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興味深い議論です  植田与志雄

 この意見交流を興味を持って読ませていただいています。
 いろいろ触発されるところの多い内容です。
 まとまりませんが感想などを少し書かせてください。

高原さんの主張:
・反原発=改善否定となる。
 いつかは原発技術が必要となることは間違いないのに、技術の灯が消える。
・技術も文化も同時進行が現実で、「文化が先」は行動より心をと同じでそうは言えないのが現実。
・「50億年後に必要なら49億年後にスタートでも間に合う」とは言い切れないから同意できない。
 原発リセットしないほうがいい。リセットでなく凍結ならいいだろうが。
・技術の選択を決めるのは経済合理性/生存合理性/儲け合理性のどれか。
 現代社会では儲け合理性が主流で、廃棄物処理はこれでいけるのではないか。

 高原さんの主張、危惧は現代の資本主義社会の諸制度、文化、合理性基準を前提にしていて非常に現実的。
 ともかく今出来ることをやりぬくべき、との迫力と誠実さを感じます。
 けれど50億年となって話が飛びすぎると感じます。なぜ100年後、1000年後の心配ではいけないんでしょうか? ここでは石崎さんに共感します。

以下は感想。

・技術が現実世界で生き続けるにはその時々の制度、文化、合理性基準、に適合的でなければ、整合性がなければ生存できない。私は技術の世界で生きてきたので、そういう意味では技術は生もので、「技術と文化は別」に同意できない高原さんの主張は理解できます。
 しかし、飛鳥時代の建造物、作品の再現は飛鳥技術の継承なしに、飛鳥技術から一旦は離れて現代技術で可能ではないか。リセットしてもいいだろう。リセットすべきというのはなく、リセットしても必要になれば再建可能ではないかとも思えるのです。

・資本主義社会では儲け合理性に反する技術は基本的には選択されない。
 これはまさに制度、文化の問題で、言い換えれば技術は経済に従属するということ。
 もちろん産業革命のように経済の土台を変えるのも技術それ自身の力によるので
 技術と文化は互いに一対となって他を必要としながら発展するのでしょうが。
 しかし、現代社会の生産力の発展は儲け合理性だけでなく経済合理性をも超えて生存合理性を考慮すべき時代を形成してきていると思います。儲け合理性では危険な技術がたくさん生まれていると思います、遺伝子操作などによる生命技術など。今回ここで議論されている内容から外れるので止めます。


 とりあえず、ここまで。
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73:「72:気になるコト by 植田 与志雄 」について by 高原利生 on 2013/10/05 at 07:50:59 (コメント編集)

「72:気になるコト by 植田 与志雄 」について

植田さんの態度に全く同感です。
場を与えていただいた石崎さんに感謝し、とりあえず、少し休憩しましょうか。

72:気になるコト by 植田 与志雄 on 2013/10/05 at 06:52:25 (コメント編集)

が二つあります。
1.石崎さんの庭先でこの議論を続けていていいものか。
2.議論がかみ合わないのは、お互いに(私だけかもしれませんが)相手の主張を正確に理解していないまま自分の言いたいことだけを提出する場合が殆どと思います。私ももう一度高原さんの御意見を読み直してみます。
3.でもお互いに異論は尊重しあう姿勢は崩さないようにできそうなので安心しています。

71:「70:しつこいついでに by 植田 与志雄」について by 高原利生 on 2013/10/04 at 22:57:16 (コメント編集)

「70:しつこいついでに by 植田 与志雄」について

 お付き合い、ありがとうございます。まだ、少し議論が、かみ合わないですね。
1. 連続/不連続の話題がでたのでその議論を展開したのですが、その結論がどうであろうと関係なく、
「3. 今の僕の意見は、直接には、12(これが連続の議論です:高原注)とあまり関係ないです。エネルギーに関して「今の原発技術から離れた発展」が形に見えるまでは、今の原発のハード、運用の改善と、新しい原理の開発の両方を行うべきという意見です。「現原発技術の向上」は新しい原理が見つかるまでのつなぎです。そのサイクルを永遠に続けるべきです。絶対安全というのはないのですから。」(66:「技術の連続と不連続 by 植田 与志雄」へのコメント2013/10/02 at 21:36:48)ということです。

