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まがねとおる

Author:まがねとおる
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盗 難 1

 六月も半ばを過ぎたが、雨は降らず、蒸し暑い日が続いていた。午後からは脱ガスの地金切りなので、津川は自動販売機で四人分のポカリスェットを用意した。班長というのは、安月給で出費ばかり多い職責だ。それでも部下を熱中症で倒れさせるわけにはいかない。なりたくてなった班長ではないが、順番だから仕方がない。まあ、作業長にならなかっただけよかったんだろう。作業長の御厨は胃癌になって胃を全摘出してしまった。やっと回復して出てきたが、彼の休業中は親会社の事務所まわりまでさせられたのには往生した。人付き合いが嫌いだから選んだ職種なのに、五十代半ばにもなって、いまさら営業まがいのことをやらされるとは思わなかった。
 だが、御厨が胃癌になったのは、わしのせいでもある、と津川は思った。わしがマイペースで必ずしも御厨の意に沿わないので、彼奴は板ばさみになり、あのスポーツマンが胃を病むにいたったのだ。だとしても、わしの知ったこっちゃない。こちとら十二名もの部下を持たされて、しかも入れ替わりが激しくて、何でもできる人材がいない。出作業は自分が中心になるしかなく、ほとんど毎日出作業で、その合間に納期に追われながら複数の製缶作業をこなしている。とても全体の作業を把握する余裕なんてない。それぞれの仕事は各自にまかせきりになってあたりまえだ。多能工化ができていないというが、そんな余裕がどこにある。高卒者を、一年かかってどうにか使えるようにしたと思ったら、よその職場に取られていく。でなければ退職していく。十年間そんなことを繰り返して、わしの職場はまるで職業訓練所のようなざまなのに、多能工化だと?
 それでもわしが自分の班の全体を把握できないので、御厨は神経の休まるときがないのだ。
 「現場の班員は五人が限界じゃ」津川は御厨に何度も言った。「特に、いまのようにわしが走りまわるしかないような状況ではな。もうひとり班長を作って、二つに分けてくれ」
 だが班長になる人材がいない。交替勤務をしている三ヶ班が重視され、相対的に軽視されている常昼班は、次々と中途退職していく交替勤務班への人材補給源でしかないのだ。いい加減な人間を交替勤務に送り出すわけにはいかず、結果として、残りのいい加減な人間の、吹き溜まりになっているのが常昼班だ。
 その班長がいい加減な班長であっても仕方ないではないか、と津川は思う。彼は開き直っていた。別に手を抜いているわけじゃない、だが人間の能力には限界がある、できんことは出来ん、そこまでわしは責任もてない。
 十二人いれば、毎日平穏なわけじゃない。むしろ毎日誰か彼かが問題を起こす。わしの采配に誰もが満足なわけじゃないが、それでもなんとかみんなを働かせている。
 帰宅したらしたで毎日のように書類作りだ。罫線のやたら多い書類は、いったんフォーマットを作ってしまえば楽だが、次々と新しい書類が必要になる。このフォーマット作りに苦労し、ある日、娘が、
 「これ、ワードじゃなくってエクセル使えば簡単よ」
 と言って、一種類だけだが、あっというまに作ってくれた。以来エクセルを使っているが、それも慣れるまでは苦労した。打った文字や数字が勝手に変なものに変換してしまう。どうやってもこっちの打ったとおりになってくれない。いろいろやってみて、そういう設定がされているので、それを外せば思いどおりになるのだと、やっと気づいた。
 そんなわけで、しばしば、朝二時間ほど寝ただけで出社し、手すりもない高所で高熱作業に従事したりもした。
 それでも、胃癌になったのが御厨で、わしでなかったのは、わしが、できないことは出来ないと開き直っているからだ。わしは自分が神経質なタイプだと思い込んでいたが、こんなめちゃくちゃな状態にもあっさり慣れてしまえるところを見ると、案外ずぼらな人間だったのかもしれない。
