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ふたたび「50億年」

 当分、新規題材は扱わないつもりだが、行きがかり上、最低限の対応を必要とする項目もある。
 高原利生氏の「50億年後の地球のために原子力は必要」かどうかという問題である。
 この間、高原氏からは思いがけず暖かい激励をいただき、たいへん感謝している。だが、それはそれ、疑問は疑問として述べさせてもらうことをお許し願いたい。
 9月14日の高原氏に宛てたメッセージに、氏は長文のコメントを寄せられ、しかも、その後ほぼ一週間にわたって毎日改稿された。日に何度も改稿されることもあった。どこが改稿されたのかわからなかったので、ぼくはそのつど初めから読みなおした。読むつどに読みやすい文章になっているのがわかった。高原氏が非常にまじめに深く考えておられることも分かった。
 なお氏はネット上に「TRIZ」に関する論文集を公開されている。これを読んでから反論を書くべきだと思ったが、長文の難解な論文集で、すぐには歯がたちそうにないので、それは今後の宿題として、とりあえず14日付コメントについての疑問を申し上げる。

「いつか人類が原子力を必要とする時が来るかもしれない」ということは理解できる。
「技術の進歩は、実際にやってみて試行錯誤する中でしか生まれない」ということも理解できる。
 そして、「技術の進歩にとってある程度の犠牲は付きものであり、それが人類の存続にとって不可欠な技術なら、やめるわけにはいかない」(クルマの普及と交通事故死の問題を例示)ということも、理解できなくはない。
 その上で氏は、現在の原発の安全性が不十分であることを批判され、あくまでも安全性を第一においた技術の追求であるべきだと述べられている。その趣旨は理解できる。
 また原子力が必要となる時期については、「必ずしも50億年後ではない。もっと早いかもしれない」として、地球温暖化や、化石燃料の枯渇、あるいは巨大隕石の落下にも触れておられる。
 それらはすべて考察を必要とする対象ではあるが、そこまで議論を拡げることはただちにはできないので、議論の余地のないテーマ「50億年後の太陽消滅」についてのみ、今回考える。
「50億年後の太陽消滅」については議論の余地はない。この点ぼくの最初の文章(5月15日付「雑文」のカテゴリー中の当表題)が誤解を与えたようだが、その文章でぼくが疑問を呈したのは、「50億年後の太陽、地球の運命」ではなく、そのときの「人類の運命」であった。はたしてそのときまで人類が存在しているのか、これは「いま考えることができる問題なのか」ということに疑問を提出したのだ。というのはヒトが生まれてからまだたった500万年しか経っていないからである。いまから500万年後に人類が存在しているかどうかにさえぼくは疑問を持つ。
 もちろん将来の人類が滅亡しないために、いまできること、なすべきことをやらねばならないだろう。だが、「やらねばならない」ということと、「実際に生き残っているかどうか」ということとは別問題であろう。
 まして「50億年後」について、はたして「いま考えることができるか」という点は大きな疑問である。

 原子力の利用可能性にヒトが気づいてからでも、まだ百年ほどだろう。たった百年の間に、原子力の技術はゼロから始めてここまで進歩した。
 だとしたら、いまここでヒトがすべての原子力技術を放棄したとしても、それを再びゼロから構築し直すのに、百年あれば十分である。そこからさらに完全な安全性を確保するのに、たとい10倍の時間を必要としたとしても千年である。
 もし原子力が不可欠とされるのが、50億年後であるのなら、その準備は49億年後に始めても十分まにあうと言えないだろうか。
 ここでは50億年後以外の場合を捨象した。それはそれらがまた別個の議論を要求される問題だからであり、50億年後については議論の余地がないからである。少なくともこの項目だけは、高原氏の論述から削除されるべきだろうとぼくは考える。

 安全性を確保したうえでの技術の追求というのは、いまの時点では不可能なことのようにぼくには見える。
 原子力の技術そのものは実際にやることで試行錯誤するしか進歩しないだろうが、その技術の裏付けとなるあらゆる基礎的な研究は、別個に進歩し続けるだろう。
 そして何よりも懸念するのは、いまヒトが置かれている社会的、政治的、経済的、文化的環境は、はたして原子力の安全性確保にとって充分であると言い得るだろうかという点である。
 現実に原発の操業は、原発ジプシーと呼ばれる人々の被曝の上に成り立っている。何人がそのせいで早すぎる死を迎えたか、ちゃんとした統計はあるのだろうか。
 放射能は毎日洩れている。地域住民の健康への影響調査はなされているのか。
 原発は事故を起こすから問題なのではない。正常運転していても問題なのだ。
 たまる一方の核のゴミをどうするつもりなのか。
 その上に事故を起こし、その収束のために働く人々の被曝量はほとんど自殺的なのではないか。しかも収束の可能性は一向に見えてこない。
 仮に原子力が人類に必要な技術だとしても、いま、我々の社会はそれを扱えるだけまだ成熟していないと言うべきではなかろうか。
 その技術が必要だとしたら、いまはその技術を可能にさせる社会的、政治的、経済的、文化的環境を整えることが先ではなかろうか。
 いまこの時点で、原発を容認することは、ぼくにはとてもできない。
 これがこの問題に関するぼくの考えです。
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コメント
61:興味深い議論です by 植田 与志雄 on 2013/09/30 at 14:20:51 (コメント編集)