 だから、植田さんの
 「次の原発技術を探さねばならない。
 これは現原発と原理を異にしているかもしれない。
 そのとき、現原発の改良の成果が次の新原理の原発に必須、有用とは必ずしも言えない。
 だから現原発の改良に注力しなければ次が来ないと判断することはできない。 」
というのは全く違うのです。

 植田さんの「次の原発技術を探さねばならない。
 これは現原発と原理を異にしているかもしれない。
 そのとき、現原発の改良の成果が次の新原理の原発に必須、有用とは必ずしも言えない。」
までは良いのです。
 それでも、「現原発の改良の成果が次の新原理の原発に必須、有用」か否かは、実際に新原理が見つかるまでは分からない。だから見つかるまでの「つなぎ」で今の原発の改良を続けるといっているだけです。
 植田さんの「だから現原発の改良に注力しなければ次が来ないと判断することはできない。」というのは、今は判断できる時期でないのです。それは新原理が見つかって後に判断できることです。

 高原が「CDが出て、振り返って過去を見て、はじめてレコードが古くなったと分かるのです。当時、いずれCDのような新しい技術が出るはずだ、それが分かっているのだからレコードの改良はすべきではないと言えなかった。」(「67:ちょっとしつこくなりますが、、 by 植田 与志雄」への反論 高原利生 on 2013/10/03」)というのはそのことです。

2. その論理と別に、連続/不連続は、深めた方がいいと思います。植田さんの理解より、連続の面は、大きいですよ、というのは今まで述べたとおりです。

3. 植田さんの
 「高原さんは反原発運動はこうあるべき、こう主張すべきとおっしゃっているのですよね。」というのはそのとおりです。
 「今の反原発運動の最大公約数の主張はこうではないかと、私の理解を書いているのです。」と言われる。そうですか。
 高原は「今の反原発運動の最大公約数の主張はこう」であることに危機感を持っています。

最後がそっけなくなりました。御容赦を。

70:しつこいついでに by 植田 与志雄 on 2013/10/04 at 21:38:38 (コメント編集)

お互いにしつこいことを毛嫌いせずに、少し進めてみたいのですがいいでしょうか。
レコードの改良が壁にぶつかったのでCDが出現した。
言い換えれば、レコードの改良なしにCDは生まれてこなかった。
しかし、レコードを支える技術はCDには不要だった。
高原さんの、連続性に関するご意見は前者のところです。
私の不連続に関する認識は後者のところです。
これを現原発で置き換えれば、
現原発はすでに壁にぶつかっている、人類的レベルでの危険さを持っているところで。
次の原発技術を探さねばならない。
これは現原発と原理を異にしているかもしれない。
そのとき、現原発の改良の成果が次の新原理の原発に必須、有用とは必ずしも言えない。
だから現原発の改良に注力しなければ次が来ないと判断することはできない。
しかし本当の意味での、一時的対応としてのつなぎ役として現原発の安全化技術を進めることは否定することはない。

レコードの改良がnext レコードを生む母体になっていたけれど、next レコードたるCDはレコード技術の外側からやってきた、と私は見ています。
技術、連続、などの言葉上の違いが少し強調された議論になってしまいましたが、要は遠い将来を見据えて現原発の改良を進めるべきか否かですよね。私は遠い将来を見据えたら現原発から別原理の原子力技術に乗換える潮時ではないか、一時的対応としての現原発の安全技術の向上は否定しないけれど、、。