 これは日ごろ津川の考えていることで、いま、言葉どおり考えたわけではないが、およそ、そんな思いを抱きながら、自動販売機からポカリスェット四本抱えて、工場に帰ってきた。工場に入って十歩もいかないうちに、呼び止められた。
 「津川さん、ちょっと」
 すぐそこの詰所から、たまたま出てきたばかりの丸井が小走りに駆け寄る。津川も背の高いほうではないが、丸井はもうひとつ小さく、そのくせ顔ばかり大きい姿態は、ディズニー漫画のジミニー・クリケット、あのシルクハット被ったこおろぎにそっくりだ。津川は立ちどまる。丸井はちょっと周囲をうかがうようなそぶりを見せて、津川の耳に口を寄せてきた。本人は小声で言ったつもりだろうが、そんなに小さな声ではなかった。
 「津川さん、安俣は手癖が悪いとか」
 「どういう意味じゃ」
 丸井はまた周囲をうかがった。まだ昼休み中なので、工場には人影がなかった。
 「先週、安俣と二人で土曜出勤したたい。急ぐ仕事があったけん」
 安俣は丸井の班ではない。津川の班だ。また勝手に使ったのか、やれやれ、と津川は思う。
 「おれは土日に金がいるけん……カラオケの付き合いがあるっちゃね……金曜日に金をおろして、車のダッシュボードに入れとくたい」
 丸井は津川より年上だが、一人暮らしなのを津川は知っていた。
 「その金が土曜日に失くなった」
 「いくらじゃ」
 「五万円」
 「そりゃ大金じゃ」
 ちょっと土日の小遣いが五万円……まあ、一人身だから食料の買出しもあろうし、一週間分の生活費なのかもしれないが、津川のとんと握ったこともない大金を簡単に車に積んでおく丸井が、うかつにも思えれば、うらやましくも思える。丸井は製鉄所からの出向者で、下請会社タチバナの社員である津川とは年収に相当な開きがあろうし、今後もらうことになる退職金は一桁違うだろうし、生涯年金にも雲泥の差があるだろう。
 「ここで失くなったたい。それしか考えられんけん」
 「ロックしとらんのか」
 「ロックはしとる。それがなあ、津川さん」丸井は飛び出したまん丸い眼を見開き、歯並びの悪い口元をゆがめながら、話し続ける。「キーをひょっとして失くしちゃ困ると思ってな、予備キーをいつも机の引き出しに入れてるんよ。それも失くなった」
 「じゃ、犯人はわからんじゃないか」
 「でもよ、外から誰か入ってきたとして、それがどの車のキーかわかると」
 工場の外は駐車場になっていて、百台近い車が停まっていた。土曜日はそれほどでもなかろうが、それでも数十台は停まっているはずだ。
 「もっともじゃ。で、安俣はその予備キーのことを知っとったんかい」
 「あいつには何度も土曜出勤を頼んでるし、昼休みもよくうちの詰所に来とったけん、知る機会はあったろうと思うたい。ほかの可能性が考えられんけん」
 「でもそれだけじゃ証拠がないな」
 「ほかにもあるたい。安俣を家まで送ったことがあるのや。ここからハウスまで乗せていき、おれが風呂へ入る間、安俣が車で待っとった。そしたら、金が失くなっとったよ」
 「それは決定的じゃ。いつの話だ」
 「さあ、かれこれ、ひと月かな」
 「どうしてすぐ言わんのじゃ」
 「たしか一万数千円やったし、はっきりしなかったし、まさかと思ったし……」
 「最近ロッカー室で何人かやられとるんじゃ。みな風呂へ入っとる間にやられる。前にも何回かあったが、こういうことは断続的に起こる。これはほっとけん。わしの班員だから、わしが何とかする。しばらく黙っとってくれ」
 「まかせるよ。惜しい金やないが、今後のことがあるけんな」
 丸井はいま初めて気づいたように、津川の抱えるポカリスェットを指差した。
 「ずいぶん買いこんだな」
 「いまから出稼ぎじゃ。焼けたフライパンの上でな。これは四人分じゃ」
 丸井と別れて、工場の中ほどにある自分たちの詰所に向かいながら、「五万円が惜しくないだと? 畜生、お金持ちのやもめ野郎め」と津川はうめいた。だが、もちろん、丸井は見栄でそう言ったのかも知れなかった。