この意見交流を興味を持って読ませていただいています。
いろいろ触発されるところの多い内容です。
まとまりませんが感想などを少し書かせてください。

高原さんの主張:
・反原発=改善否定となる。
 いつかは原発技術が必要となることは間違いないのに、技術の灯が消える。
・技術も文化も同時進行が現実で、「文化が先」は行動より心をと同じでそうは言えないのが現実。
・「50億年後に必要なら49億年後にスタートでも間に合う」とは言い切れないから同意できない。
 原発リセットしないほうがいい。リセットでなく凍結ならいいだろうが。
・技術の選択を決めるのは経済合理性/生存合理性/儲け合理性のどれか。
 現代社会では儲け合理性が主流で、廃棄物処理はこれでいけるのではないか。

高原さんの主張、危惧は現代の資本主義社会の諸制度、文化、合理性基準を前提にしていて非常に現実的。
ともかく今出来ることをやりぬくべき、との迫力と誠実さを感じます。
けれど50億年となって話が飛びすぎると感じます。なぜ100年後、1000年後の心配ではいけないんでしょうか?ここでは石崎さんに共感します。

以下は感想。

・技術が現実世界で生き続けるにはその時々の制度、文化、合理性基準、に適合的でなければ、整合性がなければ生存できない。私は技術の世界で生きてきたので、そういう意味では技術は生もので、「技術と文化は別」に同意できない高原さんの主張は理解できます。
しかし、飛鳥時代の建造物、作品の再現は飛鳥技術の継承なしに、飛鳥技術から一旦は離れて現代技術で可能ではないか。リセットしてもいいだろう。リセットすべきというのはなく、リセットしても必要になれば再建可能ではないかとも思えるのです。

・資本主義社会では儲け合理性に反する技術は基本的には選択されない。
これはまさに制度、文化の問題で、言い換えれば技術は経済に従属するということ。
もちろん産業革命のように経済の土台を変えるのも技術それ自身の力によるので
技術と文化は互いに一対となって他を必要としながら発展するのでしょうが。
しかし、現代社会の生産力の発展は儲け合理性だけでなく経済合理性をも超えて生存合理性を考慮すべき時代を形成してきていると思います。儲け合理性では危険な技術がたくさん生まれていると思います、遺伝子操作などによる生命技術など。今回ここで議論されている内容から外れるので止めます。


とりあえず、ここまで。

60:「ふたたび「50億年」(石崎徹、2013年09月24日 (火))」について 二版 by 高原利生 on 2013/09/27 at 00:26:48 (コメント編集)

「ふたたび「50億年」(石崎徹、2013年09月24日 (火))」について 二版http://maganetoru.blog.fc2.com/ 

(2016年2月26日追記)
ここで言うべきことかどうかわからないことだが、高原利生の原発についての意見は、少し膨らんでいる。高原利生ホームページ(石崎ブログにリンクがある)を参照されたい。

(はじめに)
石崎氏の論に二つ問題がある、コメントは簡単だと思ったのが間違いでした。2013年09月25日の最初のものの修正で対処しきれないので、第二版にしました。
前半は、一つ目の問題の最後に、核ゴミ処理の記述を付け加えただけで最初のものと余り変わっていません。
後半の、もう一つの問題を軽く考えすぎていました。論理が違っているのを読み直して気づき、文章はなるべくそのまま使ったけど、論理の流れは変わっています。特に、後半のさらに後半の部分は、最初のものとほとんど変わっています。平にご容赦のほどを。

