力に関する「自由の国」の中の労働

 続きます。
 不破氏:「マルクスが描いた未来社会像の中心は、「人間の発達」が保障される社会です。社会が変革されて、社会が必要とする生産労働をみんなで分担するようになったら、一人ひとりの労働時間が短縮されて、自由に使える生活時間が大きくなる。マルクスは、この自由な時間を「自由の国」と呼びました。」
というところは、全くおかしい。僕が言っているのは、この「自由の国」と「自由の国」における労働の位置が、信じられないほど根本的に間違っていることです。

 利潤第一主義による資本主義の高度の発達は、労働者の全面的能力を伸ばす面がある。マルクスが資本論で書いているとおりです。不破さんのこの座談会と共産党9中総「第26回大会決議案」(2013.11)の大間違いは、これを無視し、労働時間が少なくなることにより「自由の国」が生まれるとすることです。何でこんな初歩的ミスをするのか理解できません。これが、共産党の「ブラック企業」の行き過ぎた追求につながっている。古本屋通信さんの批判は当然なのです。もちろん、違法な労働はよくないのも当然です。
 僕は、不破氏が推進力を提起したのは良いが、推進力である「人間の能力の発達」が労働軽視(というより無視)であることに全面的に反対です。不破氏の、生産に寄与するだけの「労働」に反対です。
 不破氏:「未来社会では、人間の力を自由に発達させる条件が、社会のすべての人に保障される。これは、人類社会が歴史上かつてない発展の能力を持つということです。そこで科学技術が発展し、それが経済に生かされて労働の生産性が高まれば、その成果をうけて労働時間がさらに短縮され、「自由の国」はさらに領域を広げる。未来社会では、こういう循環が働きだします。」
というところは、人間の力の自由な発達 → 科学技術が発展 → 経済に生かされる → 労働の生産性が高まる→ 労働時間短縮 → 「自由の国」→ (元に戻る)
という循環が違う。一部にこういう循環がないわけではないでしょう。

 最大の問題は、労働が生産に寄与するものとしか、とらえないことで、これは致命的です。これでは資本主義と同じです。座談会だから多少いい加減でいい、正しい点があればいいのだということにはならない。何度も校正をやり、手をいれているはずなので。

 「現実的な、創造的で自由な労働が、共産主義のアルファでありオメガとなる。」とは、ダヴィドフ「疎外と自由」(ロシア語原著、原著名「労働と自由」1962、ドイツ語訳1964、ドイツ語訳からの日本語訳1967. p.194 の言葉です。彼について、石崎さんが、「ダヴィドフ「自由と疎外」」 2013年11月07日 (木)で触れてくれました。コメント123、2013/11/13、コメント126、2013/11/17でも少し書きました。

3. 発展の推進力に関する所有の止揚

 植田さんの「<資本主義の改良に過ぎませんが、新しい概念が得られておらずこれに基づく運動が提示できない以上、これしかやり方はない>
そう思います。」
というところの高原の原文は、次のとおりです。
 「まだ、所有に代わる新しい概念が得られていない間は、資本の横暴を規制するルールを作り資本主義の改良をしつつ、古い所有概念に基づいた経済発展を、行うしか道はありません。所詮、これは、資本主義の改良に過ぎませんが、新しい概念が得られておらずこれに基づく運動が提示できない以上、これしかやり方はない。」

 必要な「所有」の見直しがされていない。マルクスが「私的所有の止揚」として描いたことが求める理想像なのです。それで、所有に関して話を続けます。
 ポスト資本主義が何年も前から話題になり、持続可能社会が課題になり、客観的に明らかに地球規模の資本主義否定が求められている。この事態に、社会主義を求めるはずの陣営は、社会主義を実現する手段が分からず資本主義の改良に明け暮れている。社会主義を実現する手段の根本は、経済を駆動していくための、利益追求に代わる駆動エンジンをみつけることと、誰がどうこのエンジンを動かしていくかという方法です。基本的に、これは、生産手段の社会的所有とやらで片付く単純な問題ではないのです。ましてや、新左翼の言う「私有財産の廃止」という言葉だけ左翼の法的問題でもない。