もう一つ、高原さんが10/3コメント68の中の3で
「反原発運動は金儲け主義で駆動される現原発なら灯を消すべき、と言ってるだけ」は正しくない。金儲け主義を止め安全のための改良をせよ、資本主義と原発は合わないので資本主義を止めようと言うのが正しい。
とあります。
高原さんは反原発運動はこうあるべき、こう主張すべきとおっしゃっているのですよね。
私は反原発運動の正しい姿を論じているのではないのです。
今の反原発運動の最大公約数の主張はこうではないかと、私の理解を書いているのです。
将来の広い意味での核技術全般を否定しているのではない(全否定もありますが)と理解しています。

69:「67:ちょっとしつこくなりますが、、 by 植田 与志雄」への反論 その2 by 高原利生 on 2013/10/04 at 12:10:35 (コメント編集)

「67:ちょっとしつこくなりますが、、 by 植田 与志雄」への反論 その2

(一部修正)
 植田さんが、
「(高原が:高原補足)「CDにしても、レコードの問題点を解決する努力の中から、それを解決しようとして産まれたのではないのですか?」これはイエスですが、このことは技術の連続性とは別ではないでしょうか。解決しようとして努力を連続した結果、レコードからCDに技術が転換したので、レコードの技術を極めた奥からCDが出現したと言えるかは疑問です。音質やコストでトレードオフでなくブレークスルーを狙ったらレコードは限界に当たっていて、その限界を破るのはCDだったということでしょう。」
と言われました。いい意見だと思いますので、技術の連続性/不連続性について考え、前の意見を補足したいと思います。合わせて、前回の私のコメントが、植田さんの発言の一部だけを取り上げて適切でない断定をしていましたので、お詫びしておきます。

 前回、技術手段の運用も技術であると言いました。技術の高原の定義は、技術は、技術手段を作ること、その利用、運用、保守の全体だというものです。ここの技術手段を共同観念に置き換えたものが、制度だととらえています。人間の外部との働きかけは、技術と制度によって行われ、これに、人間の外部からの認識を、芸術と科学として、技術、制度、芸術、科学の全体が文化です。(文化という言葉も、石崎さん、植田さんと違いますが、ここでの問題ではありませんね)
考えたいのは、植田さんの「音質やコストでトレードオフでなくブレークスルーを狙ったらレコードは限界に当たっていて、その限界を破るのはCDだった」というところです。ここで植田さんは正しいと思います。技術の発展を「トレードオフでなくブレークスルー」でとらえるのはTRIZの考え方に近いです。TRIZは、発展を「トレードオフでなく矛盾の解決」ととらえます。矛盾の解が、質的に今までと違うものがブレークスルーと思います。

 以下、レコードもCDも原子力も全く無知なので、一般論にとどまります。
 植田さんと高原で、技術の連続性について少し違うのは、次の点です。

1. レコードの改良もCDの改良も、レコードからCDへの転換も、全て矛盾の解決で行われていて、その改良と転換には、小さなものも質的に新しいものもありました。この矛盾の解決には、音という点、記録、再生という点で、両者に共通しているところと、媒体の扱いという点で違った点があった(と思います、内容は全く知らないので)この意味で、レコードとCDには、共通点と共通しない点、連続性と不連続性があります。(高原は、矛盾をもっと広げ、人間の思考、行動、生き方について、更に全ての運動に適用することを考えています。レコード、CD、原子力だけでなく生き方にも共通点、連続性がある。これは話がそれますね)
 
2. レコードで、音の情報のアナログ変換、アナログ変換されたものの他媒体へのアナログ記録、媒体から音の再生が行われます。
 CDでは、音の情報のディジタル変換、ディジタル変換されたものの他媒体へのディジタル記録、媒体から音の再生が行われます。アナログからディジタルへの転換が画期的です。
 分かるのは、音そのものをどうとらえるか、記録されたものを音としてどう再生するかという大きな部分については、両者に共通していることです。その意味で、この部分は技術に連続性があります。数十年前、ピアノのキーの動きをディジタル的に(もちろん記録はアナログですが)(しかもステレオで)記録する技術手段があり(どういう名前か忘れました)、ごく稀に、ラジオで聴くことがあります。音は全く良くないのです。ラフマニノフ本人の演奏がステレオで聴けるというような、歴史上の意味はありますが。