(本文)
丁寧な反論に感謝します。世の反原発を言われる論拠が全く理解できなかったのですが、やっと少し理解しました。
「9月14日の高原氏に宛てたメッセージに、氏は長文のコメントを寄せられ、しかも、その後ほぼ一週間にわたって毎日改稿された。日に何度も改稿されることもあった。」とのこと、
まず、何度も改稿したため、何度も読んでいただき御迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。そして、よく読んでいただいたことに感謝し感激しています。
ネットのやり取りのモラルにもまだ不案内です。申し訳ありませんでした。
(改稿の最新版は、「高原利生さんへ」(9/14)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-204.html#comment58
の[58]の高原のコメント(9/16)で読むことができます。自分でも前の投稿がどこか分からなくなるので、これは自分のためのメモでもあります)
実は、この後も改稿しており、さすがに、それは、石崎さんとのやり取りを逸脱するおそれがあるため、高原のホームページhttp://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ に移しました。ホームページでは、石崎さんは、「Iさん」にしています。ネチケットなるものに不案内なので、不備がありましたらお知らせください。ホームページの作り方を勉強しなければならないのですが、今はHTMLを自分で書いている状態で、見づらいです。とても、読んで、と言えないのが残念です。すみません。

反論を読んで、二つ言いたいことがあります。
一つは、石崎さんの最後のところ、「仮に原子力が人類に必要な技術だとしても、いま、我々の社会はそれを扱えるだけまだ成熟していないと言うべきではなかろうか。
 その技術が必要だとしたら、いまはその技術を可能にさせる社会的、政治的、経済的、文化的環境を整えることが先ではなかろうか。
 いまこの時点で、原発を容認することは、ぼくにはとてもできない。」
ということへの反論です。
最後のところ「いまこの時点で、原発を容認することは、ぼくにはとてもできない。」ということは、高原も賛成なのです。今の反原発の実際上の欠点は、弁証法的否定でなく、即時廃炉を主張する単純否定故に、今の原発の改善が提起できないことです。これが、「原発ゼロ」ということの最大の欠点かもしれないと思います。高原の前提に、原発の改善は可能だということがあります。多分納得されないと思いますが、原発の事故の確率はゼロにはなりませんが、いくらでもゼロに近くすることは、努力で可能です。
今のままなら、原発に必要な安全策が、主としてハード上の小手先に限られ、安全のための基本が無視され、何基かの原発廃炉でお茶を濁されて、結果として今のままの「原発を容認すること」になります。

その前の、石崎さんの「その技術が必要だとしたら、いまはその技術を可能にさせる社会的、政治的、経済的、文化的環境を整えることが先ではなかろうか」というところには、半分賛成、半分反対します。
半分賛成の理由は、今の世界は、経済合理性ではやっていけなくなっている、原発しかり、持続可能社会しかり、労働内容しかりだからです。今までの技術発展の必然法則を左右したのは経済合理性でした。資本主義だけでなく「社会主義」をうたった国の技術発展もその後追いでした。
だから、「その技術が必要だとしたら、いまはその技術を可能にさせる社会的、政治的、経済的、文化的環境を整えること」は必要です。それを主張することは正しいです。数十年前、共産党が、日本の原発導入に反対したのは今と比べて正しい面が多かった。
安全な交通、安全な原子力エネルギー、ものの完全リサイクルという三つの技術の課題と、持続可能な経済、自由で平和な愛の世界という二つの制度の課題はお互いが条件になっていて、同時に取り組まなければ達成できないと考えています。技術と制度は、切り離して扱えなくなってしまったと思います。切り離せるのは、観念の上だけで、技術と「技術を可能にさせる社会的、政治的、経済的、文化的環境」の実現は、同時に行うしかない。

すみません、書いていて、これは、石崎さんの文の一部だけを取り上げて、あげ足を取っている気がします。
と言いつつ、失礼の上塗りかもしれませんが、「行動より、まず心を正しくするのが先」という善意の宗教者を思い出しました。「行動より、まず心を正しくするのが先」というのは正しい。しかし、これも弁証法的否定をしなければならない。偉そうなことは言える立場でないのは分かっているのですが、行動と心は同時にしか変わらない。
このことを若きマルクスから教えてもらいました。(今は、「本は読まない」主義ですが、マルクスは例外にしたいと思っています)
経済学・哲学草稿、経済学・哲学手稿の次の文章です。人間、対象、社会(制度)三者の同時決定、相互依存関係を述べているところです。岩波文庫、国民文庫訳も合わせて示します。両方を繰り返し読んでやっと理解できた(と思っている)難解な部分です。
「対象が人間にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となる場合にだけ,人間は彼の対象の中で自己を失うことがない。このことはただ,社会がこの対象のなかで人間のための存在として生成するのと同様に,対象が人間にとって社会的な対象として生成し,また人間自身が自分にとって社会的な存在として生成することによってのみ可能である」経済学・哲学草稿、城塚訳,岩波文庫,p.139
「人間が彼の対象のうちに自己を失わないのはただ,この対象が彼にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となるときだけである。このことが可能であるのはただ,対象が人間にとって社会的な対象となり,彼自身が自分にとって社会的な存在となり,同様に社会がこの対象において彼のための存在となるばあいだけである」 経済学・哲学手稿、国民文庫、p.153)