(以下、所有とは何か、どう変えたらいいかについて書いている前半部分の一部です)
 ヘーゲルは、「精神哲学」(岩波文庫、下、船山信一訳、p.193- 195)で(他の本でも触れているのでしょうが)、所有を、法の下位概念として、難解ですけど、非の打ちどころのない完璧さで一ページ半に渡って説明しています。マルクスの所有概念は、おそらくこのヘーゲルの法の下位概念の「所有」だった。専有使用権も専有処分権も法的概念ですね。
 しかし、法が成立するずっと以前から「所有」はあった。それを説明します。
 独断ばかりですが、数百万年の人類の歴史は、道具、集団的労働、言葉の誕生、及び対象の意識とともに始まった。このお互いが他の残りの項と相互作用しながら徐々に確立していったと思います。
 対象への意識の一つが所有意識です。最初の所有意識は、おそらく狩猟で得た獲物や育てた作物である対象は、自分(達)のものだという意識です。それを盗みに来る他集団との戦いがその意識を生じさせた。所有意識は、相手の保管場所から、無断で何かを持ってこようとすると、相手が抵抗し、下手をすると死者が出る闘いになる、そういう長い時間の中で、徐々に生まれてきたと思います。生命は、殆どの時間を、周りの対象と自分の区別だけを意識して生きてきた。
 有性生殖が始まった後は、雌雄の意識が生じますが、これを別にすると、ここではじめて、周りの対象が、自分(達)のものと、他人(達)のもの、そうでないものに別れた。ある対象が、自分(達)のものであるという意識が所有意識です。
 つまり、盗みに来る他集団との戦いが所有という概念を生じさせ、所有という概念が、周りの対象、他人(達)、自分(達)の区別を意識させた。これが、所有の意味の一つです。

 所有意識を持っているものだけを「大事にする」ことの歴史上の意味がもう一つの意味です。今の人間の能力では全てのものを等しく大事にすることはできないので。所有意識が、全ての周りの対象のうち、特定のものを特に大事にする良い関係を作った。こうして少なくとも、しばらく前までは、所有意識は、周りの対象を大事にするために、有効だった。婚姻関係を核とする、家族だけを特に大事にするという意識も、子供や老人の世話を効率的に行う点で有効だったと同様です。
 平和的な物々交換、その前提となる所有という概念は、人類のほとんどの時間をかけ、戦いと血によって得られた。

 物々交換の普及より前に所有概念は成立していた。僕の独断的推定では、物々交換開始は、今から、6000年前ころです。(詳しくは、中川徹先生のTRIZホームページhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/ に入れていただいた「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」をご覧ください。) 独断的推定ですが、物々交換開始の6000年前から2000年かけて物々交換が普及して商品が成立し、それから1000年かけて貨幣が産まれる。つまり、最初の貨幣は3000年前ころできた。発見されている最古の貨幣は紀元前700年頃のものらしいです。
 とにかく、6000年前の物々交換の開始時には、所有概念が成立していた。所有概念は、人類誕生以来、数百万年の歴史をかけて作られたということになります。
 これに対し、古い法として、最古とされるウル・ナンム法典は紀元前2000年ちょっと前で、有名なハンムラビ法典はその後です。つまり、法という制度のできる前から所有という制度はあった。法制度の4000年より桁違いに長い歴史です。
 これら法典の目次を見ると、法の中身は、相手に危害を加えることを防止すること、婚姻に関すること、所有に関することの三つだった。この三つを、人と人の間で取り決めておくべきと判断した人がいたということに感動します。

 所有は、本質的に私的所有です。所有が、個人の、であろうが、集団の、であろうが関係なく。社会的所有も、その社会の私的所有です。
 マルクスが、変えようとしたのは、この私的所有という、持っているものしか大事にしない狭い対象との関係でした。しかし、マルクスの「所有」概念は、ヘーゲルの法概念にとらわれていた、そして、マルクスがその後実際に検討したのは、法的所有を前提とする、利益のみの追及による矛盾と、生産関係と生産力の矛盾の解でした。 この解は、所有の枠から逃れられなかった。だからこれは、26歳の時に求めた解ではないのです。
 これを解いて得られる解には、二つ問題があります。一つは、この矛盾が所有という古い概念に基づいていることです。二つ目は、これにより、解が、生産手段の社会化だとしても(これだけでは不十分ですが)、その中身が明らかでない、新しい経済を駆動する力が何か分からず、だれがそれをどう運用するのかが明らかにされていない。生産手段の社会化というのは言葉だけで、中身は何もない。おそらく、この中身は、全面的に発達した個人の集団のによる、所有に代わる新しい概念による下からの管理と、わずかの上からの全体管理に置き換わるでしょう。
 所有に代わる新しい概念とは、26歳のマルクスが述べた概念です。次の「その2」で引用を示します。

141:137をこちらに移しました by 植田与志雄 on 2013/12/03 at 21:14:21 (コメント編集)

<、、、>高原さん発言
<経済発展を求めるのをやめ、社会発展というもっと大きな目標を求める方向に切り替える>
そう思います。
社会は経済より広い、文化も家族も全部で、経済もその一部のなんだけれど、資本制経済は社会全体を経済の中に取り込んでしまっている。家族も何もかも経済に従属してしまっている。これを逆転させて、経済を社会の一構成要素として社会の中に正しい位置づけで取り込む、これが社会主義の目標ではないか。経済の無政府性をやめて人間の意思の制御下に、計画経済という言い方はこれを性急に表現してしまっていたのではないでしょうか。

