プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

高原利生さんへ

 ご発言の趣旨よく分かりました。必ずしも全面的に賛同するわけではありませんが、そういう考え方もありうるということは納得できます。ただひとつだけ、ぼくの文章がまずかったのでしょうが、50億年後についてわからないといったのは、太陽や地球の運命ではなく、人類の運命です。ヒトとチンパンジーとが分離して500万年、そういう時間尺度において、50億年後というのはいま考えることのできる問題なのだろうか。その点は今でも疑問に思います。
 なお、ぼくのつたない文章へのご批判には、なるべく答えていくつもりでおりますが、いずれブログを閉じようと思っていますので、その時はあしからず、ご容赦願います。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
58:石崎徹さんの「高原利生さんへ」へのご返事20130914について by 高原利生 on 2013/09/16 at 08:57:45 (コメント編集)

石崎徹さんの「高原利生さんへ」へのご返事20130914について

石崎さん、「そういう考え方もありうる」こと、ご理解いただきありがとうございます。

石崎さんは「50億年後についてわからないといったのは、太陽や地球の運命ではなく、人類の運命です」「50億年後というのはいま考えることのできる問題なのだろうか。その点は今でも疑問に思います。」と言われます。このことについてのコメントですので、ご返事は無用です。

(第一にこの問題の意味)
50億年後の太陽と地球についての事実のおおまかな予測は、ほぼ出ています。
では、人類の運命は、その時にどうなるかは、「今の」個々の人間の持っている価値観、「今」そのために人間ができる努力と、その積み重ねによると、私は考えます。
これは、単純にある連続性を仮定しています。個人や集団の努力の積み重ねが累積して事実を変えていく。累積の要素があるためその変化は、加速的に進みます。

個人や集団の努力は、無意識かもしれないにせよ、その人の持っている価値観に依存しています。全くできないことは価値から除外されます。三百数十年前、のざらし紀行の芭蕉が、富士川にさしかかると、親に捨てられて泣いている子がいる。芭蕉はその子を見捨てて旅を続けます。捨てられた子を助ける制度がないときに、この芭蕉の態度は当然でした。制度上または技術上、全く不可能なことは、価値ではなく、不可能な価値実現のための行動は意識にも上りません。
これは、たった三百数十年でこんなに価値は変化する、だから50億年後のことなどとても考えられない論拠の例にも見えますね。

生命誕生以降、どの人間を含めたどの生命も、個の維持、子孫の維持は価値でした。それに失敗し絶滅した種も多いです。子孫の維持は、種の維持と同じではないでしょうがそれにつながります。しかし、個の維持、子孫の維持の欲望と環境適応力は、DNAに入っていて、種は維持されてきました。
太陽が輝きを止めるということに、DNAに組み込まれ能力での対処だけでは不十分です。

太陽の輝きがなくなって失われる人類や他の生命の維持に不可欠なものは何かが分かり、それをどう対処するかは、今の人間に分かっています。これは人類の発見、発明の最も大きなものだと思います。
大雑把ですが、何台かの超大型の宇宙船が生活の場になる人と他生命にも、地球に留まる人と他生命にも必要なことは、ものの完全なリサイクル、エネルギーの完全なリサイクル、平和な社会です。どれも困難な大きな課題です。特に、エネルギーのリサイクルは、安全な原子力増殖炉なら可能ですが、その技術は、今、全く確立されていません。