 十二人いても、出作業にいけるメンバーは限られている。出向者が出れないわけじゃないし、現に交替勤務にも出向者は大勢いて、彼らは製鋼中を昼夜出歩いているのだが、津川の班の野村は課長と交渉して出作業を猶予されていた。製鉄所との契約がそうなっているというのだ。彼は早い時期の出向者で、四十代で出向して来た。製鉄所の班長の資格を持っていた。彼以後の出向からはその条件が外されたが、その事情を他の出向者に理解してもらうのに、津川は苦労する。
 天井クレーンの運転手は連れて出るわけにはいかない。他にも運転手はいるが、ほかの仕事の出来ない彼が、結局専属で運転しており、いちばん慣れているのだ。仕事ができないということが、現場ではしばしば有利に働く。この不条理は、津川を面食らわせる。
 よその現場に張付けで入っている二人は、その現場から抜くわけにはいかない。離れた現場なので、その現場まで津川の管理下にあることに、津川は割り切れない思いだ。もちろん普段はほったらかしだが、彼らがまたしょっちゅう問題を起こすので、そのつど津川が対応せねばならない。なぜ彼らをちゃんと管理しないかと御厨はうるさいが、知るもんか、面倒見る暇なんかありゃしない。
 納期に追われているいくつかの作業の従事者は、どこにも引っぱっていけない。結局残るのは新米ばかりで、彼らをつれて焼けたフライパンの上の作業をするのは津川だ。
 大島工業からの派遣社員である、安俣と有家、今年高卒で入ってきた岡野を連れて出る。最近急に派遣が入ってくるようになった。津川は課長に文句を言った。
 「いつまでわしが現場を引っ張らなならんのじゃ。定年が近づいとるんぞ。後継者を養成せなならんというのに、派遣ばかりじゃ、どうにもならんじゃろうが」
 「時代がそうなっているんだよ」と課長が答える。「どこも正社員は少人数で、派遣でやってる。いつまた不況が来るかわからん。正社員は簡単には切れないんだ」
 「簡単に切ったじゃないか」
 数年前の不況時に、仕事はこなしきれないほどあるのに、本社の命令で、割り当てられた人数を切ったのだ。切ったうちの何人かは大島工業に引き受けてもらって、派遣社員として、結局同じ仕事をしている。
 「簡単に切ったわけじゃない。苦渋の選択だったのだ」
 何を言いやがる。遠方にある本社に現場の実態を理解させる能力がないだけじゃねえか。それどころかてめえらが、現場の実態を把握できていないんだろう。
 安俣は二十代後半、背は低めで、丸顔、近眼でメガネをかけているが、そのメガネがえらく小さい。
 「安俣、そのメガネはよくないぞ。現場は埃がする。眼をやられるぞ」
 「顔が小さいので、大きなメガネは似合わない」
 似合おうと似合うまいと、どうせもてるような顔じゃないじゃないか、と津川は思うが、口に出しては言わなかった。ところが十代で一度結婚し、別れたが、別れた先に、すでに年かさの子供が一人いるのだという。うちの会社には男前だのに、四十になっても結婚できないやつがいるかと思えば、世の中わからんもんだな、と津川は思う。春先に入ってきたが、鍛冶屋の仕事はそこそこ経験しているようだ。両親も離婚し、祖母と、どこかの工員をやっている父親との三人暮しだと聞いた。
 有家は四十代、昔、高卒でタチバナに入ってすぐにやめたが、津川は面識があった。去年の秋に入ってきた。
 「津川さん、大島工業に入って、まさかまたタチバナに来ようとは思いもよらんじゃった。人生、わからんな」
 「どう、しとったんか」
 「長距離トラックに乗っとったんじゃが、いい加減しんどくなったんでやめたんよ」
 有家はそう言ったが、うかつには言えない事情が何かとありそうに感じられた。息子が遠方の大学へ行っていて、金がいる、家のローンもまだ残っているとかで、やたらと残業したがった。鍛冶屋の腕はいいし、運転手だけあってフォークリフトも馴れている。体力もあった。
 高卒入社の岡野は、ちょっとおとなしすぎて、現場に向くかどうかわからない。まあ、いまのところはまじめに言うことを聞いた。
 ポカリスェットを一本ずつ配って、防塵マスクと皮手袋をそれぞれ持って、Wトラックで出る。歩けない距離ではないが、車があいているのだから、歩くこともないだろう。