<「利潤第一主義」と同じ粒度で、これに代わる「何か」が答えです>
利潤第一主義、この定式化が現代資本主義の根元の認識として正しいかの問題があると思います。ですからこれに代わる何か、は利潤第一に代わるものではないかも、、。

<だから、「所有」という観念、概念を変えねばならない>
所有、高原さんの論文をよく読んではいないので、かみ合わないかもしれませんが、
私の思っている感覚的な所有とは、あるモノXに対してAさんが他者から横やりを入れられることなく使用、処分、などを自由にできることを他者が認める状態をAさんがXの所有権を持っていると言うのではないでしょうか。つまり社会的な承認関係、人と人との関係。

<資本主義の改良に過ぎませんが、新しい概念が得られておらずこれに基づく運動が提示できない以上、これしかやり方はない>
そう思います。不破さんは恐らく資本主義のベスト(昔の言葉で言えば、修正資本主義、社会民主主義か)を求めることを目標にしていて、社会主義はそのあとでじっくりと考えていると思います。だから社会主義の青写真を出さない、出せなくてもいいと思っているのではないか。資本主義のベストから社会主義への移行期間はかなり長くなるだろう、決して革命的に一気に進むとは考えてはいません。これが現在の不破綱領の中心と思います。
でもそうであるなら、もっともっと現代資本主義の肯定面、進んでいる面を研究しなくてはならいのですが、そうはなっていない。「利益第一主義」と否定面だけしか抽出できていない、これは不破さんというより現共産党の力不足。

<「発展」は、今後、必ずしも量的な「発展」ではないかもしれない>
ここが今後の研究課題と思います、、、。私はこれの一つが生産の先端部分での物質財から非物質財への移行ではないかと提起しているつもり。



140:コメント132も、石崎氏「エジプト、シリア、イラン」へのものだったので、ここに転載 by 高原利生 on 2013/12/03 at 08:13:15 (コメント編集)

コメント132も、石崎氏「エジプト、シリア、イラン」へのものだったので、ここに転載します。石崎氏、植田氏、読者にご迷惑をおかけします。
植田さん、コメント137もこちらに転載していただけないでしょうか。不破さん、共産党については、こちらで議論することにしたいです。

132:131:不破哲三氏の自由論批判 by 高原利生 on 2013/11/26その2 by 高原利生 on 2013/11/27転載
131:不破哲三氏の自由論批判で1,2を述べました。これは3です。

3. 経済発展の原動力
「『古典教室』第2巻を語る 『空想から科学へ』――科学的社会主義の入門書」という赤旗の座談会(2013年11月22日)で、不破哲三氏は、次のように述べます。
「労働、つまり生産活動は社会の土台ですが、そこの変化だけで社会を見ると未来社会の本当の姿は見えてきません。
資本主義社会では、利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、「自由の国」での「人間の能力の発達」が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう。」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-22/2013112208_01_0.html

 一体、どのようにして、「「人間の能力の発達」が社会発展の最大の推進力になってゆく」のか、何も明らかにしていません。これでは従来の抽象論と変わりません。
 不破氏は、文の前半で「資本主義社会では、利潤第一主義が経済発展の最大の推進力で」あることを述べ、後半で、問題を、経済発展から社会発展にすり替えるだけで、答えを出さない。もし、社会主義、共産主義では、経済発展を求めるのをやめ、社会発展というもっと大きな目標を求める方向に切り替えると言うなら(それは有りうる解です)、それを明らかにすべきです。
 
 「利潤第一主義が経済発展の最大の推進力」になっていた、この「利潤第一主義」と同じ粒度で、これに代わる「何か」が答えです。逃げてはいけない。分かっていないなら、そのことを認めなければならない。「利潤第一主義」は、「所有」を基にしていた。だから、「所有」という観念、概念を変えねばならない。これが、マルクスが「経済学・哲学手稿」で言いかけたことだった。
 したがって、発達した資本主義下にいて、資本主義に代わる新しい制度、社会主義、共産主義を語るものは、新しい社会主義、共産主義の何が、経済の「発展」にどう寄与するか、できるか、それが資本主義の問題点をどう解決し、どういう世界を作るのかをのべなければならない。それは、所有に代わる新しい概念が、何をもたらすかを述べることです。