さらに、安全な原発に向けての努力だけでなく、持続可能な経済も、労働内容改善、生きがい喪失問題も資本主義の枠を超えています。また、安全な原発に向けての努力、持続可能な経済も、世界中が共同で取り組まねば実現できない。資本主義を弁証法的に否定しなければならない。なのに、共産党は何をしているのだ、というのは別の問題ですね。話がそれました。

今の福島の問題対処のまずさの問題は、まさに、今の問題対処の問題であって、今後の原発をどうするかとは関係が余りないと思います。関係があるとすれば、今の問題もろくに対処できない人や政府、制度に将来の原発を任せられるのか、ということです。原発事故当時の民主党政権にも、今の政権にも将来の原発を任せられないのではないか、という問題はあります。
不謹慎と言われるのを覚悟して言えば、今回の福島は、折角、官僚や各政党が危機管理の経験を積むいい機会なのです。結果は今のとおりです。国力低下ということを思います。国という概念を相対化しなければならない時代なのに。

また「原発は事故を起こすから問題なのではない。正常運転していても問題なのだ」というのは、少し違うと思います。原発管理所内、地域周辺の安全管理のどういう問題があるか定かでないですが、問題は、解決しなければなりません。たびたびですみませんが、反原発の立場に立つと、既存原発の改善を提起しにくくなるのは、なんとかしないといけないです。

核のゴミ、廃棄物については、処理技術が開発されるまでは保管しておくしかないでしょう。最近のニュースで、今後、埋めて保管する予定のものを「取り出す」ように検討しなおすということを知って驚きました。今までは埋めたものを放置する予定だったのを始めて知った次第です。核ゴミ処理技術は、いずれ開発されます。一万年かかるかもしれませんが。
核廃棄物処理技術の開発が、今、進まないのは、開発の費用がかかるだけで、核廃棄物処理が利益を産まないからです。当面は、核廃棄物処理が商売になる仕組みを考えてやる必要があるでしょう。それができれば、あっという間に核廃棄物処理技術の開発は進みます。放射能が有効利用できればもっといいですね、まさか放射能で電気は作れないのでしょうが。
核廃棄物が出ない方式の開発が済んでも、これは大きな課題です。

とにかく、もうかる仕組みが作れれば技術が進むのは、資本主義のいいところでもあります。これに対抗する技術進歩の原動力を見つけるのは至難の業です。党の政策に挙げるだけでは無責任で、実現の手段、方法も言わなければいけない。
経済学・哲学草稿、経済学・哲学手稿を読んで(一部だけですが)、私的所有がなくなることのすごさを書いているところに感動するのですが、私的所有がなくなることは、画期的な進歩をもたらす全部ではないのでしょうね。私的所有がなくなることが何かプラスにならないと、例えば技術進歩の原動力にはなりませんね。儲けにさえ勝てない。この問題は、私の生きている間には解けない。

もう一つは、「5月15日付「雑文」のカテゴリー中の当表題)が誤解を与えたようだが、その文章でぼくが疑問を呈したのは、「50億年後の太陽、地球の運命」ではなく、そのときの「人類の運命」であった。はたしてそのときまで人類が存在しているのか、これは「いま考えることができる問題なのか」について、です。
何度もお読みいただいた9月16日の文は、まさにこのことを考えようとして、これで石崎さんが何を言いたいのか考えたつもりでした。少し誤解をしていたようです。今回、こういうことだったのかと趣旨が分かりました。長々と、半分、頓珍漢な内容をお読みいただくことになりました。申し訳ありませんでした。
石崎さんの、「いまここでヒトがすべての原子力技術を放棄したとしても、それを再びゼロから構築し直すのに、百年あれば十分である。そこからさらに完全な安全性を確保するのに、たとい10倍の時間を必要としたとしても千年である。
もし原子力が不可欠とされるのが、50億年後であるのなら、その準備は49億年後に始めても十分まにあうと言えないだろうか。」というのは、多分違います。そうであると言えないと思います。
今の人類は、結構、様々な歴史の偶然を経て現在の形になっている。ここで、歴史の偶然と必然のかねあい、というか混ざり具合が今の問題です。
だいたい、生命の誕生自体、偶然、生命の誕生の条件が満たされて起こりました。誕生以来、灼熱の地球や全球凍結の時代を乗り越え、地球上のほとんどの生命を死滅させる何度かの巨大隕石落下をも生き延びて、生きよ、種を残せという欲求がDNAに埋め込まれた生命が産まれました。これはほとんど偶然と言っていいと思います。適者生存という必然の法則に則ったものが生き残った、だから今の生命存在は必然だとは言えない。個々の偶然を無視して成り立つ法則は必然でも、個々の今の多様な種々の生命は偶然生き残った。
細かなことは知らないのですが、北京原人やネアンデルタール人は絶滅し、今の人類は全員が、アフリカに起源を持つ新人の子孫らしいです。アフリカに起源を持つ新人だけが生き延びたのも、偶然に近いと思います。
人類誕生以降、道具、言葉は、必然的に生じたと思うのです。そういう可能性を持った存在が人類だったので、というのは論理がどうどう巡りになりますが。
ただ、物々交換は、偶然に生じたというのが私の説です。誰も賛成してくれる人はいないですが。
2010年から、物々交換がどうして起こったのかについて考えてきました。これもきっかけの一つとなって、マルクス、エンゲルスの矛盾概念を変更することになりました。石崎さんが、
「なお氏はネット上に「TRIZ」に関する論文集を公開されている。これを読んでから反論を書くべきだと思ったが、長文の難解な論文集で」云々と書かれています。
正確に言いますと、公開したのは高原ではありません。ホームページの作り方を知らないので。作ってくださったのは大阪学院大学の中川徹教授です。最新の「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」が中川徹教授のホームページ
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/
に、載っけていただいています。
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html
読みにくく恐縮ですが、今までのまとめになっていますので、最初のほうの物々交換に関するところだけでも、お読みいただければ、と思います。(福島原発に関する記事も最近載りました。)