しかし、今、個々の人間の持っている価値に、「人類の存続」は入っていません。原発推進路線の中国共産党やフランス共産党も、「人類の存続」のために原発が必要だとは言っていないと推測します。日本が、反原発路線を取り、原子力開発は他国の開発に依存するというのは選択肢の一つです。(共産党は、全世界の反原発の先駆けに日本がなるのだと言っていますから、この路線を取るのではないようです)この場合でも、廃棄物の処理技術の研究などに限らず、原子力の科学者、技術者の育成は行い続けるべきですが、実質、これは不十分になります。現に、多くの原子力関係の大学の学科は定員割れを起こしています。
(共産党が「政策」にいう原子力の基礎研究に、原子力発電が入っているのかと、メールで質問したら「入っていない。安全な原子力発電が可能かどうかの研究は入る」ということでした。原子力の意義が分からず、技術の発展がどのように起こるかということに無知なのだと思いました)
せっかく日本には「国民」(という言葉は私も嫌いで、いつもカッコ付で使っています)の財産である(ということに異論があると思いますが)時価10兆だか20兆円の50基の既存原発があるので、せめてアメリカ並みの検査、運用を目指して改善を続けながら、できるだけ活用するのが良いと思います。今回の福島のような人災を防ぐことは、アメリカ並みの運用なら容易に可能でした。共産党が、反原発の理由の一つに、原子炉に何が起こるかは原理的に(という言葉を使っていたと思います)分からない、予測できないということを挙げているのを読んだ時には、目を疑いました。マルクス主義なり唯物論の大きな長所は、真理には時間をかければいくらでも近づいていけるという立場だと思っており、共産党もそうだと思っていたものですから。

今まで、意識された価値が積極的に人間の行動を左右することは、戦争時や革命時だけに行われてきました。平時に、緊急で急激な変化でないのに、新しい価値を提起し、それに従った行動を取れと呼びかけるのは、無理だと見えるかもしれません。

要するに、「50億年後というのはいま考えることのできる問題なのだろうか」と言えば、イエスでもありノーでもあるでしょう。しかし太陽消滅で失われる人類や他の生命の維持に不可欠なものは何かが分かっており、それにどう対処すべきかという「問題」も、分かっている。「問題」が分かってしまった以上、それに反する行動を止め、その「問題」を解き「問題」に役立つことをするということが最低限の「いま考えることのできる問題」であり、するべきことだと思います。これは50億年後だけでなく化石燃料枯渇などに備えるためにも必要です。

(第二にこの問題の性格の特殊性)
それに、根本的な技術が成熟しきちんと使われるまでに、根本的な技術であるほど時間が必要です。
自動車は、100年経ってやっと地上をちゃんと動くようにはなりましたが、安全な地上の交通システムになるのには、あと数百年かかるでしょう。このためには新しい交通システムの開発とともに、現在の自動車の改良も同時に必要です。飛行機や通信ネットワークでも同様です。
5月15日の石崎さんのメッセージで、
「共産党がすでに半世紀前に車社会を批判していたのをぼくは知っている。車のいらない都市計画、公共交通網、生活パターン、車優先から歩行者優先の道路行政、こういった提言を当時すでに共産党はしていた。
この点では共産党に先見の明があった。」
とありました。これは知りませんでした。私も「この点では共産党に先見の明があった。」と思います。当時の共産党には根源的に考える力があった。この提言は今どうなっているのでしょうか。いまでも有効なのでしょうか。この前の共産党の衆議院、参議院の時の政策には、交通については、とおりいっぺんの抽象的な二三行しかなかった記憶があります。
解決に時間がかかるから、といって放置するのでなく、この提言を活かす活動をしてほしいと思います。岡山県は、二百万以下の人口で、毎年、一万人が交通事故にあい、百人が死んでいます。
しかし、交通事故で失われるのは個の生命で、人類の生存が危うくなるわけではありません。

これに対し、未来の原子炉は、人間でいえば心臓のようなものなので、これで完全ということがなく、永久に安全に動く心臓を作るような課題はいつまでたっても残ります。安全性を含め完全なエネルギーリサイクルは、努力して理想に近づいていけるが理想にはいつまでたっても到達しない。そしてそれが人類の存続を左右します。この努力を続けないといけないという問題の性格が、50億年後、あるいは100年後の課題に今から取り組まなければいけないと思う理由です。