 資本主義が未発達であろうが発達していようが、まだ、所有に代わる新しい概念が得られていない間は、資本の横暴を規制するルールを作り資本主義の改良をしつつ、古い所有概念に基づいた経済発展を、行うしか道はありません。所詮、これは、資本主義の改良に過ぎませんが、新しい概念が得られておらずこれに基づく運動が提示できない以上、これしかやり方はない。そして誰もが欲している未来の社会像を訊かれても、今迄でのように、日本共産党綱領に書いてあるような、未来像の一部の属性を語るだけの抽象的な答えでごまかすか、資本主義を改良するのが答えだと言うしかない。
 そうでなく、所有に代わる新しい概念が得られれば、資本主義の発達度合いに関わらず、その新しい概念に基づいた「革命」は、始められる。

 この努力をしないで、表向き左翼的言辞を振りまき、資本主義の恩恵を十二分に享受しながら(今のネット環境も、安くなったパソコンも、全く資本主義の恩恵です)資本主義の悪口を言うだけなのは、人の態度としても褒めたものではない。これは、旧左翼、新左翼を問いません。
 なお、ここで「発展」は、今後、必ずしも量的な「発展」ではないかもしれない。経済が量的拡大を続けていくのがよい、というのは古い考え方かもしれない。ここでも、社会主義、共産主義と、資本主義のどちらが正しい答えを出せるのか問われています。

139:「労働(高原氏のコメントから)」で触れられたコメント「131:不破哲三氏の自由論批判 by 高原利生 on 2013/11/26」転載 by 高原利生 on 2013/12/03 at 08:02:54 (コメント編集)

石崎徹「労働(高原氏のコメントから)」で触れられたコメント「131:不破哲三氏の自由論批判 by 高原利生 on 2013/11/26」転載

コメント131は、石崎氏「エジプト、シリア、イラン」へのものだったので、ここに転載します。石崎氏、植田氏、読者にご迷惑をおかけします。
植田さん、コメント137もこちらに転載していただけないでしょうか。不破さん、共産党については、こちらで議論することにしたいです。

131:不破哲三氏の自由論批判 by 高原利生 on 2013/11/26 at 21:26:06 (コメント編集)
不破哲三氏の自由論批判 高原利生

「『古典教室』第2巻を語る 『空想から科学へ』――科学的社会主義の入門書」赤旗の座談会(2013年11月22日)がネットに載っていました。
 まず、この座談会の不破哲三氏を引用します。以下は、問題意識だけは新鮮で良いのですが、冒頭が間違いで、結論も根本的に違う。

「労働、つまり生産活動は社会の土台ですが、そこの変化だけで社会を見ると未来社会の本当の姿は見えてきません。
レーニンの『国家と革命』での未来社会2段階論の一番の問題は、生産物の生産と分配がすべてという立場で未来社会をとらえていることでした。だから、生産力が発展して社会が豊かになり、誰でも「必要に応じて」消費できる社会になることが、共産主義の一番高度な段階だということにもなります。

しかし、マルクスが描いた未来社会像の中心は、「人間の発達」が保障される社会です。社会が変革されて、社会が必要とする生産労働をみんなで分担するようになったら、一人ひとりの労働時間が短縮されて、自由に使える生活時間が大きくなる。マルクスは、この自由な時間を「自由の国」と呼びました。
未来社会では、人間の力を自由に発達させる条件が、社会のすべての人に保障される。これは、人類社会が歴史上かつてない発展の能力を持つということです。そこで科学技術が発展し、それが経済に生かされて労働の生産性が高まれば、その成果をうけて労働時間がさらに短縮され、「自由の国」はさらに領域を広げる。未来社会では、こういう循環が働きだします。

資本主義社会では、利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、「自由の国」での「人間の能力の発達」が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう。
マルクスが『賃金、価格および利潤』で述べた言葉―「時間は人間発達の場だ」ということを正面にすえて未来社会の全体像をとらえることが大事なんです。
従来の社会主義論というのは、たいていが生産物の分配どまりで、経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心のことが出てこないというところに大きな弱点がありました。」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-22/2013112208_01_0.html

1. 労働について

 僕の見易くないホームページに、この批判を載せました。彼の労働軽視は看過できないと思います。人間発達に労働は最も重要ですから。この見方では、労働時間短縮しか労働の課題は出てこない。一見もっともらしい言い方で、労働が自由をもたらすという見方を真っ向から否定します。取り分け、
「一人ひとりの労働時間が短縮されて、自由に使える生活時間が大きくなる。マルクスは、この自由な時間を「自由の国」と呼びました。」
というところは、全くマルクスを曲解するものです。
 極論すれば、労働だけが人間の能力、自由を作ってきた。しかし、労働に自由がなく、生活にだけ自由があるというのは根本が違っています。この自由という価値のとらえ方は、全く信じがたい間違いです。この見方では、労働時間短縮しか労働の課題は出てこない。
 この点について、前に「高原利生さんのコメント」として、古本屋通信No 477 2013年10月19日 が取り上げてくれました。