 車を降りると、階段を延々と登る。フロアが入組んでいるので、何階という表現は難しいが、各階の天井がべらぼうに高いので、普通の建物なら、五、六階か、もっとあるかもしれない。九階まである転炉にはエレベーターがあるが、脱ガスにはない。踊り場が二つほどあって、延々と登る。この階段が最近の津川には苦痛だ。運動靴ならまだしも、爪先に鉄の入った安全靴はずっしりと重たい。膝も言うことを聞かないが、胸が息苦しくなってくる。はじめのころは道具を抱えて登っていた。ちょっとした荷物が馬鹿にならない。登るほどにこたえてくる。いまは現場に専用の道具箱を作ったので、その分は楽になった。
 操作室に入る。クーラーがよく効いている。ほっと一息ついて、汗を拭きとる。付属の小さな詰所に入り、冷蔵庫にポカリスェットを入れる。
 そこそこ広い操作室の、ずらっと並んだ計器の前で、三人ほどがOCの画面とモニターテレビを見ながらキーやハンドルやボタンを操作している。ときどきスピーカーが何かしゃべる。一人がマイクに向かって何か言う。防着を着た一人がヤットコ風のものに、テスト用のサンプルの鉄片をはさんで一方のドアから駆け込み、反対側のドアから駆け出して行く。
 「指示書書いてくれ」
 いちばん手前に坐ってキー操作している班長に津川が言った。
 「ちょっと待ってくれ」
 班長の小寺はOCを見ながら鉛筆でなにかメモしている。四十代にはなっているはずだが、背が高く、引き締まった体と、若々しい顔をしていた。津川は片側のテーブルの前に坐って、タバコに火をつけた。小寺が立ち上がり、書類棚から指示書を取り出してきた。
 「お、若い人がいるじゃないか」片隅に立ったままの岡野を見て言った。
 岡野を連れてきたのははじめてではないが、オペレーターは四ヶ班で三交替しているので、小寺は顔をあわせたことがなかったのだ。
 「今年入社の岡野じゃ。よろしくな」
 「メンバーが次々変わるのに、津川さんだけは変わらんな」
 「もうじき消える」
 「もう定年か? まだだろ?」
 「いつまでもおるもんか」
 「ははは。おれの札もかけといてな」
 指示書と禁止札を受取ると暑い現場に出て、さらに階段を上がる。途中のフロアで電源を落とし、札をかける。本来はオペレーターがせねばならないのだが、その暇がないのだ。さらに上がる。いくらか見晴らしのよいところへ出た。ここから上にははるか頭上の天井しかない。しかしヤード中央部の操業位置には天井にせまる程にやぐらが組みあがり、ランスの昇降装置や、合金の投入装置が設置されていて、見晴らしを邪魔している。いま津川たちがいるのは北側の予備槽の停止位置だ。眼の前にあるのが巨大な脱ガス槽の一番上の部分で、上蓋と呼ばれている。大型の扇風機をまわす。そこらじゅうに積もったほこりが一挙に舞い上がって、しばらくは何も見えない。足元は埋まるほどのほこりの層だ。スイッチ操作してランス口を開け、熱風遮断用の窒素バルブを開ける。スイッチを切って札をかける。
 「津川さん、ジェットランスがあんまりないぜ」と有家が酸素ホースを引っぱりながら、言った。
 「上げるから、段取りがすんだら、やっててくれ。防火水もやっとけよ。岡野は足元悪いから気をつけてな」
 津川は操作室に駆け下り、天井クレーンのテレコンとフォークリフトのキーをとる。
 「パイプが空じゃ」
 「おお、悪いな」と小寺が言った。
 ドアの外の道具箱からワイヤーロープを取り出し、それを担いで南側の階段を一番下まで降りる。そこにフォークリフトと予備のジェットランスが置いてある。フォークでランスパイプを一束掬い上げ、ヤードをぐるっとまわって北の端まで運ぶ。脱ガスを迂回するので、隣のヤードを通ることになり、溶鋼満杯の取鍋を吊ったクレーンが通るときは待機するしかない。運よくクレーンは通っていない。道は薄暗く、狭く、でこぼこで障害物が多い。ランスパイプは二メートル半あるので、ぶつけないように運ばねば、ひっくり返してそこらじゅうにぶちまけ、下手をすると装置を壊して操業を止めてしまいかねない。慎重に運んで、クレーンの届く位置まで持ってきた。クレーンのフックを降ろす。天井がはるかに高いので、フックはなかなか降りてこない。巨大な脱ガス槽の下部槽が眼の前にあり、二本ぶら下がった直径一メートルの浸漬菅から、火の粉が落ちていた。有家が仕事を開始したのだ。