3. 原子力の場合、音の場合と共通する点としない点がある。それは前に述べたとおりです。
 以上、「ちょっとしつこく」なったのはお互い様かも。

68:「67:ちょっとしつこくなりますが、、 by 植田 与志雄」への反論 高原利生 by 高原利生 on 2013/10/03 at 07:58:35 (コメント編集)

「67:ちょっとしつこくなりますが、、 by 植田 与志雄」への反論 高原利生

ありがとうございました。
1. 少し誤解があります。私は、「技術手段は「連続/不連続を繰り返して変化する」ということですね。半分同意します。」と不連続のあることを認めています。
「現原発技術を捨てるべきでない、離れるべきでない、リセットすべきでない、と強く主張されるのは、現原発技術の連続的延長上に次の技術も出現すると予想されているからではないでしょうか。」というのは違います。次の新しい原発技術が出現されるまでは、現原発技術の改良と、新原理の開発を共に行う二つが必要だからです。
CDの技術が見つかるまではレコードの改良をしてきたでしょう?CDが出て、振り返って過去を見て、はじめてレコードが古くなったと分かるのです。当時、いずれCDのような新しい技術が出るはずだ、それが分かっているのだからレコードの改良はすべきではないと言えなかった。
レコードの技術ベースとCDの技術ベースは全く違い、別の分野でしょうが、原発の場合、新しい原発も原子力という同じ分野なので、今の原発の改良をやめると、原子力技術者がいなくなる、新しい開発も事実上困難になるという現実の問題も大きいです。
「現原発技術を捨てるべきでない、離れるべきでない」という表現のニュアンスもちがいますね。「現在の原発を構成している独特な技術そのものを絶やさないようにする」ことを目的にしているのではありません。新しい原理が見つかるまでは、今の改良と問題点を見つける努力をするしかないです。「現原発技術の連続的延長上に」小さな「次の技術」がいくつか「出現」し、今の問題点の中から、いつか「連続的延長上に」ない、望まれる新しい増殖炉が出てくる。
私は「レコードの技術を極めた奥からCDが出現した」という論理は述べていないです。誤解の表現が多いですね。どうしてこういう誤解を生んだのか分かりません。私も紛らわしい表現をしてきたかもしれません。
前の3に述べたことの全くの繰り返しですが、「今の原発技術から離れた発展」が形に見えるまでは、今の原発のハード、運用の改善と、新しい原理の開発の両方を行うべきという意見です。「現原発技術の向上」は新しい原理が見つかるまでのつなぎです。そのサイクルを永遠に続けるべきです。

2. 「現原発技術の連続的延長上」の改良も進んでいるようですが、福島の人災事故の教訓として必要なのは、運用(これも技術です)の改善です。全電源喪失でも冷却系が3号機は36時間、2号機は70時間動いていた。その間に、ベントと海水注入をすればメルトダウンは起こらなかった。現に素人の管さんもベントと海水注入をしろと言ったのに、東電はしなかった。東電の現場は、冷却系が動いているのかどうかも分からなかった。アメリカでは、全電源喪失時に冷却系が動くかどうかを定期的に実際に動かしてチェックしているのです。
危機管理の判断力と行動には、どんなタイプの原発にも強い連続性があると思います。また、原発だけでなくいろんな事故との共通性もあります。ハード上の問題点とその解決という点での方法上の連続性と共通点と同様です。

3. 「反原発運動は金儲け主義で駆動される現原発なら灯を消すべき、と言ってるだけ」という内容は正しくないと思います。金儲け主義を止め、安全のための改良をせよ、資本主義と原発は合わないので資本主義を止めようと言うのが正しい。今のどの政党も、資本主義をやめたらどうしたらいいのか分からないようなのが別の大問題です。