 所有に代わる対象との関係という内容の問題は、経済の他の制度である政治や、技術、科学、芸術にも、関係します。また、これは、人間の全生活、とりわけ、主として労働や「商品」の売買に顕著に現れるはずです。変えねばならない対象との関係と、具体的な行動の場面は、対になっています。
 極論すると、所有に代わる概念を作る作業と労働像のとらえ直しは、両輪です。
 マルクスから一世紀半を経て労働や「商品」売買が大きく姿を変えました。労働一つ取っても、人間の自己の価値実現、自由の実現が、労働においてもたらされることは、ある程度資本主義の下でも実現されることを、マルクスは資本論の中で「人間の能力の全面的発達」の展望として書きました。新しい価値を実現する場は、まず労働のはずです。
 所有が資本主義の価値を生み出している。この中で、労働において自由という価値が、人間の全面的発展という可能性として生まれつつあることをマルクスは述べました。資本主義の枠の中でも、労働は自由を伸ばす粒度、面を持っていた。不破氏はそれを否定し歴史を前に戻してしまう。

 共産党の9中総の「26大会決議案」5章には、「全国各地の職場で、雇用・労働条件改善などの要求とともに、「社会に役立つ、いい仕事がしたい」という労働者の根本的な要求を重視して人間的信頼関係を築き、党に迎え入れている経験が広がっていることは重要である。党員が、職場で自らの仕事に誇りを持ち、仲間を大切に頑張っている姿が、若い労働者に共感を広げており、ここに確信をもって大胆に働きかければ、いま職場支部の前進をかちとることは可能である。」とあります。もっともなように見えますが、「労働」の内容が、党勢拡大の手段にしかなっていない。

2. 一人の人間、世界の理想像=人と未来社会の全体像、理想と現実の矛盾の全体像は何か

「レーニンの『国家と革命』での未来社会2段階論の一番の問題は、生産物の生産と分配がすべてという立場で未来社会をとらえていることでした。」
「生産手段が社会の手に移っただけで、はたして「自由な生産者が連合した社会」になるだろうか、という問題です。」
と、不破氏がいうのは、いい問題意識なのです。
 
 つまり、もう一つの問題は、一人の人間、世界の理想像、理想と現実の矛盾の全体像は何かと言う問題です。この矛盾については「今の地球の人類の矛盾について 20130918,19,1003,22,23,26」というのも載せていて、主観的矛盾と客観的矛盾を整理しようとしているのですが、うまく書けていません。

 この問題が先で、この下に労働があるのかも?植田さんと僕の議論に不破さんが割り込んだ(と勝手に思っている)形になりました。全体を整理しようとしたのですが、返って混乱させたかもしれません。まだ僕自身少し混乱しています。

136:すこし言い過ぎました by 植田与志雄 on 2013/11/30 at 06:01:25 (コメント編集)

たしかに座談会での発言で不破さんは、具体的なアイディアはないとまでは言ってません。
ここは私の勝手な解釈です、あたかも不破さんの発言であるかのように書いたのはいけなかったですね。高原さんを悩ませて余計なことを考えさせてスミマセン!!
高原さんの指摘「それはともかく、疎外された労働でなく、本来の労働もなくなる方がよく、アフターファイブの時間だけが自由な時間だとしか不破さんは座談会で言ってない」
はこう思います。
座談の別な個所で不破さんはこう言ってます「経済的土台の変化だけに目を向けて肝心の人間発達に関心が向けられていなかった」。この認識をベースに、労働=本質論も見直したらどうかとの問題提起の一つが突出して行き過ぎたものと私は理解したので問題視していませんでした。
問題の存在、所在をはっきり指摘しているけれど答えが提示されていない場合は、言外に自分は答えは持っていないと認めているのだと思います。
不破さんの議論はこういうのが多い。
利益第一主義への疑問もこれに代わるものを提示できていません。
青写真の否定もアイディアを持ち合わせていないことを告白しているだけでしょうね。
まだそこまでは自分は考えが及んでいないよ、と言えば皆納得ですが、そうは言わないのが困ったものです。
様々な局面での議論のすり替えや無断路線変更などもこの姿勢が遠因と思います。
自分は理論のトップなんだからの意識、これからのプレッシャーが不破さんにそのような素直な気持ちの表出を妨げているのでしょうか。
不破さん個人に留まらず共産党という組織全体での思考パターンにもなっています。
権力闘争の中での議論は、敵に弱みを見せないこと、敵の弱点を見つけること、がコツだと不破さんは宮本顕示さんから叩き込まれたと不破さんの党内での同僚(?)だった安東仁兵衛さんがどこかで書いていました。
新しいなにかを探す仕事には全く不向きな姿勢です。
不破さんはとてもシャープですが創造性に欠けていると勝手ながら思います。
これは得意不得意ですから、それ自体は問題ではない、その性格でどのような役割に就くか、が問題。今の党には、というより前衛党にはつねに創造性が最も求められていると私は思っています。誤りも含めて自分で責任を負う前提で新しいものを探求することに全力を傾けるの前衛党の役割と思います。そういう点からは不破さんを理論のトップとするのはミスキャスト。
でも私は、答えを持っていない、それ自体を責めたり問題にするのには気が進まないのです。
それは我々自身の課題と思うのです。
話が脱線しました、、、。

