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家系の話(1)

 1 菅沼・安東、そして「家」という奇妙な制度について

 家系の話は、有名人が対象でないかぎり、身内にしか興味のないものである。したがってここに書くのは、我が家の誰かが将来関心を持った時のための、備忘録でしかない。それでも公開しようとするのは、ひとつにはどこかで縁のある人の眼に触れるかもしれないという微かな希望の故であり、いまひとつは、民俗学的観点から多少興味ある内容が含まれているのでは、と思うからだ。
 その意味では、母方の祖父の家系をいちばんに書くべきだろう。
 母は幸代、その父親は菅沼三省である。菅沼家の家系図が明らかになったのには事情がある。
 陸軍大将安東貞美が台湾総督となり、男爵を受けることになったとき、関係官庁が安東の家系を調査した。すると面白い事実が出てきた。安東と菅沼とは、生物学的には一本の系統でありながら、世代ごとに交互に安東と菅沼を名乗ることで二つの家を伝承していたのだ。
安東系図
            
 安東に子がないと菅沼から養子に入り、菅沼が絶えれば安東から養子に行くという具合で、見かけ上二軒の家があるようでいて、生物学的には、父、子、孫が菅沼、安東を繰返しているだけである。
 柳田国男がこれに関心を示して何かの本に書いているそうだが、何の本か分からない。柳田も実は菅沼の一族なのだが、国男自身は他家から柳田に養子に入ったのである。
 なお菅沼の初代は竹中半兵衛の孫になっているが、事実かどうかは分からない。
 ぼくが面白いと思うのは、これが日本独特の家制度そのものに見えるからだ。財産と職業とが家によって相続されるので、家というものは絶やしてはならない。女性には相続権も家長権もないので、養子という形をとる。生物学を無視した架空の家系図ができあがる。
 この家系では一族が継いでいて婿養子かどうか不明だが、婿養子が一族で繰返されたとしたら、遺伝学上あまり芳しいものではなかっただろう。
 普通は一族以外から婿養子が来る。この婿養子という制度はたぶん日本だけのものだろう。
 語源的には、親を失った子を引き取って養うのが養子である。成人が養子になるという制度は外国人には理解できないのではなかろうか。日本では親より年長の養子があったりする。徳川の家系図などそうである。家茂が死んだとき20才、その時その養子となった慶喜は29才である。年下の、しかも故人の養子になるというのもおかしな話だが、そうしなければ将軍になれなかったのだ。しかも水戸から一橋の養子となり、さらに徳川宗家の養子となる。水戸は御三家の中では格下でそのままでは宗家の養子になれなかったからなのだ。
 イギリスの王家は何度も王女の子が継いでいるが、子は父親の姓を名乗るので、そのつど王家の姓が変わる。プランタジネットからランカスター、ヨーク、チューダー、スチュアート、ハノーバー、サクスコーバーグという具合である。
 一方、中国の李鵬は周恩来の養子だが、周鵬ではなく李鵬である。中国では姓と名とは一体不可分のものなので、養子に行っても変えるわけにはいかないのだ。もちろん結婚しても変えない(男も女も)。
 この家という制度がかたまったのは、おそらくそんなに古いことではない。これは武士の制度だが、武士の出身は農民なので、農家の事情が背景にある。一家が食べていくので精いっぱいの土地を分割することはできないので、長男一人が相続する。跡継ぎのない家は老後の生活保障のために婿養子を迎える。それはまた次男坊以下の就職口でもあるのだ。
 こういう習俗を受け継いだ武士社会にはまた特有の事情があったわけで、徳川の支配がかたまってしまうと、武士の就職先も限定される。一軒の家にひとつの職業を代々与えることで、体制を安定させたのであろう。
 こうして日本社会では、家が特別の意味を持つ。それは財産であり、職業であり、身分であり、また社会保障でもあるのだ。
 そして家系図は血統を無視し、家という抽象的な形で語られることになる。家系は生物学から観念の世界に移るのである。
 ちなみに、日本古代社会では、こういう制度はまだ確立されていなかった。基経は良房の養子になったが、それはたんに良房に男の子がいなかったからで、もちろんそれは基経の出世に有利にはなったが、地位がそのまま継承されたわけではない。この時代、財産の相続権は女性も含めて分割である。もちろん公平にとはいかないが。財産を持った女性はそれなりに影響力を持っていた。地位も職業も相続されるわけではない。実力で奪い取らねばならない。兼家の四男に生まれた道長は、兄たちの早死にも助けられたが、兄の子供たちとたたかわねば権力の座を維持できなかった。
 北条氏は代々の執権を独占したが、親から子へと相続したわけではない。一族のなかで力あるものが執権となったのだ。別に養子になったわけではない。
 余談だが、夫婦同姓が日本の伝統であると言われていることについて、ぼくは疑問を持っている。源頼朝の妻は平政子であって、源政子ではない。
 ここで北条政子と言わず平政子というのはそれが正しいからである。そもそも氏というのはあだ名のようなもので、正式には姓(かばね)を名乗る。姓には源平藤橘以外にもあるが、平安貴族の閉鎖社会でその四姓が官位を独占し、同姓が増える中で、あだ名(居住地の地名であることが多い)が氏となっていった。中世以降、その傾向が定着する。(もっとも、公家社会では家と称する。近衛家、九条家というふうに。氏は一段下の名称であろう)。武士たちには姓などないが、権威づけのために四姓を偽称した。氏を名乗るのは男子である。女子は姓を名乗る。氏はあくまでも男の属性なのだ。
 日本史上夫婦同姓はいつごろ始まったのだろう。ぼくは明治時代にヨーロッパから輸入したのではないかと考えている。それ以前に夫婦同姓などあったのだろうか。これは知っている人の教えを乞いたい。
 ことのついでにもうひとつ書きたい。
 天皇家が万世一系だとか、Y遺伝子がどうだとか言われているが、ちゃんちゃらおかしい。源氏物語を読めば、平安社会はほとんどフリーセックスであって皇后も例外ではない。まして天皇の母はしばしば皇后以外の女性である。鳥羽の子ということになっている崇徳が実は鳥羽の祖父白河の子で、鳥羽にとっては叔父にあたるということは当時誰もが知っていてそれで保元の乱が起こった。この場合、いずれにせよ天皇の子であるからおおっぴらにもなりえ、またY遺伝子も関係ないのだが、隠された事情がどれだけあったか知れたものではない。遺骨が御陵に残っているのなら、DNA検査をしてみればよいだろう。
 桐壷帝の子とされている冷泉院の父親が実は光源氏で、光源氏の子とされている薫は実は柏木の子である。桐壷は冷泉がわが子でないとは知らなかったが、源氏は薫が柏木の子であることを知りながら、わが子として育てた。しかもそのときの源氏は天皇をしのぐ権力者である。
 こういう小説を時の権力者をはじめ貴族社会が喜んで迎え入れたということは、そういうことを許す風潮があったとみるべきだろう。
 武士社会が持ち込んだ儒教道徳はまだ存在せず、貴族階級に限っていえば、あの社会ははるかに現代社会に似ていたのである。
 話が我が家の家系からどこかへ飛んでしまったが、ほんとうはこういうことが書きたかったのかもしれない。ここでは家という奇妙な制度とそれにまつわる話を書きたかったのだ。日本の伝統と呼ばれるもののいい加減さも書きたかった。菅沼と安東とがそのきっかけとなった。


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