地球上の生命以上に大事なものがあるかもしれません。人の生命と他生命の関係、特に人と宇宙の他生命はどちらが大切かもよくわかりません。知的水準が高いほうが生命としてより価値があると勝手に思っていますが違うかもしれません。
ただ、少なくとも、人や他の個の生命が大事なら、それ以上に種の存続は大事だと思います。マルクスは、26歳の時に書いた経済学・哲学手稿(草稿)で、個体の維持(つまり個の生命の維持ですね)とならんで、種の維持をきちんと扱っています。個体の維持、種の維持を根本的だとして重視するのが、私の嫌いな言葉ですが「唯物論」ですね。(5月15日に石崎さんが読まれた私の文章の前半部分にその辺のことを書いています)
種の維持ができなくなる時が来るのが分かっていて、それを可能にする解決策が分かりかけているのだから、それを追求することを、目の前の問題の解決と同時にやらなければならない。これは、持続可能な社会を作るという、最近話題になりかけている問題と共通するところがあります。「ポスト資本主義」も同じように問題になっています。

(第三に、原発推進、反原発の主張と議論の論理の問題)
原発推進派の主張はほとんど読んでいません。
反原発の主張は、読む限り、例で論理のかわりにするか、論理のすり替えです。反原発の主張の論理のめちゃくちゃなことに危機感を持っています。
石崎さんの5月15日の「こういう著者には、ネビル・シュートの「渚にて」をぜひ読ませたい。これを読んでもなお原発が必要だという人は感情を持たない人だ」というのにも反論するべきですが、これもおそらく論理のすり替えがあります。

この5年間、マルクスとエンゲルスの矛盾、弁証法の修正をやってきました。
特にマルクスは間違ったことはほとんど言っていないのです。マルクス、エンゲルスの、「分業は悪」というのは珍しい間違いです。
矛盾、弁証法もマルクス、エンゲルスの言っていることは正しいのです。問題は彼らが言っていないことにあります。結果的に、TRIZの開発者、旧ソ連のアルトシュラーの矛盾を一般化したものになりました。アルトシュラーの矛盾は、彼らが言っていないことのほとんどを定式化しているのです。
今、ほとんどの人が、マルクス、エンゲルスの書いたことを解釈するだけです。学ぶべきは彼らの精神、態度なのに。この読む態度にも危機感を持っています。

原発をどうするかについては、様々な矛盾の定式化があり得ます。新しい矛盾で今回の問題を定式化できます。マルクス、エンゲルスの矛盾でも今回の問題の一部を定式化できます。
どちらでも解は弁証法的否定でなければならない。
しかし反原発の否定は、単純否定です。弁証法の例によく出てくる、卵を孵化し種を発芽させる弁証法的否定でなく、卵を壊し種をつぶしてしまう単純否定です。
議論も、本来、弁証法的否定の連鎖でなければならない。今は、原発推進派も反原発派も、めちゃくちゃの論理で結論を述べ、勝手に相手を単純否定するだけです。(お前の論理もひとりよがりだと言われそうです。現にそういう趣旨の善意の批判はよくされます。反省しよう)

石崎さんが言われた「50億年後というのはいま考えることのできる問題なのだろうか。その点は今でも疑問に思います。」ということを考えようとして、時間がかかりました。しかも、多分不十分で、余り説得力はないです。

最後に、植田さんも言われていたように、ブログはできれば続けていただければと思います。石崎さんのブログに気づいてまだ二日しか経ちません。「古本屋通信」さんに気づいたのも最近です。お二人の態度に共感するところが大きいです。教えられることも極めて多いです。お二人と違い、ふまじめなぐうたら老人ですが。
また、偶然ですが岡山県在住というのもお二人と共通しています。
以上、長くなり恐縮でした。

55:管理人のみ閲覧できます by on 2013/09/15 at 11:10:48

このコメントは管理人のみ閲覧できます

54:このブログのファンです by 植田 与志雄 on 2013/09/15 at 09:25:58 (コメント編集)

いつもこのブログを読んでいます。
自分はエンジニアで文を書くのは苦手ですが、このブログで書かれているコト、見方や捉え方や表現のひとつひとつがピッタリくるのです。いろいろ論争というか批判的な交流があるのでしょうが、もちろんその中身は部外者(?)の自分には分かりませんが、石崎さんの言い方は軟弱な自分に一種の勇気を与えてくれています。ブログを閉じるとありますが、閉じないでくださいね。

▼このエントリーにコメントを残す