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家系の話(5)

 5 石崎家

石崎系図

 菅沼、安東、野村の話で長引いて、やっと石崎まで来た。石崎は地味な家でたいして面白い話もないが、日本の家制度について多少参考になるかもしれない。
 石崎は金沢藩士である。もっとも根拠地は富山だったようだ。富山は金沢藩の支藩であるから、そこに仕えていたのかもしれない。
 石崎をネットで調べても武家の石崎は出てこない。富山の庄屋が何軒か出てくる。高度成長期に農家の次男がサラリーマンになったように、徳川の体制がかたまる前には、庄屋の次男が武士になったのかもしれない。
 その程度の家である。
 この家の系図が明らかになったのは、大正か昭和の初期に印刷された小冊子が残っていたからだ。
「名探偵石崎義忠翁」という薄い冊子である。母からもらったが、ぼくはそれを失くしてしまった。弟がいまも保有している。ぼくの曾祖父について誰かが書いてくれた本である。その本の冒頭に、前田利家の時代からの石崎家の系図を載せていた。
 本の内容は、富山県警刑事だった義忠の数件の捜査記録だが、記録というよりも読物ふうになっている。犯人を特定するのは推理ではなく勘で、人情を持って説諭して自白させるというおよそ前近代的なものだ。実際には拷問したのかもしれないが、そんなことは書いていない。それよりも犯人が犯行に至った経過の方に分量をとっている。それはひとつの人情噺として読める。コナン・ドイルの「恐怖の谷」に似通った構成で、その意味で面白いと思った。
 義忠は幕末に生まれた。父親は堀氏である。母親が石崎で、石崎に後継者がいなかったので、祖父を継いで石崎となった。堀氏の方がかなり家格が高かったようだ。
 野村と木庭の場合に見たように、孫が家を継ぐというケースは普遍的だった。
 じきに明治維新である。失業した武士の最も一般的な就職先が警察だった。よくわからないのが、義忠がいったん石崎を継いだのち、これを母親に返し、あらためて石崎の家を起こしたと書かれていたことである。これがどういう意味があったのかがわからない。
 彼には一雄と二郎という二人の息子がいたが、二郎は死んでしまった。一雄は東京帝大を工学士として卒業し、大坪から妻をめとった。そしてこれもあっけなく死んでしまった。おそらく20代半ばであろう。盲腸炎だったという。大正時代の話である。
 妻の腹の中に子が残った。これがぼくの父、籌夫である。カズオと読む。つまり親子で同じ名前である。
 かつての日本では、親子代々同名というのは珍しくなかった。もっとも成人前は幼名を名乗る。そして何度も名を変える。最終的に父親の名を受け継ぐ。
 ヨーロッパでは親子同名はむしろ普通である。ブルボン家など、父、子、孫のみならず兄弟まで全員ルイだったりする。ルイ以外の名前が存在しないかのごときである。そこで国王の名前には番号をつける。ルイ1世、ルイ2世というふうに。
 しかし近代に入ってからの日本で親子同名というのは珍しいのではないか。期待をかけていた一人息子が早く死んだために、義忠の期待が孫に移ったのであろう。義忠が一雄のために作った墓が金沢の前田家墓地のすそ野にある。我家の唯一の墓である。
 こうして籌夫は父親の死後生まれた。母親は佐伯という医学博士と再婚して、台湾へ行ってしまった。籌夫は母親の兄弟に育てられることになる。これは字義通り養子である。だが日本の法制度ではこれをむしろ養子とは呼ばない。何故なら姓を変えなかったからである。石崎家の唯一の生き残りであるから、石崎を捨てるわけにはいかないのだ。日本では養子という言葉がとても観念的なものに変質しているのがわかるだろう。
 この大坪の家には女三人、男二人が生まれた。男は二人とも籌夫より年下である。大坪の出は九州であるようだ。豊かな家で、籌夫は幼稚園へ行くのを渋って女中に背負われて通った。この家がどこにあったのかが分からない。両親の会話にしばしば沼津が出てきたので、そこだったのか、あるいは関東大震災のとき、籌夫はまだ7歳だが、どこやらからどこやらまで一人で歩いて帰ってきたという話があったりして、よくわからない。
 大坪家の父親は、日米開戦直後大洋丸という2万トンの豪華客船で南方方面に派遣される途次、撃沈されて死亡した。南方産業開発のための産業団で、軍の指名で三菱鉱業から派遣され、シンガポールとマニラに分かれ、彼はシンガポール組の団長だった。たまたま護衛の軍艦が離れていた時だったという。
 中学校は富山へ帰った。すでに義忠は亡かったが、祖母が残っていた。この祖母にはなじめなかった。
 そして京都の高等工芸(現在工芸繊維大学)に入学、幸代と巡り合う。卒業後は足利で工業学校の美術教員となった。繊維デザインが専門である。その後徴兵されて習志野の高射砲部隊に所属し、戦後は京都に帰って、織物会社に勤務。ここで組合書記長に祭り上げられストライキを打って退職、十日町の工業試験場のようなところへ行き、のち福山に移って同じ職に就く。
 後半生は平凡を絵に書いたような人生だが、その生い立ちは、日本の家制度との関係で多少のヒントが含まれていよう。
 もうひとつ、籌夫と幸代の結婚である。一人っ子どうしである。戦前の日本では極めて例外的なケースだ。これが可能になったのは、幸代の父三省が次男であり、しかも分家せずに、菅沼本家に籍を残していたからなのだ。
 法的にはそれで可能なのであり、心情的には、勤め人としての三省に継承すべき何物もあるわけではなく、家という意識が希薄だったのであろう。
 見てきたように、石崎の家は幕末からただ一本である。だからぼくには石崎を名乗る親戚はいない。それを探そうと思ったら江戸時代までさかのぼらねばならない。
 また両親とも一人っ子なので、我々兄弟にはイトコと呼べるものが一人もいない。マタイトコは大坪、菅沼、野村に大勢いるが、誰とも付き合いがなく、最近になってやっとマタイトコの一人と付き合いができた。彼女が啄木の話を教えてくれた。
 京都の家は北区小山上板倉町47。ここがぼくの少年時代の本籍だったので、まだ記憶している。烏丸車庫のすぐ裏手である。もっとも市電が廃止されて、もう烏丸車庫もない。ぼく自身の出生地は一乗寺下り松町になっている。習志野から帰ってそこを一家の住まいとしていたのだろう。いまでも一乗寺下り松町という地名が残っている。
 板倉の家は、借地の上に自前で建て、のち、祖母美代が二階でずっと一人暮らしをして、一階を人に貸していた。美代にはたぶん三省の遺族年金があったのだろうが、本人は謡を教えていた。この人についてもぼくは何も知らない。

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