67:ちょっとしつこくなりますが、、 by 植田 与志雄 on 2013/10/02 at 23:39:39 (コメント編集)

率直に言って高原さんが連続性に拘り過ぎているように私には感じます。
現原発技術を捨てるべきでない、離れるべきでない、リセットすべきでない、と強く主張されるのは、現原発技術の連続的延長上に次の技術も出現すると予想されているからではないでしょうか。そうではないこともある、ともおっしゃっているので、これは私の言い過ぎかもしれませんが。
「CDにしても、レコードの問題点を解決する努力の中から、それを解決しようとして産まれたのではないのですか?」これはイエスですが、このことは技術の連続性とは別ではないでしょうか。解決しようとして努力を連続した結果、レコードからCDに技術が転換したので、レコードの技術を極めた奥からCDが出現したと言えるかは疑問です。音質やコストでトレードオフでなくブレークスルーを狙ったらレコードは限界に当たっていて、その限界を破るのはCDだったということでしょう。
原発技術も核物理の技術という面では連続し、共通すると思いますが、これも素人考えですが、現在の原発を構成している独特な技術そのものを絶やさないようにすることにどれほどの意味があるか私にはよく分かりません。
現原発の安全運用技術の進歩、改良の障害になってきたのは反原発運動より現原発を駆動している金もうけ主義の方ではないでしょうか。ここの認識は高原さんと私は少し違っているように見えます。反原発運動は金儲け主義で駆動される現原発なら灯を消すべき、と言ってるだけと私には思えるのです。でもここは微妙ですね、お互いに同じ気持ちなのに言葉だけがすれ違っているだけのような気もします。

66:「技術の連続と不連続 by 植田 与志雄」へのコメント by 高原利生 on 2013/10/02 at 21:36:48 (コメント編集)

「技術の連続と不連続 by 植田 与志雄」へのコメント

植田さん、コメントありがとうございました。
1. 建造物については、材料が石であろうが木であろうが鉄であろうが連続性、同一の技術の原理があると思います。
2. レコードとCDは、「音楽を蓄積しておいて再生するという目的自体はかなり不変かもしれないけれど、実現する技術は連続/不連続を繰り返して変化する」というのは、技術の目的、機能は同一でも、この機能を実現する技術手段は「連続/不連続を繰り返して変化する」ということですね。半分同意します。
連続/不連続の中に、共通原理があるかもしれないのが、半分不同意の理由です。TRIZはそういう共通原理も探しています。(僕はそういう知識を積み上げるTRIZは好きでないのですが)共通原理は、ハードだけでなく、ソフト、運用の面にもあります。
3. 今の僕の意見は、直接には、12とあまり関係ないです。エネルギーに関して「今の原発技術から離れた発展」が形に見えるまでは、今の原発のハード、運用の改善と、新しい原理の開発の両方を行うべきという意見です。「現原発技術の向上」は新しい原理が見つかるまでのつなぎです。そのサイクルを永遠に続けるべきです。絶対安全というのはないのですから。
CDにしても、レコードの問題点を解決する努力の中から、それを解決しようとして産まれたのではないのですか?担当の技術者は、別の分野に移ったのかもしれないですが。また、中にはそういう発展の仕方をしないのもあるのかもしれないけど。

65:技術の連続と不連続 by 植田 与志雄 on 2013/10/02 at 20:02:18 (コメント編集)

