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家系の話(6)

 6 村田家と村田一男

 妻の村田家について語る。とはいっても村田家については少しだけ。ほとんど村田一男のことになる。この人物の人生は、読者に提供する価値があると思う。
 村田家は大津の膳所である。幕末、膳所には牢獄があり、京都で捕まった維新の浪士たちが監禁された。浪士たちはインテリである。当時村田の当主は牢番を務めていて、浪士たちから川柳を教わり、やがて川柳で名を成す。これが村田家の祖先である。
 村田一男も親を早くに失い、妹と2人残された。少年期のことはよく分からない。明治末、啄木が死んだ頃に生まれている。多喜二が殺された頃が学生時代であろうか。警察に踏み込まれて下宿を荒らされたことがあるという。いつの話か聞き漏らしたが、そのころのことなのだろう。苦学して、毎日新聞の記者になった。
 話の多くは戦後のことである。30代半ば、すでに3人の子持ちだったところへ末っ子として妻が生まれた。当時左翼の文化活動が盛んで一男は京都の文化人たちの組織化で走っていた。田畑シゲシが親友であった。田畑シゲシは田畑忍の弟である。田畑忍は同志社の憲法学の権威で、土井たか子の恩師だ。兄、忍はいかにも学者然とした紳士であるが、弟は共産党の活動家で、のちに衆院京都二区から何度も立候補するが、常に落選し、寺前巌に替ってから当選した。兄と正反対のやんちゃ坊主で、大酒飲みであった。一男もそうだったのだ。
 ある日、酒を飲みたいが金がない。二人で兄忍の書斎からめぼしい本を運び出し、古本屋に叩き売って酒代を作った。後年、ぼくにそれを語ったときの一男は、無邪気な懐かしさと、いくぶんかのうしろめたさを交えつつ、でも、愉快てたまらないという顔で笑った。。そのシゲシはアルコール中毒で死んだ。
 この話は戦前のことのようにも思える。戦後はすでに所帯持ちの30代であるから、戦前の20代の話と考えたほうがふさわしいだろう。
 レッドパージの時、上司から「おまえの名前も挙がっている。しばらく身を隠せ」と言われて、福山支局に転じた。妻はそこで霞幼稚園に通った。ぼくはたぶんその翌年福山に来て霞小学校に転入した。そのとき妻もいたのかどうかこれも不明である。酒飲みの一男はすぐ誰とでも友達になる。福山ではちょっと名の知れた常石造船の神原社長とも親しくなった。
 そののち大津支局にいたとき、ゼノが訪ねてきた。ゼノ神父と呼んでいるが、実際は神父ではなく、修道士である。カトリックの身分差別は徹底していて、修道士は死ぬまで修道士で、そのあいだに神学生が神父になって追い越していく。ゼノは長崎でコルベ神父のもとにいた。コルベ神父は祖国ポーランドに帰ったのちナチにつかまりアウシュビッツで自ら人の身代わりとなって殺された。
 戦後ゼノは日本に残って戦災孤児の救済活動に身をささげた。支局に入ってきたゼノは一男をつかまえ、「おい、おい、ぼうや」と呼びかけたという。自分の活動が載っている新聞記事を拡げて、「かわいそうな子供たちのために施設を作りたいのだ」と訴えた。これがゼノの手なのである。活動しては新聞で報道させ、その記事を宣伝に使って次の活動資金を集める。
 一男はこれに共鳴した。福山の神原社長が頭に浮かんだ。さっそく交渉し、神原社長に土地を提供させた。こうして福山にゼノ少年牧場が生まれた。知恵おくれの子供たちのための施設である。
 この間に村田一家はバブティスト派の洗礼を受ける。自宅の眼の前に教会ができ、子供たちが遊びに行くので自然とそうなったのだ。
 何年か経って、一家は岡山に転居した。妻はそこで高校生活を送った。田町の教会の牧師館に住んだという。定年を迎える前に最後に希望地で勤務させてやると言われた一男は福山を選んだ。福山支局長で定年になり、岡山で新たにテレビ局を開設するので手伝えという話が来たが、一男はゼノで働くことを選んだ。というのはゼノは建てるには建てたが経営が全くうまくいっていなかったのである。
 こうしてゼノ園長としての一男の活躍が始まる。要するに金を集めねば成立たない。金を集めるにはしっかりした企画を立てることなのである。船舶協会にせよ、どこにせよ、審査があるし、いい加減なところに金は出さない。一男は次々と先を読んで新企画を打ち出し、ゼノを再興した。
 以上が村田一男の話である。
 ぼくは自分の人生がままならず、誰とも深く交わらずに過ごしてきたが、いま思うと、彼はぼくのいちばんの理解者だった。プロレタリア文学集を購読しているというので、そんなもの読むのかと思っていたら、全巻そろったときぼくにプレゼントしてくれた。共産党で、しかも小説を書いているからには、ふさわしいプレゼントだと思ったに違いない。
 じつを言うとぼくはプロレタリア文学に興味がなかったし、当時すでに共産党も小説もやめていた。
 それでも、だからこそ、それは彼の、ぼくへの遺言だったのかもしれない。
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