技術と制度が生じて以降、意図的な人間の努力が、歴史を左右するようになりました。意図的に目的を達成する可能性が大きくなったので、(初版より一句削除)偶然の割合が減ってきていると思います。今は、経済合理性という鉄の必然法則に則っていることが問題です(初版より一字削除)。後から見れば違っていたと思える原理で世界は動いていく。
要するに、生命の歴史も人間の歴史も、偶然か、正しかろうが間違っていようが人間の意図が左右する面が多い。

「原子力が不可欠とされるのが、50億年後であるのなら、その準備は49億年後に始めても十分まにあう」ための条件を考えてみましたがよく分かりません。科学、技術の発展の論理や、そのために何が前提になっているか、偶然と人間の意図がどう作用するか、これらが今後どうなっていくのかよく分からないからです。
人間を信じていないのかもしれません。

(初版より一句削除)今、資本主義の金儲け企業と制度が安全性軽視の原発を作っているとはいえ、人類の生き延びるためのチャンスなのです。
原発は戦争と資本主義が作ったとはいえ、そして資本主義が人類生き残りに貢献するとはいえ、できるなら、させればいいではないですか。現に、この数十年で原発は、より安全になってきています。今の最新の原発も、福島のタイプより、より安全です。それを推進したのも資本主義の枠の中です。
で、それが十分でないらしいことが分かったのが、福島なのだと思います。安全な原発を目指していくことは、資本主義と合わない。他の企業活動も資本主義と合わなくなっていると思います。だから制度改革も同時にやらねばならない。原発一つとっても、制度の問題が見えてきている。技術と制度の同時進行の所以です。
絶対に、制度、「社会的、政治的、経済的、文化的環境」が先ということは、一般論としてもあり得ない。全ての人の全ての行為は、他の全てと関係しています。投票に行くことも、小説を書くことも、音楽を聴くことも、今後の原発に関係します。今後の原発が、ある人の投票、書く小説、聴く音楽に関係するように。

少なくとも、今、原子力発電研究と、原発、原発技術をリセットしてしまわないほうがいい。
しばらく今の原発を凍結し、もう少し安全な原発の開発を進め、一応安全と言える原発と運用体制を作ってから、原発を普及させていくという案だけならあり得ます。
でも、なにをもって安全と言える原発かというのは難しい。9月16日で述べた第二の理由、完全な原発のためには永久に努力を続けないといけない性格があるから。
それに運用体制をアメリカ並みにするのも10年ではできないでしょう。しかも、それをやって行くのも、既存原発を使ってやるしかない。

また、日本のような地震国では、原発はやめ、原発稼働は、そうでない国に限る、原発開発は各国協力して行うという案もあり得ます。いっそ、原発と核兵器は開発、運用とも国際管理がいいかもしれません。そのためには、国家意識の相対化による平和が必要です。技術と制度の不可分な例の一つです。そういう案をいう政治勢力がいれば、その案は検討に値しますが、いませんね。少なくとも日本には。

こういう案を取るにせよ取らないにせよ、安全な原発のエネルギーリサイクルという技術の問題は、新しい交通システム、もののリサイクルというもう一つのリサイクルという他のふたつの技術の同時追求、平和で自由でおもいやりの制度の同時追求が必要です。