135:「134:労働は必要だが by 植田与志雄 on 2013/11/29」について by 高原利生 on 2013/11/29 at 14:36:05 (コメント編集)

「134:労働は必要だが by 植田与志雄 on 2013/11/29」について 高原利生
 植田さん、ありがとうございます。
 高原が批判したのは、挙げた第二回座談会の不破さんの発言内容です。
 植田さんの「人間の本質、存在意味から見て労働のどの面が本当に重要なのかは少し別な議論が必要なのではないか、不破さんはこれの見直しを提起していると思う。社会主義社会の構想の中にこの見直しを展望している、まだ具体的にはアイディアはないけれど、と認めている。」
というのは座談会のどこにありますか?読み直した限り、見当たりません。別のところで言われているのでしょうか?
 
 不破氏は、座談会で、労働=生産活動と言っています。僕が、「生産労働を経験していない人は、、、」と不破氏に失礼なことを言った時の、生産労働は、不破氏の、労働=生産活動と多分同じで、コメント133で「「利潤第一主義」は、競合製品(これは、ものとサーヴィスの両方あります)に勝つため「良い」製品を「安く」作る努力を駆り立てる仕組み」を経た労働の意味ですが、あいまいですね。
 資本主義でも、製品を、ものの製品とサーヴィスに分けて扱うようになってきています。植田さんの言われるように。
 弁護士や教育、医者の労働もサーヴィスに属しますが、「「良い」製品を「安く」作る努力を駆り立てる仕組み」がどの程度はっきりしているかはよく分かりません。古本屋通信さんが前に務めておられた会社は、生徒の学習の通信添削もやっています。各社の競争が激しく、「「良い」製品を「安く」作る努力を駆り立てる仕組み」がはっきり見える例でしょう。(ちなみに、この会社は、岡山の小学生の三分の一のシェアを持ちます。僕の孫は、この会社とは別の会社の通信添削をやっています。余り送ってないですけど)
 それはともかく、疎外された労働でなく、本来の労働もなくなる方がよく、アフターファイブの時間だけが自由な時間だとしか不破さんは座談会で言ってない。そこを批判しました。

 不破氏が『57~58年草稿』というのは「経済学批判要綱」のことですかね?ご存じないですか?「経済学批判要綱」も57~58年なのです。

134:労働は必要だが by 植田与志雄 on 2013/11/29 at 04:54:06 (コメント編集)

労働が人間をつくってきた、労働は人間にとって本質的活動である、これらは今ではマルクス主義派、資本主義派で共有されている常識になっている。労働はもちろん多くの面を持っている、人類を作ってきたという機能面での決定的重要さは自明だけれど、それとは別に人間の本質、存在意味から見て労働のどの面が本当に重要なのかは少し別な議論が必要なのではないか、不破さんはこれの見直しを提起していると思う。社会主義社会の構想の中にこの見直しを展望している、まだ具体的にはアイディアはないけれど、と認めている。これは不破さんだけに求める課題ではなく我々自身の課題でもあるのではないか。