 脱ガスの天井クレーンは南北に行き来するが、障害物が多いので、南で吊り上げて北に持ってくるのはかなり厄介なのだ。せまいところを通さねばならず、しかも目視できない場所である。結局フォークで横持ちするのが安全で早いのだ。
 頭の上まで巻き上げて、階段を上がる。津川の苦手な階段だ。若いころは階段なんか苦にせず駆け上がったもんだが……。一番上まであがり、今度は上からクレーンを操作する。なんとかパイプ棚に収めた。テレコンを首から外し、すみに置いて、上蓋に上がる。そこはせまく、いろんな装置がごちゃごちゃとあって、足元が悪い。手摺は取外し式の手摺を津川たちが作ったが、取り付けにくいところはあとまわしになって、いまだに開けっぴろげのままだった。
 「どうだ、ぎょうさん付いとるか」
 「簡単、簡単」と有家が言う。
 「おまえの簡単はあてにならん。しっかり切っとけよ。苦情を言われるのはわしじゃ」
 「くそ熱いのに、丁寧にしてたら、終わらんぜ」
 有家は持ち前の太い声をさらに張り上げてどなった。マスクをしている上に、巨大な扇風機の音、熱風遮断用に吹き込んでいる窒素の音、さらに酸素で地金を切断する音で、声が届きにくいのだ。そのうえ操業中のやぐらのほうから合金が移動する音や、電磁弁でドアが開閉する音、さまざまな耳障りな音が響いてくる。こういう現場ではもともと乱暴な口調が、お互いさらに乱暴になる。
 有家と安俣が地金を切断しているランス口を、横から覗き込む。直径三十センチほどの小さな穴から、上蓋内部に付着した地金を切断するのだ。かなり付いている。
 「まあ、できるだけ丁寧に切れ」
 切る個所は四ヶ所ある。このランス穴と、合金シュートが二ヶ所、それに回転盤と呼ばれるのぞき穴だ。四時間で終わらせなければ残業になる。槽は予備槽だが、予熱していたので、焼けている。この熱いフライパンの上で何時間も重労働をしたくはない。
 脱ガスは文字通り、溶鋼から窒素などの不純ガスを抜き取る装置である。三つある転炉から、次々取鍋に移されてクレーンの届く位置まで台車で移動したのち、クレーンで運ばれて大規模な回転台に載せられ、大きく回転して脱ガス槽の真下にきた溶鋼は、せりあがって、下部槽にぶらさがった浸漬菅二本をくわえ込む。巨大なファンがまわって槽の内部を真空にすると、重い鉄が槽内に吸い上げられる。浸漬菅の片方だけにアルゴンを吹き込むことで、比重の関係で、溶鋼は鍋と槽の間を還流する。その間に不純ガスがファンに吸い込まれていく仕組みである。そのさい槽の内壁に、飛び散った溶鋼が付着し、大きな塊りとなってぶらさがり、操業に支障をきたすので、槽の交換のつど地金切りの仕事がまわってくる。週に一度はある仕事だ。
 回転盤は面白い装置だ。そこにカメラを据えて槽内を監視するのだが、当然そこにも溶鋼が跳んでくるので、通常ではカメラはすぐ見えなくなってしまう。そこでカメラの前を円板が回転する。二、三ミリのせまい隙間が四ヶ所開いており、これが高速で回転すると、槽の中がくっきりとモニターに写るのだ。もちろんモニターには隙間以外の部分、円板のただの板の部分も写っているのだろうし、それは見る人の網膜にも写っているのだろうが、人間の脳はそれを無視して、円板の向こう側にある風景だけを見るのだ。
 地金は酸素ガンにジェットランスと呼ばれるパイプを装着し、上蓋の四つの穴からこのパイプを差し込んで、酸素で切る。ジェットランスには15Aと10Aとあるが、ここで使う10Aランスは、外径十二、三ミリ、長さ二メートル半ほど、内部に一ミリほどの鉄線がぎっしり詰まっている。これに酸素を吹き込むと、パイプの先端から火を噴き出し、この火で地金を切るのだ。