今ある原発を捨てるのは、もったいない、化石燃料を燃やすのは、やめたい。技術の進歩は、現実の技術の改良と新技術開発の両面で必要、という前提があるので、今の不十分な原発でも、地震対策、運用の抜本改善という前提で基本的に再稼働するというのが現実的と思っています。今の政府が運用の抜本改善を行う気がないのは、想像ですが、運用の改善はハードの改善より大変だからです。繰り返しになりますが、それを許し、原発の根本的な見直しを提案する政党がないのは、反原発という一番楽な単純否定のゆえです。

以上は、知らず知らずのうちに、経済合理性を価値の前提にしていて、違っているかもしれません。しかし、経済合理性を否定する経済は将来のことで、しかも一国では成り立たないので、今は経済合理性をいう財界が再稼働を言うのは、その点だけは残念ながら正しい。せめて安全性を、「国民」の生活とともに、財界にも要求すべきです。
以上、さらに長くなりました。お許しください。

59:「ふたたび「50億年」(石崎徹、2013年09月24日 (火))」について by 高原利生 on 2013/09/25 at 10:46:22 (コメント編集)

「ふたたび「50億年」(石崎徹、2013年09月24日 (火))」http://maganetoru.blog.fc2.com/について

(句読点の軽微な修正をしました。:20130925)
(後半部分、下記の「したがって今、」の次の
「もう一度歴史を繰り返すと、原子力エネルギー利用の可能性が産まれていたかどうかも危うい。したがって「原子力が不可欠とされるのが、50億年後であるのなら、その準備は49億年後に始めても十分まにあうと言えないだろうか。」という問いは成り立たないと思います。そうではなく、」を削除し、

「「原子力が不可欠とされるのが、50億年後であるのなら、その準備は49億年後に始めても十分まにあう」ための条件を考えてみましたがよく分かりません。科学、技術の発展の論理や、そのために何が前提になっているか、偶然がどう作用するか、よく分からないからです。人間を信じていないのかもしれません。少なくとも、今、原子力発電研究と、原発、原発技術をリセットしてしまわないほうがいい。」を追加します。また、句読点の軽微な修正をしました:20130926)

丁寧な反論に感謝します。世の反原発を言われる論拠が全く理解できなかったのですが、やっと少し理解しました。
「9月14日の高原氏に宛てたメッセージに、氏は長文のコメントを寄せられ、しかも、その後ほぼ一週間にわたって毎日改稿された。日に何度も改稿されることもあった。」とのこと、
まず、何度も改稿したため、何度も読んでいただき御迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。そして、よく読んでいただいたことに感謝し感激しています。
ネットのやり取りのモラルにもまだ不案内です。申し訳ありませんでした。
(改稿の最新版は、「高原利生さんへ」(9/14)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-204.html#comment58
の[58]の高原のコメント(9/16)で読むことができます。自分でも前の投稿がどこか分からなくなるので、これは自分のためのメモでもあります)
実は、この後も改稿しており、さすがに、それは、石崎さんとのやり取りを逸脱するおそれがあるため、高原のホームページhttp://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ に移しました。ホームページでは、石崎さんは、「Iさん」にしています。ネチケットなるものに不案内なので、不備がありましたらお知らせください。ホームページの作り方を勉強しなければならないのですが、今はHTMLを自分で書いている状態で、見づらいです。とても、読んで、と言えないのが残念です。すみません。

反論を読んで、二つ言いたいことがあります。
一つは、石崎さんの最後のところ、「仮に原子力が人類に必要な技術だとしても、いま、我々の社会はそれを扱えるだけまだ成熟していないと言うべきではなかろうか。
 その技術が必要だとしたら、いまはその技術を可能にさせる社会的、政治的、経済的、文化的環境を整えることが先ではなかろうか。
 いまこの時点で、原発を容認することは、ぼくにはとてもできない。」
ということへの反論です。
最後のところ「いまこの時点で、原発を容認することは、ぼくにはとてもできない。」ということは、高原も賛成なのです。今の反原発の実際上の欠点は、弁証法的否定でなく、即時廃炉を主張する単純否定故に、今の原発の改善が提起できないことです。これが、「原発ゼロ」ということの最大の欠点かもしれないと思います。高原の前提に、原発の改善は可能だということがあります。多分納得されないと思いますが、原発の事故の確率はゼロにはなりませんが、いくらでもゼロに近くすることは、努力で可能です。
今のままなら、原発に必要な安全策が、主としてハード上の小手先に限られ、安全のための基本が無視され、何基かの原発廃炉でお茶を濁されて、結果として今のままの「原発を容認すること」になります。

