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ふたたび「50億年」

 当分、新規題材は扱わないつもりだが、行きがかり上、最低限の対応を必要とする項目もある。
 高原利生氏の「50億年後の地球のために原子力は必要」かどうかという問題である。
 この間、高原氏からは思いがけず暖かい激励をいただき、たいへん感謝している。だが、それはそれ、疑問は疑問として述べさせてもらうことをお許し願いたい。
 9月14日の高原氏に宛てたメッセージに、氏は長文のコメントを寄せられ、しかも、その後ほぼ一週間にわたって毎日改稿された。日に何度も改稿されることもあった。どこが改稿されたのかわからなかったので、ぼくはそのつど初めから読みなおした。読むつどに読みやすい文章になっているのがわかった。高原氏が非常にまじめに深く考えておられることも分かった。
 なお氏はネット上に「TRIZ」に関する論文集を公開されている。これを読んでから反論を書くべきだと思ったが、長文の難解な論文集で、すぐには歯がたちそうにないので、それは今後の宿題として、とりあえず14日付コメントについての疑問を申し上げる。

「いつか人類が原子力を必要とする時が来るかもしれない」ということは理解できる。
「技術の進歩は、実際にやってみて試行錯誤する中でしか生まれない」ということも理解できる。
 そして、「技術の進歩にとってある程度の犠牲は付きものであり、それが人類の存続にとって不可欠な技術なら、やめるわけにはいかない」(クルマの普及と交通事故死の問題を例示)ということも、理解できなくはない。
 その上で氏は、現在の原発の安全性が不十分であることを批判され、あくまでも安全性を第一においた技術の追求であるべきだと述べられている。その趣旨は理解できる。
 また原子力が必要となる時期については、「必ずしも50億年後ではない。もっと早いかもしれない」として、地球温暖化や、化石燃料の枯渇、あるいは巨大隕石の落下にも触れておられる。
 それらはすべて考察を必要とする対象ではあるが、そこまで議論を拡げることはただちにはできないので、議論の余地のないテーマ「50億年後の太陽消滅」についてのみ、今回考える。
「50億年後の太陽消滅」については議論の余地はない。この点ぼくの最初の文章(5月15日付「雑文」のカテゴリー中の当表題)が誤解を与えたようだが、その文章でぼくが疑問を呈したのは、「50億年後の太陽、地球の運命」ではなく、そのときの「人類の運命」であった。はたしてそのときまで人類が存在しているのか、これは「いま考えることができる問題なのか」ということに疑問を提出したのだ。というのはヒトが生まれてからまだたった500万年しか経っていないからである。いまから500万年後に人類が存在しているかどうかにさえぼくは疑問を持つ。
 もちろん将来の人類が滅亡しないために、いまできること、なすべきことをやらねばならないだろう。だが、「やらねばならない」ということと、「実際に生き残っているかどうか」ということとは別問題であろう。
 まして「50億年後」について、はたして「いま考えることができるか」という点は大きな疑問である。

 原子力の利用可能性にヒトが気づいてからでも、まだ百年ほどだろう。たった百年の間に、原子力の技術はゼロから始めてここまで進歩した。
 だとしたら、いまここでヒトがすべての原子力技術を放棄したとしても、それを再びゼロから構築し直すのに、百年あれば十分である。そこからさらに完全な安全性を確保するのに、たとい10倍の時間を必要としたとしても千年である。
 もし原子力が不可欠とされるのが、50億年後であるのなら、その準備は49億年後に始めても十分まにあうと言えないだろうか。
 ここでは50億年後以外の場合を捨象した。それはそれらがまた別個の議論を要求される問題だからであり、50億年後については議論の余地がないからである。少なくともこの項目だけは、高原氏の論述から削除されるべきだろうとぼくは考える。

 安全性を確保したうえでの技術の追求というのは、いまの時点では不可能なことのようにぼくには見える。
 原子力の技術そのものは実際にやることで試行錯誤するしか進歩しないだろうが、その技術の裏付けとなるあらゆる基礎的な研究は、別個に進歩し続けるだろう。
 そして何よりも懸念するのは、いまヒトが置かれている社会的、政治的、経済的、文化的環境は、はたして原子力の安全性確保にとって充分であると言い得るだろうかという点である。
 現実に原発の操業は、原発ジプシーと呼ばれる人々の被曝の上に成り立っている。何人がそのせいで早すぎる死を迎えたか、ちゃんとした統計はあるのだろうか。
 放射能は毎日洩れている。地域住民の健康への影響調査はなされているのか。
 原発は事故を起こすから問題なのではない。正常運転していても問題なのだ。
 たまる一方の核のゴミをどうするつもりなのか。
 その上に事故を起こし、その収束のために働く人々の被曝量はほとんど自殺的なのではないか。しかも収束の可能性は一向に見えてこない。
 仮に原子力が人類に必要な技術だとしても、いま、我々の社会はそれを扱えるだけまだ成熟していないと言うべきではなかろうか。
 その技術が必要だとしたら、いまはその技術を可能にさせる社会的、政治的、経済的、文化的環境を整えることが先ではなかろうか。
 いまこの時点で、原発を容認することは、ぼくにはとてもできない。
 これがこの問題に関するぼくの考えです。
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