 工場の建屋は天井は高いが、公害を見えなくするためか何か知らないが窓がなく、風が入らない。ただでさえ暑いところを予熱している上に、さらに火で切るのであるから、足元は熱いし、空気はむっとしている。大型の音ばかりやかましい扇風機をまわしているが、その風も生ぬるい。切っている端から汗が顔を伝って眼に入り、ガスメガネを曇らせる。交代で切らねばくたばってしまう。
 以前はプロばかりだったので、交代はスムーズにいった。二人ずつ交代で切ればよかった。だが若い一人を交替勤務に取られ、一人は定年退職し、一人はもう定年近いので、しんどい仕事はさせたくない。以前は人が足りないときは御厨が応援に入ってくれたが、胃を切ってしまった御厨にもうそれは頼めない。結局津川が、自分も若くはないのに、全部一人で引き受けねばならない。有家がわりあい仕事ができるので助かっているが、目を離すと手を抜く。切れてなかったぞと苦情を言われるのは津川なのだ。切れていない槽を使い始めると、途中で操業の合間を縫って、オペレーターが自分で切らねばならないので、ご機嫌が悪いのだ。
 津川はいままでずいぶん年寄りをかばってきたつもりだが、自分の番になるとかばってくれる若者がいない。中堅がごっそり抜けて、津川の班は年寄りと新米ばかりなのだ。それも派遣社員だ。どの程度あてになるのだろう。
 それでも安俣は仕事の覚えは早い。この男が一人前になってくれれば助かると思ってきたが、手癖が悪いだと? やれやれ、やっかいな問題を抱え込んだものだ。
 ランス穴とシュートの一個所が終わった時点で休憩することにした。残りはシュートがもうひとつと回転盤だ。回転盤はどのみち津川が一人で切るしかない。直径十センチほどのせまい筒にジェットランスを突っ込んで筒の内壁を拡げ、さらにその下にぶら下がった地金の塊りを切り落とす。二人ではかえってやりにくいし、それに微妙な場所だ。手元が少し狂えば壁に穴をあけ水が吹き出す。壁の周辺は水冷用の水が通っているのだ。いったん穴をあければ、その修繕だけで二、三時間はとってしまう。溶接道具を取りに帰らねばならないし、はるか下の電源につないだままにしてある溶接機からキャップタイヤーを引っ張って段取りせねばならない。その個所だけ水を止めるためにホースをつなぎなおす手間も要る。そうして熱いせまい穴に溶接ホルダーを突っ込んで溶接するのだが、水を抜いて開放しているとはいえ、柔らかい溶着部分をねらって溶接の熱が作り出した水蒸気まじりの空気が噴き出す。なかなか簡単には止まらない。ホースをつないでバルブを開けるとふたたび水がにじみ出てきたりする。完全に止めるまでやり直しだ。操業中に水が噴き出せば水蒸気爆発を起こして大変なことになる。さりとて穴をあけるのを恐れて控えめに切れば、切れてなかったぞといやみを言われる。有家もこの個所には手を出そうとしない。
 暑い現場を離れて、操作室に戻る。天井まで届きそうな大型のクーラーに顔をくっつけて汗を冷やし、一息つく。ポカリスェットをがぶ飲みする。
 いっせいに休憩せずに交代で切れと脱ガスの総作業長から御厨が言われたというが、そんなことのできる体制か?脱ガスにしてみれば時間で金を払うので、短時間で仕上げてほしいのだ。ジェットランスが高いので節約しろと言ってきたこともある。
 「オペレーターのためを思ってできるだけ丁寧にやっているのに、そういうことなら、もう知らん。いい加減ですますぞ」
 そのとおりしたら、オペレーターから苦情が来た。以来、総作業長は無視して、オペレーターだけに従うことにしている。だが、それもある程度だ。冬ならいざ知らず、夏場、こんな場所で長時間作業はできない。
 ちょうど三時なので、オペレーターは交替する。彼らは、七時、十五時、二十三時の三交替でやっている。それを四ヶ班で行うので、休日が多く、手当てもいい。そのかわり食事休憩というものはない。付属の詰所で、手がすいたときに交代で食べるのだ。転炉は二十四時間、夜昼なし、土日もなし、盆も正月もゴールデンウイークもなしに、ずっと、同じように動いているのだから、休憩などというものはどこにもないのだ。
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