その前の、石崎さんの「その技術が必要だとしたら、いまはその技術を可能にさせる社会的、政治的、経済的、文化的環境を整えることが先ではなかろうか」というところには、半分賛成、半分反対します。
半分賛成の理由は、今の世界は、経済合理性ではやっていけなくなっている、原発しかり、持続可能社会しかり、労働内容しかりだからです。今までの技術発展の必然法則を左右したのは経済合理性でした。資本主義だけでなく「社会主義」をうたった国の技術発展もその後追いでした。
だから、「その技術が必要だとしたら、いまはその技術を可能にさせる社会的、政治的、経済的、文化的環境を整えること」は必要です。それを主張することは正しいです。数十年前、共産党が、日本の原発導入に反対したのは今と比べて正しい面が多かった。
安全な交通、安全な原子力エネルギー、ものの完全リサイクルという三つの技術の課題と、持続可能な経済、自由で平和な愛の世界という二つの制度の課題はお互いが条件になっていて、同時に取り組まなければ達成できないと考えています。技術と制度は、切り離して扱えなくなってしまったと思います。切り離せるのは、観念の上だけで、技術と「技術を可能にさせる社会的、政治的、経済的、文化的環境」の実現は、同時に行うしかない。

すみません、書いていて、これは、石崎さんの文の一部だけを取り上げて、あげ足を取っている気がします。
と言いつつ、失礼の上塗りかもしれませんが、「行動より、まず心を正しくするのが先」という善意の宗教者を思い出しました。「行動より、まず心を正しくするのが先」というのは正しい。しかし、これも弁証法的否定をしなければならない。偉そうなことは言える立場でないのは分かっているのですが、行動と心は同時にしか変わらない。
このことを若きマルクスから教えてもらいました。(今は、「本は読まない」主義ですが、マルクスは例外にしたいと思っています)
経済学・哲学草稿、経済学・哲学手稿の次の文章です。人間、対象、社会(制度)三者の同時決定、相互依存関係を述べているところです。岩波文庫、国民文庫訳も合わせて示します。両方を繰り返し読んでやっと理解できた(と思っている)難解な部分です。
「対象が人間にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となる場合にだけ,人間は彼の対象の中で自己を失うことがない。このことはただ,社会がこの対象のなかで人間のための存在として生成するのと同様に,対象が人間にとって社会的な対象として生成し,また人間自身が自分にとって社会的な存在として生成することによってのみ可能である」経済学・哲学草稿、城塚訳,岩波文庫,p.139
「人間が彼の対象のうちに自己を失わないのはただ,この対象が彼にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となるときだけである。このことが可能であるのはただ,対象が人間にとって社会的な対象となり,彼自身が自分にとって社会的な存在となり,同様に社会がこの対象において彼のための存在となるばあいだけである」 経済学・哲学手稿、国民文庫、p.153)

さらに、安全な原発に向けての努力だけでなく、持続可能な経済も、労働内容改善、生きがい喪失問題も資本主義の枠を超えています。また、安全な原発に向けての努力、持続可能な経済も、世界中が共同で取り組まねば実現できない。資本主義を弁証法的に否定しなければならない。なのに、共産党は何をしているのだ、というのは別の問題ですね。話がそれました。

今の福島の問題対処のまずさの問題は、まさに、今の問題対処の問題であって、今後の原発をどうするかとは関係が余りないと思います。関係があるとすれば、今の問題もろくに対処できない人や政府、制度に将来の原発を任せられるのか、ということです。原発事故当時の民主党政権にも、今の政権にも将来の原発を任せられないのではないか、という問題はあります。
不謹慎と言われるのを覚悟して言えば、今回の福島は、折角、官僚や各政党が危機管理の経験を積むいい機会なのです。結果は今のとおりです。国力低下ということを思います。国という概念を相対化しなければならない時代なのに。

また「原発は事故を起こすから問題なのではない。正常運転していても問題なのだ」というのは、少し違うと思います。原発管理所内、地域周辺の安全管理のどういう問題があるか定かでないですが、問題は、解決しなければなりません。たびたびですみませんが、反原発の立場に立つと、既存原発の改善を提起しにくくなるのは、なんとかしないといけないです。
核のゴミについては、処理技術が開発されるまでは保管しておくしかないでしょう。最近のニュースで、今後、埋めて保管する予定のものを「取り出す」ように検討しなおすということを知って驚きました。今までは埋めたものを放置する予定だったのを始めて知った次第です。核ゴミ処理技術は、いずれ開発されます。一万年かかるかもしれませんが。