コメント有り難うございます。
「飛鳥時代の建造物、作品の再現」が今に可能なのは、建造物等が絶えず連続した技術、科学、芸術や制度の努力の中にあるからで、原子力とは同一に論じられないこと、問題は、いつも「今」何をすべきかということだけであることです。たまたま「50億年後」の事態が問題になっているだけで、そのために「今」なすことがあるだけです。
ここが良く理解できません。
技術は連続と不連続の両局面が交互に現れると思います。
例えば、プラスチック円盤の溝に凸凹を掘ったレコードは、円盤素材製造、録音時の凸凹のカッティング、再生時の凸凹情報のピックアップシステム、円盤駆動メカニズム、などなど多くの技術の集積で成り立っていたけれど、CDの出現でそれらは一夜にして過去の技術となってしまった。レコード技術向上の連続的な努力とそれを無用化するCDへの不連続発展があった。さらに今ではCDすら過去の技術となってしまった。音楽を蓄積しておいて再生するという目的自体はかなり不変かもしれないけれど、実現する技術は連続/不連続を繰り返して変化すると思います。つまり技術は生もの、流星のように歴史の中で一度だけ光り輝く運命、と言ったのはそういう意味です。エネルギの必要性は変わらない、むしろ増大するかもしれませんが、エネルギを得る方法/技術は必ずしも今の原子力発電システムの延長上にはないかもしれない。100年後には違っているかもしれない。そういう意味で私はここしばらくは現原発の安全性向上の努力は要るでしょうが、その先はむしろ今の原発技術から離れた発展があると考えるのが自然ではないかと思えるのです。レコードがCDに取って代わられたような発展があるのではと思えるのです。広い意味での核技術の研究開発は休みなく進められるべきでしょうが、それは必ずしも現原発技術の向上が前提とはならないのでは、と思えるのです。

64:「興味深い議論です  植田与志雄 雑文 - 2013年09月30日 (月)」 への返信その2  高原利生 by 高原利生 on 2013/10/02 at 15:36:48 (コメント編集)

「興味深い議論です  植田与志雄 雑文 - 2013年09月30日 (月)」 への返信その2  高原利生

 「現代社会の生産力の発展は儲け合理性だけでなく経済合理性をも超えて生存合理性を考慮すべき時代を形成してきていると思います。」ということに賛成です。
 高原利生のホームページhttp://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ に「今の地球の人類の矛盾について」を入れています。
 生産力と生産構造の矛盾が、経済合理性の問題、それが資本主義では、儲けの問題とか生きがいの問題を起こす。生存合理性の問題の半分は、持続可能社会とかポスト資本主義で提起されるところにつながります。遺伝子操作のことは、余り考えたことがないです。今は新薬の開発が話題になっていますが、これも国が管理できる範囲を超えますね、核と同様に。
 生存合理性の問題のもう半分が、太陽消滅時の人類生き残り(他の生命の種の生き残りも)の問題です、というのがこじつけみたいですね。

63:「興味深い議論です  植田与志雄 雑文 - 2013年09月30日 (月)」 への返信  高原利生 by 高原利生 on 2013/10/02 at 12:13:19 (コメント編集)

「興味深い議論です  植田与志雄 雑文 - 2013年09月30日 (月)」 への返信  高原利生

植田さん、お読みいただきコメントありがとうございました。
 前のコメントで、御自分はエンジニアだと言われていました。私も退職までそうでした。会社では設計の方法が分からず悩んでいました。
しかし、入社以来今に至るまで、誠実に、生きてきた、生きているとは全く言えません。植田さんと石崎さんのお二人に、文章が誠実な印象を与えたのは、多分、誤解です。
しかし、生きる態度について、今まで得た教訓は、誠実であること、これを前提に、謙虚でありかつ批判的であることではあります。謙虚でありかつ批判的であることは、矛盾ですが、矛盾である故、両立します。
内容について少し。
「飛鳥時代の建造物、作品の再現」が今に可能なのは、建造物等が絶えず連続した技術、科学、芸術や制度の努力の中にあるからで、原子力とは同一に論じられないこと、問題は、いつも「今」何をすべきかということだけであることです。たまたま「50億年後」の事態が問題になっているだけで、そのために「今」なすことがあるだけです。

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