様々な立場から多様な労働観がある。
これは私なりの整理です。
議論の参考になればと思って、、、。
<A論:労働肯定論>
・人間は労働を通して人間性を完成させてゆく。
・労働の二面={文明と社会にとって必要+労働それ自体に喜びを内在させている}。
・本来の労働は自主的なものであって喜ばしいもの人格を内部から支えるもの。
・キツイ、つらい、ストレス、強制(疎外)などの否定面は社会的条件の改善で克服できる。強制労働、苦痛労働、労働疎外、からの解放によって労働の本質である喜びを抜き出し、労働を純化するのが社会主義思想。
・人間の本質は労働にあり、余暇にではない。労働の減少させて、余暇を拡大には単純には賛成できない。労働の本質を忘れると労働の動機はより多くの消費のためとなる。
<B論:労働本質論への異論>
・労働が人間の本質であり喜びであるとする労働観は17Cの産業発達に合わせて急浮上した近代の基本命題。経済の発展によって多くの労働人口を必要としたから生まれたイデオロギー。
・労働は必要だが人生の生きがい&喜びとするのは思い込み。労働それ自体に喜びが内在するわけではない。
・労働を駆動する力は労働それ自身に含まれているのではなく、他者から認められたいとする欲望にある。自己実現といっても他者からの評価が前提。
・社会の中で生きる人間の習性として承認欲望は強烈で生活向上と結んでこれから逃れられない。
・全生活が労働生活に吸収されてしまう。一切の労働が産業化して生活の全てを包摂している。これらを見直して今後は必要労働時間の極小化に向かうべき。
・自由時間を多くして公共的課題に共同で取り組むことに振り向けるべき。私的承認欲望を公的活動で充足させるべき。余暇の使い道を消費から公的活動に転換。よりよく生きるとはどういうことかを考える余裕が必要。
<C論:他者との相互性の中に労働の役割を再建する>
・労働とは何か<生産物+人間関係>をつくりだすこと。労働は経済的価値とは重ならない部分を含む。
・広義の労働=他者を支える労働=ローカルな地域、家族内での非生産的労働行為=労働行為そのものに価値がある=労働が他者に喜ばれると自分も満足し、自己形成の核となる。
・狭義の労働=生産労働=経済的価値を生む労働
・近代の労働観は狭義労働のみが価値あるとする労働観で、広義の労働が格下げされ場合によっては負の労働と見なされてきた。
・相互性の労働もサービス商品化され消費の対象となりつつある。日常生活そのものだった広義労働も失われて、労働そのものが日常生活から切り離されてきた。
・狭義の労働の中での自己実現=企業家や官僚としての成功者への道の探求
・狭義労働も専門家、細分化され創造性の余地がなく、生活の手段化している。
労苦か又は野望実現の手段と化している。
・日本でのマルクス主義は労働を資本との関係からのみ見ていたことと共同体を遅れた要素として見ていたため相互性労働の重要さを見落としてきた。
・価値といえば交換価値で使用価値は捨象されるが、これは経済法則の解明のためだった。価値としての人間労働を論じるにはこれでは不完全。

133:「労働(高原氏のコメントから)2013年11月28日 (木)」について by 高原利生 on 2013/11/28 at 20:13:45 (コメント編集)

「労働(高原氏のコメントから)2013年11月28日 (木)」について 高原利生
(20:50 追加、修正)
 ご紹介ありがとうございます。 
 まず、弁解を少し。「すでにタイトルには関係なく、高原、植田両氏のさまざまなテーマのコメントが無数にぶら下がっており」とあります。石崎さんの「エジプト・シリア・イラン」の中の、民主主義から、自由や所有に話題が飛び、さらにあちこちに飛びすぎているように見えると思いますが、所有にからめて自由を論じる点は一貫しているのです。飛びすぎてまとまりがないように見えるのは、当人の反省しているところです。使わせていただき感謝しています。取り上げていただいたコメントも、植田、高原の間に不破さん他が入ってくれた形の同じテーマなのです。

 赤旗は取っていないので、ネットで読むだけです。この座談会の記事に出会ったのは、座談会の出席者石川教授のブログhttp://walumono.typepad.jp/からでした。
 この座談会の二回目が、
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-22/2013112208_01_0.html
 一回目が、
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-10-11/2013101108_01_0.html
に載っています。不破氏の長時間の講義そのものも、共産党のホームページから見ることができます。
 座談会の内容はおもしろいのです。水準は高く読む価値はあります。ご覧になるといいと思います。ただ、
石崎さんの「エジプト・シリア・イラン」についてのコメント
131:不破哲三氏の自由論批判 by 高原利生 on 2013/11/26
132:不破哲三氏の自由論批判 by 高原利生 on 2013/11/26その2 by 高原利生 on 2013/11/27
で述べたように、根本が違うのです。

 せっかくの機会なので、上の二つのコメントの補足を書きます(一部ダブります)。主に、132の補足になります。ブログの流れがおかしくなるかもしれませんが。

 「利潤第一主義が経済発展の最大の推進力」になっていたと不破氏は書いています。この「利潤第一主義」と同じ粒度、レベルで、これに代わるものは何か、という答えを出さないといけない。
 「利潤第一主義」は、人を駆り立てる力を持っています。これは、マルクスが資本論などでしばしば書いている「お金の魔力」とは違った意味を持つようになっています。「利潤第一主義」は、競合製品(これは、ものとサーヴィスの両方あります)に勝つため「良い」製品を「安く」作る努力を駆り立てる仕組みを含みます。この仕組みには、「良い」製品を「安く」作ることが良いことだと、研究者、設計者を含む労働者を思い込ませる仕組みと、買う大衆に当製品を買うことが「良い」と思い込ませる虚像広告(優れた虚像が多いです)、おまけを餌にする(おまけは大好きなので、僕はすぐ引っかかります)などの仕組みも含みます。
 そして、この「良い」ことのなかに実際に良いもの、ことが含まれている。現に、わずか10年前とは比較できないような良いものが安い価格で提供されています。一世紀ちょっと前には、電話も自動車も飛行機もコンピュータもなかった。もちろん人工衛星も原子力発電もなかった。月にも火星にも行けなかった。これらが、戦争と「利潤第一主義」がもたらしたものです。(技術進歩に 戦争が大きな役割を果たした、だからその技術は悪であるという短絡論理は間違いです。人工衛星も原子力発電だけでなく、他の技術も戦争が産みまたは発展した面、粒度がある。)