もう一つは、「5月15日付「雑文」のカテゴリー中の当表題)が誤解を与えたようだが、その文章でぼくが疑問を呈したのは、「50億年後の太陽、地球の運命」ではなく、そのときの「人類の運命」であった。はたしてそのときまで人類が存在しているのか、これは「いま考えることができる問題なのか」について、です。
何度もお読みいただいた9月14日と16日の文は、まさにこのことを考えようとして、これで石崎さんが何を言いたいのか考えたつもりでした。少し誤解をしていたようです。今回、こういうことだったのかと趣旨が分かりました。長々と半分、頓珍漢な内容をお読みいただくことになりました。申し訳ありませんでした。
石崎さんの、「いまここでヒトがすべての原子力技術を放棄したとしても、それを再びゼロから構築し直すのに、百年あれば十分である。そこからさらに完全な安全性を確保するのに、たとい10倍の時間を必要としたとしても千年である。
もし原子力が不可欠とされるのが、50億年後であるのなら、その準備は49億年後に始めても十分まにあうと言えないだろうか。」というのは、多分違います。そうであると言えないと思います。
今の人類は、結構、様々な歴史の偶然を経て現在の形になっている。ここで、歴史の偶然と必然のかねあい、というか混ざり具合が今の問題です。
だいたい、生命の誕生自体、偶然、生命の誕生の条件が満たされて起こりました。誕生以来、灼熱の地球や全球凍結の時代を乗り越え、地球上のほとんどの生命を死滅させる何度かの巨大隕石落下をも生き延びて、生きよ、種を残せという欲求がDNAに埋め込まれた生命が産まれました。これはほとんど偶然と言っていいと思います。適者生存という必然の法則に則ったものが生き残った、だから今の生命存在は必然だとは言えない。個々の偶然を無視して成り立つ法則は必然でも、個々の今の多様な種々の生命は偶然生き残った。
細かなことは知らないのですが、北京原人やネアンデルタール人は絶滅し、今の人類は全員が、アフリカに起源を持つ新人の子孫らしいです。アフリカに起源を持つ新人だけが生き延びたのも、偶然に近いと思います。
人類誕生以降、道具、言葉は、必然的に生じたと思うのです。そういう可能性を持った存在が人類だったので、というのは論理がどうどう巡りになりますが。
ただ、物々交換は、偶然に生じたというのが私の説です。誰も賛成してくれる人はいないですが。
2010年から、物々交換がどうして起こったのかについて考えてきました。これもきっかけの一つとなって、マルクス、エンゲルスの矛盾概念を変更することになりました。石崎さんが、
「なお氏はネット上に「TRIZ」に関する論文集を公開されている。これを読んでから反論を書くべきだと思ったが、長文の難解な論文集で」云々と書かれています。
正確に言いますと、公開したのは高原ではありません。ホームページの作り方を知らないので。作ってくださったのは大阪学院大学の中川徹教授です。最新の「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」が中川徹教授のホームページ
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/
に、載っけていただいています。
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html
読みにくく恐縮ですが、今までのまとめになっていますので、最初のほうの物々交換に関するところだけでも、お読みいただければ、と思います。(福島原発に関する記事も最近載りました。)
技術と制度が生じて以降、意図的な人間の努力が、歴史を左右するようになりました。意図的に目的を達成する可能性が大きくなったので、必然の度合いが大きくなり偶然の割合が減ってきていると思います。今は、経済合理性という鉄の必然法則に則っていることが問題ですが。
要するに、生命の歴史も人間の歴史も、偶然が左右する面が多いのです。
したがって今、資本主義の金儲け企業と制度が安全性軽視の原発を作っているとはいえ、人類のチャンスなのです。

「原子力が不可欠とされるのが、50億年後であるのなら、その準備は49億年後に始めても十分まにあう」ための条件を考えてみましたがよく分かりません。科学、技術の発展の論理や、そのために何が前提になっているか、偶然がどう作用するか、よく分からないからです。人間を信じていないのかもしれません。少なくとも、今、原子力発電研究と、原発、原発技術をリセットしてしまわないほうがいい。
しばらく今の原発を凍結し、安全な原発を作ってから、原発を普及させていくという案ならあり得ます。また、日本のような地震国では、原発はやめ、原発運用は、そうでない国に限る、原発開発は各国協力して行うという案もあり得ます。そういう案をいう政治勢力がいれば、その案は検討に値します。

しかし、いまある原発を捨てるのは、もったいない、化石燃料を燃やすのは、やめたい。技術の進歩は、現実の技術の改良と新技術開発の両面で必要、という前提があるので、今の不十分な原発でも、地震対策、運用の抜本改善という前提で基本的に再稼働するというのが現実的と思っています。繰り返しになりますが、原発の根本的な見直しを提案する政党がないのは、単純否定のゆえです。

これは知らず知らずのうちに、経済合理性を価値の前提にしていて、違っているかもしれません。しかし、経済合理性を否定する経済は将来のことで、しかも一国では成り立たないので、今は経済合理性をいう財界が再稼働を言うのは、その点だけは残念ながら正しい。せめて安全性を、「国民」の生活とともに、財界にも要求すべきです。
以上、またまた長くなりました。お許しください。

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