 「利潤第一主義」は、今、様々な問題を生んでいる。今まで左翼はそれしか言ってこなかった。(この「利潤第一主義」は、同じ座談会で不破さんが、資本主義の矛盾の問題で論じています。この資本主義内の矛盾の位置は別に論じます。)今まで「マルクス主義者」と左翼が問題にしてきた「利潤第一主義」が生んだことと、「利潤第一主義」に代わる、経済発展(または社会発展)に対する「人を駆り立てる」推進力を求めることと、どちらが大きな問題だと思うでしょうか?前は、今の問題を解決すること、後は、その後、どうするかということです。普通の問題と違い、この問題は後の問題を解きつつ、でないと、前の問題が解決できない段階になっている。それに左翼は早く気づくべきです。
 これに代わる、経済発展(または社会発展)に対する「人を駆り立てる」労働の推進力を求める努力から、不破さん(と全ての左翼)は逃げている。余計な話かもしれませんが、生産労働を経験していない人は、今の左翼の運動を指導できないのではないか?生産労働を経験した人は、この問題から逃げない可能性が大きいと思います。         
 逃げてはいけない。分かっていないなら、そのことを認めなければならない。いや、それ以前の問題かもしれない。分かっていないことを分からねばならない。これは、今の左翼には、ひょっとして理解不可能かもしれない大問題です。左翼の外から解決する勢力が出てきた時は、左翼は役割を終える時です。
 生産労働における「利潤第一主義」(と最近の戦争)は、「所有」を基にしていた。話が飛ぶように見えるかもしれませんが、だから、「所有」という観念、概念を変えねばならない。これが、マルクスが「経済学・哲学手稿」で書きかけて最後まで書けなかったことでした。

 資本主義が未発達であろうが発達していようが、まだ、所有に代わる新しい概念が得られていない間は、資本の横暴を規制するルールを作り資本主義の改良をしつつ、古い所有概念に基づいた経済発展を、行うしか道はありません。所詮、これは、資本主義の改良に過ぎませんが、新しい概念が得られておらずこれに基づく運動が提示できない以上、これしかやり方はない。そして誰もが欲している未来の社会像を訊かれても、今迄でのように、日本共産党綱領に書いてあるような、未来像の一部の属性を語るだけの抽象的な答えでごまかすか、資本主義を改良するのが答えだと言うしかない。
 そうでなく、所有に代わる新しい概念が得られれば、資本主義の発達度合いに関わらず、その新しい概念に基づいた「革命」は、始められる。座談会第一日目で紹介された「社会構成体は、すべての生産力が発展しきらないうちはけっして没落しない」http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-10-11/2013101108_01_0.html
という命題の持つ問題はありますが。
 
 この努力をしないで、表向き左翼的言辞を振りまき、資本主義の恩恵を十二分に享受しながら(今のネット環境も、安くなったパソコンも、全く資本主義の恩恵です)資本主義の悪口を言うだけなのは、人の態度としても褒めたものではない。
 言い過ぎかもしれませんが、これは、「マルクス主義者」と左翼が問題にしてきた、「利潤第一主義」が生んだ問題を解決することと、「利潤第一主義」に代わる、経済発展(または社会発展)に対する「人を駆り立てる」推進力を求めることを同時に行わないと、どちらの問題も解決できない段階に、今はなっている、ということの粒度を代えた表現です。

 「利潤第一主義」といい、所有に代わる概念といい、今の問題は、直接、間接を問わず、労働から出てきたものです。不破氏の今回の言は、労働軽視どころかこの労働の無視に等しい。所有に代わる価値、それに基づく労働が自由を実現する、というのは僕だけかもしれませんが、労働が自由を実現するということ自体、不破さんは賛成でないようです。
(そう言えば、ドイツイデオロギーにも、一か所「労働をなくす」という表現が出てはくるのです。ここの労働は苦役というくらいの意味だろうと思います)
 労働に対する態度(と所有に代わる概念を作ろうとすること)、国家の相対化、地球に対する態度、原発に対する態度、の四つが共産党、左翼の問題と思っています。緑の党の文書に「持続可能社会を作る」という表現がありましたね。反原発は変わらなかった。

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